鹿踊は獅子舞の一種で、一人立ちで鹿頭をかぶり、胸に鞨鼓を抱え、幌幕で半身を覆って踊るもので、南予地方周辺の祭礼に登場する民俗芸能である。一人立ちの鹿踊(シシ舞)は、東北地方をはじめとする東日本に広く分布しているが、西日本では、福井県小浜地方と愛媛県南予地方周辺のみ見られる。南予地方の鹿踊は、江戸時代初期に、宇和島藩初代藩主伊達秀宗が宇和島に入部した折に、仙台から伝えられたと言われているもので、源流は東北地方にあり、仙台周辺の鹿踊と共通する点が多い。 鹿踊は、南予地方でも旧宇和島、吉田藩領内とそれに隣接する地域に分布しており、牛鬼と同様に、宇和島地方からその周辺に伝播したもので、約百箇所で踊られている。東限は大洲市、長浜町、肱川町であり、南限は高知県幡多郡になる。上浮穴郡に鹿踊は見られず、牛鬼よりは分布の範囲は狭いのが特徴である。 名称は「シカオドリ」、「シシオドリ」、「カノコ」等であるが、踊る人数によって「○ツ鹿」と呼ばれることが多い。 踊る人数は地域によって異なり、宇和島市や城川町窪野等では八人で踊る「八ツ鹿」、吉田町等では「七ツ鹿」、城川町下相等では「六ツ鹿」であるが、ほとんどは五人で踊る「五ツ鹿」である。八幡浜では舌田、川上、真穴に五ツ鹿踊があるが、昭和二〇年代までは五反田にも五ツ鹿踊があった。 南予地方の鹿踊は、江戸時代に仙台から宇和島に伝えられた当時は、八人で踊る「八ツ鹿」であったが、宇和島から各地に広がるうちに鹿の数が減り、現在は五人で踊る「五ツ鹿」が一般的となっているという俗説がある。 ところが、宇和島城下で踊られた鹿踊、つまり宇和島市裏町一丁目の鹿踊は、現在では「八ツ鹿」であるが、江戸時代末期成立の絵巻を見ると、五ツ鹿であり、明治時代以前には五ツ鹿であった。実際には大正時代に宇和島に摂政宮(後の昭和天皇)が来られた際に、台覧に供するために八ツ鹿に変容させているのである。つまり、南予地方の鹿踊は、仙台から伝えられた当時が何頭であったかは不明だが、少なくとも江戸時代後期には五ツ鹿が主流であり、これが宇和島から八幡浜地方をはじめ南予各地に伝播したと考えられる。 八ツ鹿踊が本流で、各地に伝えられるうちに五ツ鹿踊になったというのは、「創られた伝統」であり、実は史実とは異なるのである。
2000年05月25日 南海日日新聞掲載