愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

愛媛の「縄文」文化

2000年05月08日 | 衣食住

 最近、「縄文」がブームになっている(ような気がする)。
 これまで、縄文時代から弥生時代、そして歴史時代への移行を論じるにあたっては、採集狩猟経済から生産経済へ発展するといった進化論的な考えがそこにあった。エンゲルスの野蛮から未開へ、そして文明へという発展法則に照らし合わせて、縄文(イコール野蛮もしくは未開下位)、弥生文化(未開中位)、そしてその後の文化(文明)を見てきた感がある。学校で教わる歴史の教科書にもその視点ははっきり見えるし、研究者の間でもそうである(あった)。
 近年、東北地方において相次いで高度な文化を持つ縄文遺跡が発掘され、縄文史観がくつがえされており、また、東北文化研究センター(赤坂憲雄氏)の提唱する「東北学」は「ひとつの日本からいくつもの日本」と称して、東北をベースに民族史研究を行うことで、これまでの西日本(畿内)中心史観を揺さぶろうとしている。
 さて、ここ愛媛でも、「縄文」を視野に入れた新たな研究成果が生まれている。近藤日出男氏の食文化史の研究である。先日刊行された『四国食べ物民俗学』(アトラス出版)は、近藤氏が四国山地をフィールドワークし、ドングリやトチ、彼岸花、トウキビなどの食文化が「縄文」から連綿と続くものであることを紹介している。これまで、愛媛の民俗研究では「弥生」は見えても「縄文」までは視野に入っていなかったと思う。その意味で近藤氏の成果は画期的である。
 これまで発展法則に基づいた縄文観ではあったが、現在にも縄文文化は身近に息づいていることを目の当たりにすると歴史も違ったように見えてくる。 2000年05月08日

調査ノート-八幡浜市大島-

2000年05月08日 | 八幡浜民俗誌

 昨年10月と今年2月の二度、八幡浜市の沖に浮かぶ大島に渡ってみたが、その時の調査ノートをまとめてみた。調査内容は秋祭りが主ではあったが、種々雑多なことを聞き書きしてみた。

