愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

愛媛・災害の歴史に学ぶ3 周期的におこる南海地震

2019年12月03日 | 災害の歴史・伝承
 静岡県沖から四国沖を震源として連動して発生するとされる「東海地震」(駿河湾から遠州灘)、「東南海地震」(遠州灘から紀伊半島沖)、「南海地震」(紀伊水道沖から四国沖)の3つの大地震を総称して「南海トラフ巨大地震」と呼んでいますが、過去をひも解くと、およそ100年から200年の間隔でこの種の地震が発生しています。
 直近では、和歌山県潮岬南南西沖を震源とする南海地震が昭和21(1946)年12月21日に発生し、愛媛県内では26名の死者が出ています。その2年前の昭和19(1944)年12月7日に紀伊半島南東沖を震源とする東南海地震が発生し、双方の連動地震で犠牲者は全国で計2,500名以上とされています。
 その前の南海トラフ地震は、昭和の約90年前、嘉永7(1854)年11月4日に東海、東南海地震が発生し、その32時間後の11月5日に南海地震が起きて、関東から九州までの広い範囲で大きな被害が出ています。この地震の直後に改元され、元号は「安政」となったため「安政地震」と呼ばれています。地震の規模は昭和南海地震がM8.0、安政南海地震はM8.4といわれ、安政の方が大きい地震規模で、揺れ、津波被害も昭和より甚大でした。
 その安政よりも被害が甚大だったのが安政の約150年前、宝永4(1707)年10月4日の宝永地震です。東海、東南海、南海地震の3連動で発生し、地震規模はM8.6とされています。この時は伊予国(愛媛県内)でも津波による死者が南予地方を中心に20名近く出ています。『楽只堂年録』など幕府へ報告された死者数は5,000名余りで、実際にはさらに被害が大きかったと推定されています。
そして宝永の約100年前には、慶長9(1605)年12月16日に慶長地震が発生しています。この地震では津波被害が甚大で、房総半島から紀伊半島、四国にその記録が残っています。その前は慶長の約100年前、明応7(1498)年に発生し、さらに137年前の正平16(1361)年6月24日に正平南海地震が起っています。『太平記』によるとこの時は「雪湊」(徳島県由岐)で大津波によって1,700軒の家々が被害を受けたとされています。
その前となると、正平の263年前という長いブランクとなりますが、承徳3(1099)年正月24日に発生しています。この年は地震と疫病が頻発したので元号が「承徳」から「康和」に改元され、「康和地震」と称されています。土佐国(高知県)で千余町が海底となった、つまり地盤の沈降による海水流入が大規模に見られ、歴代南海地震でも同様の被害が見られます。その康和の212年前の仁和3(887)年7月30日に仁和地震が起こり、近畿地方を中心に大きな被害が出ています。その仁和の203年前に発生した南海トラフ地震が、『日本書紀』に記された天武天皇13(684)年10月14日の白鳳地震となります。このように、文献史料からひも解くだけでも、古代から現代まで南海トラフを震源とする大地震がおよそ100年から200年の周期で起こっていることがわかるのです。