蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

個別の優位、普遍が引っ込む、トドのつまりLGBT

2023年10月04日 | 小説
(2023年10月4日)「自由とはなにか」をデカルトの「無関心」をテーマにして投稿した(9月6日)。題名は「Cogitoの自由」。この投稿でRuwen Ogien (1947~2017パリ、哲学者) をデカルトと対照させながら「1968年の学生運動の申し子。個人の位置を対社会・制度では最小限に捉え、周囲との関係を最大に捉える」と彼の肖像写真の下に説明を入れた。
デカルトとOgien(オジアンと読むのでしょうか)の差は普遍 « Universalité » と個別 « Particularité » どちらを優先するかにあります。もちろんデカルトは普遍を優先している。かれの「無関心の自由」の背景思想を「昼飯にカツ丼」で探ると :
味の好み、飽食感、手頃値段などでカツ丼を選んでいる訳ですが、ここには個別事由のみを優先して選んでいる。味とは旨さや脂分のノリ、噛み締め心地などで成り立つ。カツ丼を選ぶ事由はそれらを味あいたくて、味成分の下僕に成り下がっている。K老人(部族民通信の後援者)は、昼飯にカツ丼を専らとするのが自由の遂行と勘違いしている。彼は味の奴隷と財布の追従者にすぎず、そこに自由などない。
「自(おのれ)の由し、自由」とする選択、これが « Liberté de différence » 関心と利得の展開としての自由であり、これは最低の自由だとデカルトは蔑んだ。そして自由に「神」を持ち込んだ。神は結果に無関心で選択する。それが最良の選択となる。なぜなら全知全能だから。ここには「神」なる普遍が謳われ、そして自身の利得(これが個別particularité)を否定する姿勢を讃えた。自由に2重の普遍を持ち込んだ訳です。「汝ら懸命に考えCogitoして神に近づけ無関心に選択しろ」が« Liberté d’indifférence » 無関心の自由。

「昼飯に何を食う」尋ねられるデカルトは « Saucisse frites » ソーセージにフレンチフライやら « Faufilait frites » 牛ロインにフレンチフライ=いずれも昼飯定番、などと具体名を明かさない。明かすと「無関心の自由」と違うと突っ込まれる。そこで « De quoi manger, pour casser la croutes, est suffisant pour moi » 何でも良し、パンの皮を崩すだけ、それで十分と優等生の答えを返す(はずです)。
デカルトが生きていた時代の「それまでの」世界では同性愛は否定される。ただ一つの理由は「子を再生産」できないから。人類に属するヒトがこの世に生きる理由は、己は必死に生きて子をもうける2点に尽きる。おのれが属する種「人類」とその目的「世代再生産」の2の普遍にヒトは制約されているのだから。
「1968年パリ、学生騒乱」の申し子と紹介したRuwen Ogienは何を語るか。


ご婦人は「私の体は私のもの」と主張する。お腹の子を堕胎するのも私の勝手よ!

「個人は何事も許される」さらに「カツ丼結構、天丼も捨てきれない」己の嗜好の放縦を全面的に認める(はずだ)。
普遍を否定し自身の個別性、性愛や欲望、嗜好に走れば、不自由から開放されるとOigenは教えている。それがヒトとしてのくびきを跳ね除けられ自由を獲得できると。彼が否定した普遍は人類、社会、道徳、規律、戒め、信仰など。そして尊んだ個別とは欲望、感情、嗜好です。
日本ではパリ騒動の1年遅れ(1969年)で東大安田講堂占拠など学生騒乱が猖獗したが、制度改革など社会変化は何も日本には起こらなかった。しかしパリ学生騒乱はフランスなどヨーロッパ諸国に大きな変化をもたらした。
1 堕胎の解禁(フランスでは1975年、ヨーロッパ諸国も70年代) 学生騒乱のデモに混じってあるご婦人が « Mon corps est à moi » 私の体は私のモノのスローガンを掲示した。実は私(渡来部)はこの意味を字義通りに受け止めた「それって当たり前だよ」と。さる物知り婦人に「堕胎する権利」と教えられ、寡聞に恥じ入った。 « La femme possède le droit de tuer l’enfant » 女は己の子を殺す権利を持っているーと正しく書いてあれば間違わなかった。堕胎は殺人です、このの趣旨で6月27、29日(23年)に人はいつから人か(上下)投稿している。 
2同性愛の権利。堂々と生活を共にするから始まって(パリでは1980年代には人前で抱き合う男同士が見られた)。更に同性婚の承認。LGBT運動(自認すればいつでもどこでも性を替えられる。温泉宿に入って「女だと自覚した」瞬間に女湯で覗き放題。この地獄模様はすぐ目の前。
3大麻解禁。オランダ、カナダでは全面解禁と聞く。
すべてが1968年の学生騒乱に端を発している。運動は学制変革や学生寮のMixte(男女共有)だけを求めたのではない。旧来の権威を否定し、個人の権限を全面肯定した。言い換えると「普遍を排し個別を尊んだ」。


こちらは私の体私の選択。選択とは堕胎するかしないか
(写真はいずれもネット採取)

他者(周囲)への迷惑をかけない限り。大麻、同性愛、同性婚ーなんでもOK。だって周囲に迷惑をかけないから」(Ruwen Ogien)。普遍性を否定し個別性を褒め称える、これが68年騒動を今も引っ張る21世紀の倫理結末です。了



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