東北地方の鹿踊は、六頭から十二頭までの多頭の一人立ち獅子が陣形を組んで踊るもので、その系統はいくつかにわかれる。宮城県には仙台市を中心に「仙台鹿踊」と称するものと、宮城県北部から岩手県南部にけかて、ササラという背中に長い竹を背負って振りたてて踊る「行山流」の系統をひくものとがある。南予地方の鹿踊は秋祭り等の神社祭礼の練り物として登場するが、東北地方の鹿踊は、盆に家々を巡り、祖霊供養と五穀豊穣を祈る踊りであるという違いがある。また、旧仙台藩領内である岩手県江刺市の鹿踊の場合、踊り手が踊りを修得した際に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石造の鹿踊供養塔を建立する。このように、東北地方の鹿踊は、盆の死者供養や「南無阿弥陀仏」の銘が示すとおり、仏教的な側面が色濃いのである。神社祭礼にのみ登場する南予鹿踊とは対照的である。
また、鹿頭も、南予地方のものは鹿を模した形状であるが、東北地方の頭は、鹿ではなく、獅子という恐ろしい形相を示している。このことから、鹿踊のことを南予地方では「シカオドリ」と呼ぶが、東北地方では「シシオドリ」と呼んでいる。
『宮城県史』によると、宇和島藩に伝わった鹿踊は、宮城県桃生郡矢本町鹿妻のものであると記されているが、それを裏付ける史料、伝承は確認できず、根拠に乏しい。
江戸時代、仙台藩では芸能政策として、鹿踊等の芸能を管理しており、藩主伊達家から庇護を受けていたのは、大崎八幡宮であり、その地元である八幡町の獅子踊については、特別扱いであった。鹿踊は大崎八幡宮の別当寺である龍宝寺において管理されており、新たに鹿踊を行う場合には、寺の許可のもと、地元である八幡町の鹿踊から伝習している。この八幡町から伝わったといわれる鹿踊には、仙台市川前鹿踊、同市福岡鹿踊などがあるが、南予地方の鹿踊と比較してみる、頭の形状は異なるものの、歌詞が同様であったり、幌幕が横縞模様が類似しているなど、様々な共通点がある。このことから、江戸時代に宇和島に伝わった鹿踊は、仙台藩の八幡町の鹿踊である可能性は高い。(参考:『仙台市史民俗編』)
また、菅江真澄が記した史料によると、江戸時代の東北地方の鹿踊の頭は、現在とは異なり、実際の鹿の顔を模しており、南予地方のものと類似している。これは、東北地方では、盆の先祖供養など祓え・除災の要素が強調されて、恐ろしさを持つ獅子へと頭の形状が変遷したのに対して、南予地方では、仙台から伝播した当時の形態が保たれていると考えることができ、南予地方の鹿踊は、東北地方の鹿踊の古態を示しているとも言える。
南予地方の鹿踊の頭は、鹿のままで恐ろしさを付帯しなかったのは、盆の先祖供養ではなく、神社祭礼の練物として定着したことと、その練物の中に、牛鬼や獅子舞といった、祓えの役割を担うものが他に存在し、鹿踊には除災ではなく、招福が期待されたため、優美な芸能として今日に至っていると考えられる。
このように、南予鹿踊は、形態上は東北鹿踊と共通する点も見られるが、踊り自体、東北地方は勇壮であり、南予地方は優美であるといった違いがあり、その要因は鹿踊の供養的側面といった機能は東北地方から南予地方には伝わらなかったことに求めることができる。
2000年05月26日