愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

古代のあしぎぬ-正倉院展より-

2000年05月21日 | 衣食住
 私の勤務する愛媛県歴史文化博物館で、5月20日に「よみがえる正倉院宝物-再現された天平の技-」展が開幕した。この展示は、日本文化の源流として古代の技術を今に伝える正倉院宝物の復元模造品約70点を中心とするもの。展示資料は戦前に帝室技芸員、戦後は人間国宝作家らが制作した物で、いずれも正倉院宝物の制作当初の姿を模している(現在は、宮内庁正倉院事務所と奈良国立博物館に保管されている)。
 天平時代の雰囲気を味わうことができるので、一見の価値あり!

 伊予国関係の資料としては、「伊豫国調白あしぎぬ」(「あしぎぬ」の漢字がATOKの文字パレットで探しても見つからない・・・。いとへんに「施」の旁の字です。)が展示されている。正倉院に伝わる調あしぎぬのうちで、国名が判明しているのは、常陸、武蔵、丹後、伯耆、伊予、土佐の6か国であるが、各国それぞれにあしぎぬの織密度や経糸、横糸の太さが違っている。規格化されていたわけではないようだ。天平18(746)年に献納されたもので、「伊予国越智郡石井郷戸主葛木部龍調あしぎぬ六丈」の墨書があり、上下に国印が押されている。(手許にあった『愛媛県編年史』を確認すると、「上方に国印、下方に郡印が押されている」とあるが、どういったことだろう。単なる『編年史』の記載ミスだろうか? 気になるなあ・・・。)
 それにしても、「あしぎぬ」は平織りの絹で、「悪し絹」から派生した語と言うが、実物を見るととても悪い(粗い)絹だとは思えない。古代の技術の高さを実感することができます。
 この展示は、6月18日(日)までです。

2000年05月21日

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山口県光市牛島の牛鬼伝説

2000年05月21日 | 口頭伝承
 平成10年12月19~20日に山口県光市の沖にうかぶ牛島に渡った。その島に伝わるという牛鬼伝説を調べるのが目的であった。
 19日には、光市文化センター、光市立図書館にて牛島および牛鬼伝説の文献調査を行なった。その際、図書館館長である国廣氏に牛島の歴史と民俗の概況について教示をうけた。20日には、牛島に移動し、地元の住民から聞き取り調査を行なうとともに、牛鬼を退治した藤内図書の墓を調査した。そこで見聞した牛鬼伝説とは次のようなものであった。
 牛島には牛鬼の伝説があり、牛鬼を退治した橘道信の墓がある。墓石は高さ107センチの天・人・地石の三段からなるもので、正面に戒名、左面に俗名の藤内図書橘道信、右面に没年の永禄三年(1560)申四月十八日、人石に家紋を二つ陰刻し、均整のとれたものである。
 牛鬼の話は、瀬戸内海に海賊が横行する天文年間(1532~54)に、牛鬼という者が、周防灘近辺に出没し掠奪を繰り返し、ついに牛島に現われ、裕福な浄土宗の尋常寺や民家を襲い放火し、島民を残害するなどして島を占居した。この時伊予国(現愛媛県)の住人橘道信が牛島に漂着っし、惨状を見て驚き牛鬼退治に奮起し策をたて、越後国(現新潟県)の生まれで三輪村に住む城喜兵衛平朝臣高経という名誉ある弓術者と謀り、牛鬼を射殺したという。その後離散した人々は追々帰島し、住み慣れた三浦地区が廃虚となっているので、今日の集落に家屋を建て、元の様な豊かな島になったともいわれる。道信は藤内図書と名を改め、牛島に住み着き子孫も今日まで続いている。喜兵衛は後に出家し、法名を了通といい、弘治2年(1556)三輪村に善流寺を創建した。それ以後江戸時代を通じて菩提寺のない島の人々は、離散地でほどこしを受けたことにより、三輪村の善流寺や余田村の明顕寺の門徒となっていたが、明治4年(1871)麻郷村(現田布施町)の教念寺を牛島に引寺し、ほとんどの家がこの寺の門徒となった。廃虚となった三浦付近に立輪という所があり、別名を赤石とも呼び、そこの大石で牛鬼が牙を磨いたという。
 私は、昨年、論考「牛鬼論-妖怪から祭礼の練物へ-」(愛媛県歴史文化博物館研究紀要4号に掲載)をまとめたが、この牛鬼伝説は西日本各地に51箇所あることを指摘した。ただし、まだまだ伝説はあるに違いない。時間をかけて丹念に調査していくつもりである。

2000年05月21日

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