江戸時代、九州肥前国島原(現在の長崎県)の雲仙岳で火山活動が続いていたところ、2度の強い地震が起こって東端の眉山が山体崩壊し、その土砂が有明海に流れ込み、対岸の肥後国(現在の熊本県)に大津波が押し寄せた災害。いわゆる「島原大変肥後迷惑」が寛政4(1792)年4月1日に起こっています。崩壊した土砂の量は3億4000万立方メートルに上るとされ、それが島原城下を通って有明海へと一気に流れ込みました。土砂は海岸線の約900メートル先までを陸地と化し、その衝撃で島原では高さ9メートル以上、肥後側では5メートル以上の津波が襲いました。その災害での死者・行方不明者は島原で約1万人、肥後で5千人の計1万5千人を越えると言われています。これは有史以来、日本で最大の火山災害とされています(註 都司嘉宣、日野貴之「寛政4年(1792)島原半島眉山の崩壊に伴う有明海津波の熊本県側における被害,および沿岸溯上高」(『東京大学地震研究所彙報』 第68冊第2号、1993年)。
この大災害「島原大変肥後迷惑」については、愛媛県八幡浜市真網代の庄屋の記録「二宮家系図調書真網代古事録」(成立年代は明治時代後期。江戸時代から明治30年代の真網代地区の事蹟が編纂、掲載されている)にも記述があり、「嶋原温泉嶽壊崩」、「当辺迄、七日七夜ノ猛音ス」と書かれています。つまり、雲仙眉山の山体崩壊とそれに伴う津波の轟音が、愛媛県にまで響き渡っていたということがわかります。
雲仙眉山の山体崩壊の原因は火山噴火によるものではなく、地震によるものとされています。爆発的噴火であれば音が四国まで響き渡っても不思議ではないのですが、地震による崩壊の音が四国まで聞こえていたとすると、かなりの轟音だったと思われます。「嶋原大変記」に「百千ノ大雷一度ニ落チルガ如ク天地モ崩」とあるように一度に百、千もの雷が落ちたような轟音だったようで、それが四国まで届いていたのです(註「嶋原大変記」『日本農書全集第66巻 災害と復興一』農山漁村文化協会、1994年)。
実はこの「真網代古事録」は既に知られた史料で、宝永4(1707)年の宝永南海地震など災害記述も見られ、災害研究では引用されてきた文献でした。しかし取り上げられる災害は愛媛県内のものに限られ、「島原大変肥後迷惑」に関する記述は見落とされてきたのです。平成28年4月の熊本地震の発生を契機に、改めて九州での地震に関する史料がないのか今一度、各種史料を確認したところ、この記述が確認できたのです。現在のところ、愛媛県内で確認できる「島原大変肥後迷惑」の史料は「真網代古事録」のみです。
災害の歴史は、現在の都道府県単位で考えるのではなく、近畿、中国、九州と四国といった県境を越えて災害史料を突き合わせてみることが大切なのだと、熊本地震のあと、改めて考えさせられたところです。
なお、島原の眉山は、寛政4年の山体崩壊のあとも、明治22(1889)年の熊本地震の際も山が崩れ、平成28年熊本地震でも小規模ですが崩れています。このような史料情報の集積は防災の上で大事なことであり、愛媛県内の災害史料情報も各時代ごとに集積の上、四国内外で共有する必要があるといえます。
この大災害「島原大変肥後迷惑」については、愛媛県八幡浜市真網代の庄屋の記録「二宮家系図調書真網代古事録」(成立年代は明治時代後期。江戸時代から明治30年代の真網代地区の事蹟が編纂、掲載されている)にも記述があり、「嶋原温泉嶽壊崩」、「当辺迄、七日七夜ノ猛音ス」と書かれています。つまり、雲仙眉山の山体崩壊とそれに伴う津波の轟音が、愛媛県にまで響き渡っていたということがわかります。
雲仙眉山の山体崩壊の原因は火山噴火によるものではなく、地震によるものとされています。爆発的噴火であれば音が四国まで響き渡っても不思議ではないのですが、地震による崩壊の音が四国まで聞こえていたとすると、かなりの轟音だったと思われます。「嶋原大変記」に「百千ノ大雷一度ニ落チルガ如ク天地モ崩」とあるように一度に百、千もの雷が落ちたような轟音だったようで、それが四国まで届いていたのです(註「嶋原大変記」『日本農書全集第66巻 災害と復興一』農山漁村文化協会、1994年)。
実はこの「真網代古事録」は既に知られた史料で、宝永4(1707)年の宝永南海地震など災害記述も見られ、災害研究では引用されてきた文献でした。しかし取り上げられる災害は愛媛県内のものに限られ、「島原大変肥後迷惑」に関する記述は見落とされてきたのです。平成28年4月の熊本地震の発生を契機に、改めて九州での地震に関する史料がないのか今一度、各種史料を確認したところ、この記述が確認できたのです。現在のところ、愛媛県内で確認できる「島原大変肥後迷惑」の史料は「真網代古事録」のみです。
災害の歴史は、現在の都道府県単位で考えるのではなく、近畿、中国、九州と四国といった県境を越えて災害史料を突き合わせてみることが大切なのだと、熊本地震のあと、改めて考えさせられたところです。
なお、島原の眉山は、寛政4年の山体崩壊のあとも、明治22(1889)年の熊本地震の際も山が崩れ、平成28年熊本地震でも小規模ですが崩れています。このような史料情報の集積は防災の上で大事なことであり、愛媛県内の災害史料情報も各時代ごとに集積の上、四国内外で共有する必要があるといえます。