和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』(吉川弘文館刊)に関して思うことがある。それは「宇和地帯」の地域設定についてである。この「宇和地帯」という言葉は、地元においては日常的に持ちいれられるものではなく『宇和地帯の民俗』(和歌森太郎編)の出版により、民俗学界のなかで一般化したものである。和歌森グループの用いた「宇和地帯」とは「愛媛県西南部を占める宇和島市、北宇和郡、南宇和郡の地を指す。」とされている。この調査地設定の理由は、1 和歌森らが前年調査した国東半島と不即不離の位置にあること。2 鉄道の通らない陸の孤島であること。3 地域を宇和四郡に設定して調査を行うには広大であること。この3つが挙げられている。しかし、この設定には、いくつかの問題、弊害が存在する。<問題点1>国東との不可分の関係を指摘しているが、実際、「宇和地帯」は文化圏としては同じ大分県でも、国東よりも大分県南部地方との関係が強く、「不即不離」とするのは強引である。<問題点2>和歌森は、地域設定の前提で述べたような国東との関係を具体的には述べてはいない。これは和歌森以後においても同様である。<問題点3>和歌森グループによって『宇和地帯の民俗』が刊行されることによって、「宇和地帯」イコール南北宇和郡、宇和島市が定着し、その結果その他の宇和地域である東西宇和郡の総合民俗調査が遅れることとなった。つまり、「調査地域の設定」が結局のところ「文化圏の設定」と認識されてしまったといえよう。文化圏としていえば未調査の段階なので確定出来ないが、仮説として「宇和地帯」とは宇和四郡の地がひとつのまとまりを持っているといえよう。その理由は次に挙げるとおりである。・旧宇和島藩の牛鬼、八つ鹿、祟り信仰などこの地域特有の習俗がある。歴史的に見て伊達氏の入藩がこの地域特有の文化形成に果たした役割は大きい。(歴史的に見て宇和島藩としてのまとまりを持っていたこと。)・習俗に影響を与えた存在として修験者が挙げられるが、宇和地帯には篠山権現や鬼ケ城(奈良山)が存在し、独自の信仰圏をを作っていた。国東の六郷満山寺院群に匹敵するほどの仏教文化地帯となっていた。文化的に見て独時も仏教文化圏を持っていた。(平安時代の仏像から推察可能)・九州とのつながりの深さ、これは特に大分県南海部郡との言葉の類似性、交流の存在。ゆえに和歌森の調査地域としての「宇和地帯」ではなく、文化圏としての「宇和地帯」の設定のための調査が必要と考える。 2000年05月05日
平成8年1月の調査ノートより
越智郡大西町東明寺諏訪神社に明治10年8月奉納の遷宮絵馬あり。
宮脇、山之内、脇、新町、大井濱の五村の氏子が奉納したもの。
幅4メートル90センチの大型絵馬。
八幡神社に合祀されていた諏訪大明神を分祀して現地に遷座させるときの行列を描いたもの。奴行列の奴、牛鬼、御箱、御鉄砲、御弓、傘遣、獅子、三番叟、三味線、太鼓、摺鐘、櫓輿、御輿が描かれている。牛鬼は、菊間町浜地区のものを出している。
絵馬にはっきりと「牛鬼」の墨書が残っている。ただしこの牛鬼の形態は現在見られるものとは少々異なっている。
いずれにしても菊間の牛鬼に関する史料として貴重なものである。 2000年05月05日
伊予史談198号で池内克水氏が菊間町の牛鬼について紹介している。牛鬼は愛媛県南予地方とその周辺地域にしか見られない祭礼の練物である。しかし、分布上、飛び地のように越智郡の菊間町の加茂神社祭礼にのみ牛鬼が見られる。なぜこの地に牛鬼があるのか不明であるが、池内氏は菊間に伝わる牛鬼に関する伝承を次のように紹介している。 1・昔、疫病が流行している時、疫神退散を願って牛鬼をつくり、厄祓いをしたことにより始まった。その後、牛鬼を出さなかった年に、奉仕していた地域に再び疫病が流行することがあったのでその後は中絶することなく今日まで続いている。2・昔、牛の妖怪が出て、農作に大被害を蒙ることが続いた。そこで人々は相談して慰霊のために牛鬼をつくり、祭事に奉仕することにより、その後被害から免れることができた。 結局は南予地方と菊間町の牛鬼の相関関係はわからずじまいである。2000年05月05日