愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

五ツ鹿踊

2000年05月25日 | 八幡浜民俗誌

鹿踊は獅子舞の一種で、一人立ちで鹿頭をかぶり、胸に鞨鼓を抱え、幌幕で半身を覆って踊るもので、南予地方周辺の祭礼に登場する民俗芸能である。一人立ちの鹿踊(シシ舞)は、東北地方をはじめとする東日本に広く分布しているが、西日本では、福井県小浜地方と愛媛県南予地方周辺のみ見られる。南予地方の鹿踊は、江戸時代初期に、宇和島藩初代藩主伊達秀宗が宇和島に入部した折に、仙台から伝えられたと言われているもので、源流は東北地方にあり、仙台周辺の鹿踊と共通する点が多い。 鹿踊は、南予地方でも旧宇和島、吉田藩領内とそれに隣接する地域に分布しており、牛鬼と同様に、宇和島地方からその周辺に伝播したもので、約百箇所で踊られている。東限は大洲市、長浜町、肱川町であり、南限は高知県幡多郡になる。上浮穴郡に鹿踊は見られず、牛鬼よりは分布の範囲は狭いのが特徴である。 名称は「シカオドリ」、「シシオドリ」、「カノコ」等であるが、踊る人数によって「○ツ鹿」と呼ばれることが多い。 踊る人数は地域によって異なり、宇和島市や城川町窪野等では八人で踊る「八ツ鹿」、吉田町等では「七ツ鹿」、城川町下相等では「六ツ鹿」であるが、ほとんどは五人で踊る「五ツ鹿」である。八幡浜では舌田、川上、真穴に五ツ鹿踊があるが、昭和二〇年代までは五反田にも五ツ鹿踊があった。 南予地方の鹿踊は、江戸時代に仙台から宇和島に伝えられた当時は、八人で踊る「八ツ鹿」であったが、宇和島から各地に広がるうちに鹿の数が減り、現在は五人で踊る「五ツ鹿」が一般的となっているという俗説がある。 ところが、宇和島城下で踊られた鹿踊、つまり宇和島市裏町一丁目の鹿踊は、現在では「八ツ鹿」であるが、江戸時代末期成立の絵巻を見ると、五ツ鹿であり、明治時代以前には五ツ鹿であった。実際には大正時代に宇和島に摂政宮(後の昭和天皇)が来られた際に、台覧に供するために八ツ鹿に変容させているのである。つまり、南予地方の鹿踊は、仙台から伝えられた当時が何頭であったかは不明だが、少なくとも江戸時代後期には五ツ鹿が主流であり、これが宇和島から八幡浜地方をはじめ南予各地に伝播したと考えられる。 八ツ鹿踊が本流で、各地に伝えられるうちに五ツ鹿踊になったというのは、「創られた伝統」であり、実は史実とは異なるのである。

2000年05月25日 南海日日新聞掲載

祭りと地域絶対主義

2000年05月25日 | 祭りと芸能
TBSの番組に「ここがヘンだよ日本人」がある。私にはお気に入りの番組で、毎週欠かさず見るようにしている。妻は口論の絶えないこの番組内容を敬遠して、ついチャンネル争いになってしまうのだが、私は強引にチャンネルをTBSにあわせてしまうのである。今日の内容は、「自分の国は世界一!自慢」ということで、ブラジル人のシェラスコ料理、インド人のカレー、イラン人のペルシャ絨毯が紹介されていたが、紹介する側は、自分達が世界一だと譲らない。しかし他国の人はそれにブーイングの嵐。
自民族絶対主義(エスノセントリズム)が垣間見えるし、他国の文化を認めようとする文化相対主義も同時に感じられる。私はこれを見るのが面白いのだ。
さて、愛媛の題材に眼を移すと、似たような事例がある。
「祭り」である。新居浜市民は太鼓台が一番だと言って譲らないし、西条の人はだんじりが一番だという。松山なら神輿、南予であれば牛鬼である。それぞれに誇りを持っていて、譲ることはない。この地域文化絶対主義は素晴らしいことと思う。自分の足元の文化に誇りを持つこと、これは大切である。ただし、それぞれの市民が、自分の地域の祭り以外を無視、もしくは排他してしまう傾向があるのには抵抗がある。愛媛の祭りは地域によって様相が著しく異なる。これをすべて理解するというのは難しいことだが、地域絶対主義の立場と共に、他地域の祭りも相対化して見ることのできる眼を持つことも必要だろう。私は県内各地の祭りを見て歩いて常々そういったことが頭の中をよぎってしまうのである。祭りの調査に嫌気がさす瞬間もあれば、同時にますます好きになってしまう、このアンビバレントな感情を抱かせてくれるもの。奥が深いなあ・・・。 

2000年05月25日