天井が回って空も廻り、
床が回って地球が足元を抜けていく。
2度目の眩暈。
メニエル病まではいかないけど、休養をと・・。
しばらくなかったので、高を括っていたけど、
3日続くと流石、処方薬を飲んだ。
一週間しかくれなかった薬、
飲んで今日が3日目、
頭がふらふら、体が浮遊するのが無くなった。
運転は禁止されていたけど、今日は乗った。
身体に20キロの重しを付けたような、どっしり感。
首が坐ったような頭の重さ、
健康であつた時の躰の動き・・・
早く薬を飲んでおけばよかった。
私の病名?は・・・三半規管の血流不良。
自律神経のご乱調!であります。
明治42年、東京府立第三中学校5年生、17歳の二人の少年が、
上高地の槍ヶ岳、穂高岳に登った。
天候の悪い穂高に、登頂するか、下山するか、
とりあえず、腹ごしらえにコオンド・ビーフ缶とパンを食べ始めた時、
丸い腕時計の硝子に影が落ちた。
振り向くと、河童だった。
河童と出会ったのは、この時が初めてだった。
河童も驚き少年と灰色の河童は格闘し、
逃げる河童は緑色になり、触れると、すっと消えた。
格闘したのは👇
芥川さんが通った道は、河童橋、上高地の梓川に掛っていた橋。
今は👇
この吊橋は7代目で、
初代つり橋の前、芥川龍之介さんが通った橋は
撥ね橋であった。👇
泊まった宿は、上高地温泉ホテルで。
今は大改造され、観光客を和ませてくれている。
1927年、この年は、芥川龍之介さんは、
沢山の小説・エッセイを発表している。
玄鶴山房。河童。誘惑。文芸的に、余りに文芸的に。歯車。ある阿呆の一生。西方の人。続西方の人。1927年7月24日、芥川龍之介、服毒自殺。続西方の人は、7月23日に脱稿していた。余りに壮絶な死。書いたものに、敬意を抱くとも、生き方は好きになれなかった作家。芥川龍之介さん・・上高地の河童橋で冥福を・・・。
資料は上高地温泉ホテルサンからでした。河童には会えなかったけど、樹に乗り移った河童?
1927年7月23日から24日までの芥川さんの足取りを・・。
数日後に発表されたものです。
資料は讀賣新聞ではなかったかと・・記憶がはっきりしせん。