・大島の人口は現在460人余り。戦後間もなくの最も人口の多いときには、1200人程いた。
・八幡浜市大島は、約330年前に開島した島で、昭和43年に建立された記念碑に、次のように記されている。
「寛文九年穴井浦庄屋井上五助、次男庄右衛門ヲ召シ連レ、開島ノ足跡ヲ印シテヨリ本年三百歳ノ光陰ヲ閲ス。コノ佳歳ニ当リ、先人ノ遺徳ヲ偲ビ、将来ノ発展ヲ祈念シテ、●(ここ)ニ、三百記念碑ヲ建立ス。
                 記
寛文九己酉三月井上五助翁次男庄右衛門渡島開島ノ鍬ヲ入ル。寛文十二年弥三衛門、久助、六兵衛、勘三郎兵衛、善吉、三郎右右衛門渡島、寛文十三年、作蔵渡島、以上本島ノ開祖トナル、天明六年三月二十九日庄屋ノ命ニヨリ平助、豫兵衛、善之●(じょう)、平十郎等四名、三崎ヘ大豆種子ヲ求メ行ク途中遭難シ、不帰ノ客トナリ、六地蔵トシテ合祀サル。以来、栄枯盛衰ヲ重ネ●(ここ)ニ人口一千有余人ヲ数エ今日ニ至ル」(天明六年に遭難した人たちを祀る六地蔵は願海禅寺の入り口に安置されている。)
・開島300年記念碑の近くには、大正7年4月に建てられた「開嶋二百五十年記念碑」もある。この碑には具体的な銘文は刻まれていない。
・大島は、粟の小島、大島(本島)、三王島、地大島、貝付小島の大小5つの島からなる。そのうち人家があるのは大島(本島)だけである。理由は井戸水が他の島からは出ないからである。
・大島の神社、小祠は、若宮神社(大島本浦)が最も大きな神社で、小社として、三王島に三王神社、地大島の竜王宮、貝付小島にも竜王宮、本浦に高島様が祀られている。
・秋祭りの祭日は昔は旧暦10月18日だった。新暦では11月中旬以降になることもあり、かなり寒い時期にやっていた印象がある。それが、昭和40年頃に八幡浜市の祭日に統一して10月19日としたが、祭りの日が同じになると、八幡浜市から親戚や客が来れなくなり、不都合になったので、市内よりも一日早めて10月18日に変更し、現在に至っている。
・祭りには、牛鬼1体、神輿2体、龍1体が出される。牛鬼はかつては2体だされていたが、人手不足により、数が減ってしまった。
・牛鬼や神輿を担ぐ際のかけ声は「オーホンヒエーイ」である。これの意味は地元ではわからないようである。ただし、漁の網をひく際にもこのかけ声を用いる。近隣では、八幡浜市川名津で「ボーホンイェーイ」といい、八幡浜市街で「フンエーイ」とかつて言っていた。大島では、力を入れる際の声として「フンエーイ」が原型としてあり、それに強調の「オー」が付加されて、「オーホンヒエーイ」になったのではないか。
・秋祭りは本浦にある若宮神社の大祭である。この神社には専属の神主はいない。今は、八幡浜市穴井の薬師神氏が来ている。それ以前は五反田の菊池家が来ていた。
・島内には神社の管理をする宮守さんがいる。代々、本浦の伊藤家がやっている。
・この宮守の家の前はお旅所となっており、そこに「サンボウコウジン」という一種のオハケを立てる。「三宝荒神」の字をあてるのだろうが、島の人は「三方荒神」と言っている。これは約5メートルほどの竹をお旅所の真中に立て、その頂上に柄杓を付ける。また白木綿も垂らしている。三方を藁縄で張って立てている。このオハケは神の依り代とでもいうべきものであり、これを立てることが南予地方の祭りの特徴であり、古い形であるといわれている。
・このオハケは現在でも南宇和郡では用いられているが、これまで八幡浜、西宇和地域では確認できていなかったので、今回、新たな発見であった。大島が祭りの古い形をとどめていることをうかがわせる良い材料である。(なお、秋祭りではないが、4月の八幡浜市川名津の柱松の時に、神楽を舞う施設である「ハナヤ」の脇に、3メートル程の笹竹に柄杓、白木綿をつける三宝荒神を立てる。これもオハケの一種である。)
・大島の祭りには芸能は昔からないという。
・祭りでは年により種々の作り物が出されることがある。最近は小学生たちが龍を出している。(6、7年前から)
・この龍は、長崎のくんちで出されるものを模したものであると思われる。長さは4メートル程で5人で持つようになっている。
・龍だけではなく、太刀魚や鯛、鮑の作り物を出していたこともあった。
・練りは若宮神社を出発して、本浦、江ノ浦、加重、音泊を通って、大島小中学校まで行き、その前の海岸から船に乗って「船みゆき」がある。牛鬼、神輿、神輿、龍それぞれを船に乗せた4艘が、大島の南隣の三王島の三王神社前まで行って上陸する。そこから雉ヶ浦を通って若宮神社に戻る。
・船みゆきに使用する船はかつては和船を用いており、櫂を用いていたので「カイネリ」と言っていた。
