昨年度9月に愛媛県生涯学習センターで行われた「愛媛学トーキング」にて、赤坂憲雄先生の講演があり、それを拝聴した際の感想。
赤坂先生が愛媛に来られ、地元の発表者とのディスカッションがあるとうかがい、私は以前より、このトーキングを実に楽しみにしていたが、当日は、赤坂先生の話を聞き、「聞き書き」の大切さを改めて実感した。
ディスカッションでは会の進行や地元パネラー等との議論が半端となり、少々残念であった。当日、会場参加者からの質問や感想を述べる機会があればよかったのだが、時間の都合で無かったため、その時の私なりの感想をメモとしてまとめていたので、それを以下掲載する。
柳田国男は郷土研究を「郷土人自身の自己内部の省察」と述べていますが、私は最近、民俗学者の調査・記録により、各地域の人々が自分の郷土の民俗を「客観視」し、「大切なもの」、「残すべきもの」、果ては「伝統行事」へと無意識のうちに祀りあげてしまうことに、抵抗を感じています。抵抗というより、そのこと自体を客観視してしまいます。果たして民俗学者は何故に民俗学をやっているのか。民俗学者とは何物なのか。民俗学者の活動が、時代の流れや地域文化を変えているのではないか。必要以上のことを民俗学者(私自身)はしているのではないかと、自己の内部省察をしてしまいます。(以前、ある芸能調査に行った際、男子のみが行う芸能が人手不足だと聞き、「他の地区では女子でもやるようになってますよ」と伝えたところ、翌年、その芸能を取り上げた新聞記事に「県の博物館学芸員の助言により、女子も参加」と出てしまい、自分の責任を痛感したことがあります。)赤坂先生はそういった点をどのような立場で考えるのか、会場で質問してみたかったのです。(質問が受け付けられなくて残念でした。)
(そのように考える事自体、私が民俗学者失格ということかもしれません。)
また、赤坂先生が当日話された内容や「山野河海まんだら」は、聞き書きにより「記録」をすることが主眼であったかと思うのですが、地元パネラーの場合、弓削の村上氏を除き、「おらが町の民俗」(とはいっても、廃絶してしまった行事を今日風に復活させた新文化とでも申しましょうか)を、町おこし、地域連帯のために「活用・実践」している事例の報告でした。
私は博物館に勤務していつも悩んでしまうのですが、民俗学はどこまで地域にタッチすれば良いのでしょうか。赤坂先生の場合、民俗誌を執筆し、東北文化友の会という地元貢献につながる活動をされていますが、私にとっては博物館展示活動で地域に密着していればよいのですが、民俗学をとおしての地域との連関が不明瞭です。未熟ゆえアイデンティティが確立できていません。(展示が自己満足の域を出ないのです。)宮崎県椎葉の永松氏のような立場と自分を比較して考えてしまいます。
私は愛媛学や山形学のような地域学が、私の悩みを解決する手がかりになるかと思っていました。愛媛学のように、毎年聞き書きによる報告書を出版し、シンポジウムにて地域の人々に公開・発表していく。このような事業が私ども博物館もできていたら良いのに・・・、といつも考えていました。
ただし、今回の愛媛学トーキングでは、赤坂先生の話した「記録・保存」を主眼にした報告と、大西氏や山田氏が話した「活用・実践」を主眼にした報告を、愛媛学(地域学)としてどのように理論付ければよいのか、どのように関連づけていくべきなのか、そこが当日、話題として出てくればよかったかなと思いました。コーディネートの問題で、その立場の違いが調整できていなかった感想を持ちました。これは単にコーディネートの問題だけではなく、愛媛学(地域学)そのものが内包する課題ではないかと思います。
愛媛学の趣旨については、県の御用達(といえば語弊があるかもしれませんが)の学者(地理学等の重鎮の先生)が作成したもので、突き詰めていけば「お国自慢」になってしまいますし、「愛媛県文化絶対主義」に陥りやすいものです。生涯学習センターで実践されている先生方の活動は評価できると思いますが、愛媛学(地域学)の根本理念には疑問を持ってしまいました。
民俗学界内部でも、若手研究者が「日本民俗学よさようなら」と言い、多文化主義を出張していますが、愛媛(地域)を「内からの眼」・「外からの眼」で冷静に分析できる愛媛学(地域学)として、何とか理論付けはできないものか。模索しなければいけないなと実感しました。 2000年05月07日