・船みゆきは神輿を乗せた2艘の船が競争していた。しかし、牛鬼の船を追い越すことはなかった。
・6、7年前まで使用していた牛鬼の頭を、雉ヶ浦の高野氏が所有している。これはプラスチック製である。これは20年頃前に製作したものという。製作の際に、古い頭を参考にしている。この牛鬼頭の型は、宇和島地方で明治時代から昭和20年頃に製作されたものと同様のものである。宇和島地方の古態をとどめているので興味深い。大島の人はこれを八幡浜地方の牛鬼の型といっている。
・近年使用している牛鬼頭は、現在の宇和島の牛鬼をもとに製作したものである。よってそれ以前の牛鬼とは表情が異なっている。
・大島の牛鬼はプラスチック製である。張り子ではない。これは、船みゆきの際に、各地区の前を通る時に牛鬼の首を振りながら海中に浸けて、海水を飛び散らす。
・大島の島内で結婚する者も多かったが、大正時代頃までは、地区外では真網代、穴井、周木の人と結婚することが多かった。今でも親戚がこれらの地区には多い。
・かわうその化かされる話として、次のようなものがある。
「漁師が沖で漁をしていると、かわうそがこっちこい、こっちこいと手招きするので、行って見ると、船が陸に上がっていた。」
「島の人がかわうそを捕獲して家に連れてかえると、捕獲されたかわうその親が、毎晩、かえせ、かえせと言いに来た。」
「夜2時ごろ、海岸をあるいていると、海岸にはちまきをして、子守をしている女性がいた。「お前はかわうそじゃろうが」と叫ぶと、消えてしまったという。」
・大島の向いの穴井でも似たような話があり、かわうその化かされて、一晩中、山中を歩かされた人がいるという。また、かわうそが手招きして、風呂をわかしたから入れというから入ってみると、実はお湯ではなく、枯れ葉だったという話もある。
・かわうそは、昭和20年代までは人家の近くに生息しており、身近な動物だった。
・かわうそが捕獲されたのは昭和40年に磯だて網にひっかかったのが最後である。
・大島のかわうそは三崎のかわうそとつがいだといわれる。(どちらが雌雄かは不明)
・願海禅寺境内には、1メートル程の棒状石柱がある。銘は「日本廻国願成供養塔 明和四丁亥九月日 行者禅関是誰上重」とあり、明和4年の廻国供養塔であることがわかる。八幡浜市内でも数例しか確認できていない石造物であり、これまで報告されていないものであり貴重である。
・享保18年に建立された石像地蔵菩薩坐像がある。これは、市内でも古い部類に入る石造物である。
・三王島は、安芸の宮島のように神島としての性格があったようで、島の小石などを持っていってはいけなかったといわれている。この三王島の頂上に祀られていたのが三王神社で、現在は海岸沿いの道路に面したところに社殿を移している。この神社は大島の中でも最も古いとされ、開島以前は穴井浦の信仰神であり、大島開島後は、大島の海の守護神として、また安産の神として信仰されている。安産のご利益があるといわれるようになった由来は、慶応2年正月12日に、伊達御前様が難産につき、御心願があったことによる。島外では大洲方面からも安産の祈願に来ている。奉納物を見ると大阪からも来ているようである。
・貝付小島には、竜王が小祠に祀られているという。この島は潮流の関係で、漂流死体がよく流れつくといい、それを祀ったものともいわれている。
・地大島の南端に大入池(竜王池)があり、そこに竜王宮が祀られている。この宮は、三瓶町周木に向かって位置しており、大島以外からも周木や八幡浜市向灘からも参拝する者がいる。宇和海沿岸の漁に出る際には、この竜王宮の前の海を通過することがあり、その際に酒を奉納したりしていた。この宮の常夜塔は向灘大内浦、中浦の人が寄進している。トロール漁船が漁に出る時は、竜王沖で船を止めて祈願してから出漁しているという。
・戦後間もなくまで、旧暦6月15日の竜王宮の祭りの時に、大島地区の主催で相撲大会が開催されていた。青年相撲であり、県内各地で行われていたものである。伊方町や大洲方面からも参加者があり、盛況だった。
・勝者にはボンデン(御幣の一種)と金一封の賞金が出た。昭和10年代で100円という大金だった。
・竜王にはつぎのような言い伝えが残っている。
竜王はもとは五反田にある保安寺の池に住んでいた。しかし竜王が大きくなりそこの池が狭くなったので、大島の大入池に移り住むことになった。その際、三瓶町周木から渡ったといわれる。(五反田では舌間から渡ったとされる。)
・竜王は、渡る際に、美しい娘に化けて、周木の漁師が船で連れていった都いう。その後、その漁師は豊漁続きで、妻に豊漁のきっかけ(竜王を連れていったこと)を話すと、もとに戻ってしまったという。
・竜王宮では、五反田保安寺の住職が一生に3度まで雨乞い祈祷ができるという言い伝えがある。大島の願海寺の住職も昭和60年ごろに一度雨乞いをしている。また、島の人が、雨乞い踊りを奉納することもあった。蓑笠を着て、カネや太鼓をたたいた。
・昭和21年か22年に大島の南部に位置する地大島にて野ねずみが大発生したことがある。この頃、宇和海のいくつもの島々でねずみが発生している、最も有名なのが20年代中ごろの日振島での大発生である。主にイモに被害が出た。
・この時、島の古老によると、それ以前にもねずみの大発生したことがあり、その時には、漁師が魚だと思って網をひきあげると、大量のねずみだったという話がある。ねずみは大群で海をわたるといい、地大島のねずみの大群も突如として少なくなったという。外の島に渡っていったといっている人もいる。また、鼠が海を渡るとき海面が赤色に染まったともいわれている。
・この話は鎌倉時代初期成立の「古今著聞集」20魚虫禽獣にある、宇和郡黒島の漁夫が海中から多くの鼠をひき上げたという説話に通じるところがあるので興味深い。
・大島の歴史、民俗に詳しい人として、大島江ノ浦の田中 強氏(老人会会長)がいる。昭和2年生まれ。漁に関する伝承について詳しい。
・大島では、昭和40年頃まで、四つ張(ヨツバリ)という漁法で漁をしていた。主にホウタレ(カタクチイワシ)を捕るもので、25人程度で行っていた。船は全部で5艘を使う漁で、風上に位置するのが「カザウエ(風上)」、風下に位置するのが「カザシタ」、風に向かって右側に「マアミ(真網)」、左側は「サカミ(逆網)」これらの4艘(それぞれ5~6人が乗る。)が正方形になるように位置し、その中央部で「ヒブネ(火船)」(1~2人)が火をともして魚をおびきよせる。火船の近くに魚が集まってきたところを、周囲の4艘が網を張って一気に捕獲する。
・昭和24年に漁業制度改革で、特別漁業権は消滅し、網元が漁業権をもち、多くの網子を使う形はなくなった。漁業権が個人から組織へ移った。
・四張網は昭和30年には、大島で、9統あり、八幡浜市周辺には63統あったという。(小川博『海の民俗誌』名著出版 1984)
・火はもともとはタイマツだった(昭和初期以前)が、戦前にガスになり、戦後、バッテリーが使用されるようになった。
・現在では、漁は個人個人で行っているが、四ツ張では全島あげて漁をしていた。網を引き上げる際には、子供も手伝っていた(小遣い稼ぎになったという)。
・大島の亥の子は漁業と密接な関係にある。旧暦の10月の亥の日に行っていたが、現在では11月にやっている。亥の日は年によって2回の時と3回の時がある。最初の亥の子を「ハツイノコ(初亥の子)」といい、この時には網元が餅をついて、網子(乗組員)を家に招待して、餅を配る。次の亥の子を「ナカイノコ」といい、この時には船主が乗組員を家に招待し、御馳走する。最後の亥の子を「オトイノコ(乙亥の子か?)」といい、この時は各家庭で行う。
・正月2日は「乗りぞめ」の日である。早朝に船主が船の船霊様に、酒やお菓子などを供える。供物は、子供達が取っていく。
・大島では土葬がまだ残っている。火葬する場合は、八幡浜市の火葬場に船で遺体を持っていく。
・葬具は願海禅寺の倉庫にて管理されている。
・新仏の家では、11~12月の巳午の日に「ミンマ」を行う。餅をついて墓前に持っていき、親族で分配するという儀礼である。餅は、鎌を左手に持って切ることになっている。
・また、8月15日の晩には、精霊船流しを行う。この行事は現在では、瀬戸町大久、川之浜、大江で行われているが、八幡浜市内ではまったく知られていないもので、非常に興味深い事例である。
・この行事を地元では「オセイレイブネ」という。現在はベニヤ板で畳一畳分の大きさの船をつくり、その年の死者の数だけの人形を乗せる。人形には戒名を書いた旗を背負わせる。供物ものせる。昔は船は麦藁で製作していた。大きさももっと大きかった。
・8月8日に「ナキネンブツ」といって、死者のあった家の者が寺に集まって盆棚をつくって、供養する。
・8月16日に百万遍念仏を寺で行う。
・8月24日がお棚下げである。
・盆灯篭は、江ノ浦の田中強氏がつくっている。形は4角であり、八幡浜型である。
・大島は旧真穴村だった。昭和51年に発行されている八幡浜市真穴小学校の『まあな 開校百周年記念誌』に大島をはじめ、真穴の民俗に関する記述がある。ただし、これは八幡浜市民図書館にも所蔵されておらず、真穴小学校にはあった。 2000年05月08日