火災に対する消防は、明治時代中期以前には現在のような公的組織があったわけではなく、住民による自主的な活動が基本でした。明治6年2月に石鈇県は「失火消防規則」を定め、住民に対して松山・今治等の市街地では街ごとに月番を、郷中では戸々にそれぞれ消防出役を義務づけています。そして戸長が消防活動を指揮し、防火器具を備え、失火合図の方法などを規定しました。明治時代初期には県が消防体制の整備を意図していたものの、消防活動に従事するのは住民自身であり、消火責任も住民が負うという自主体制だったのです(註:『愛媛県史 社会編』)。消防が公的に組織化されるのは明治27年以降のことです。明治27年に「消防組規則」が明治政府により制定され、府県知事に消防組設置の権限を与え、その維持管理を市町村に任せ、警察署長に指揮監督させることとし、全国的に画一された近代消防体制が組織化されることになりました。愛媛県においては大正時代末期には271組が置かれています。ただし常設常備の消防組織ではなく、火災の時だけ出動する義勇消防でした。常備消防は大正13年に松山市に6名を配置したのが始まりで、昭和5年に消防ポンプ車を常備し、昭和7年に現在の「119番」にあたる火災通報用電話を松山警察署に置き、次第に県内各都市にも広がっていきました。戦後には昭和22年の「消防団令」により現在に続く消防団が確立し、それまで内務省・府県警察主管課の管轄であったものが自治省消防庁のもと市町村消防として現在に至っています(註:『愛媛県百科大事典上』昭和60年、663頁)。
さて、それ以前の江戸時代の消防はどうだったのでしょうか。例えば大洲藩において慶安4(1651)年『大洲町中拾人与(くみ)』という町内の諸規定の中に消防に関する規定が見られます。①毎夜、町代が町内を回ることを、一番小屋に詰めて夜回りをする「番太郎」に十分に申し付け、特に風の強い時には町代が警戒巡視すること。②火の用心のために桶、「さをえんさ」(大きなハタキ。水を浸けてたたき消す道具)を常備し、火事を発見したら道具を持って出動すること。③梯子を各町内に4個は備え置くこと。④町内の水路を定期的にさらえ掃除し、油断をなくすこと。以上のような防火対策が申し渡されていました。これは城下町における規定であって、拾人与を主体とするいわば近所の人々による駆け付け消防でした。やはり現在のような公的な消防組織は江戸時代の地方都市にも見られなかったのです。大洲では文政元(1818)年に「出火の節、太鼓櫓にて知らせ、鐘打つ事始まる」と『加藤家年譜』にあり、大洲城の太鼓櫓に見張り人を置いて火災の早期発見を行うようになっています。これは江戸時代中期から後期にかけて城下町で大火が相次いだことによるものと思われます。また、新谷藩においては町方の町内に水路を設け、溝底に瓦を敷き詰めて流れを良くし、火災のときは新谷藩邸の池(現在の新谷小学校の池)の樋を抜いて、この溝に水を流した上でせき止めて消防用水とするなど町ぐるみでの防火対策がとられていました。
なお、家屋の屋根を瓦葺きとすることも消防対策の一つでした。もともと江戸時代初期から中期に城下町が形成された際には武家屋敷は瓦、板もしくは杉皮葺きで、一般の町家は瓦の使用は認められていませんでした。ところが大洲では享保から元文年間に大火が相次ぎ、600軒近くが被災した元文5(1740)年の大火の後、町家でも瓦屋根とすることを差し支えないとする通達が出ています(註:『大洲市誌』昭和47年、380〜381頁)。
このように地域における消防組織は明治時代後期以降に次第に整備されたのであり、それまでは地域住民主体となって防火体制を構築していたのです。
さて、それ以前の江戸時代の消防はどうだったのでしょうか。例えば大洲藩において慶安4(1651)年『大洲町中拾人与(くみ)』という町内の諸規定の中に消防に関する規定が見られます。①毎夜、町代が町内を回ることを、一番小屋に詰めて夜回りをする「番太郎」に十分に申し付け、特に風の強い時には町代が警戒巡視すること。②火の用心のために桶、「さをえんさ」(大きなハタキ。水を浸けてたたき消す道具)を常備し、火事を発見したら道具を持って出動すること。③梯子を各町内に4個は備え置くこと。④町内の水路を定期的にさらえ掃除し、油断をなくすこと。以上のような防火対策が申し渡されていました。これは城下町における規定であって、拾人与を主体とするいわば近所の人々による駆け付け消防でした。やはり現在のような公的な消防組織は江戸時代の地方都市にも見られなかったのです。大洲では文政元(1818)年に「出火の節、太鼓櫓にて知らせ、鐘打つ事始まる」と『加藤家年譜』にあり、大洲城の太鼓櫓に見張り人を置いて火災の早期発見を行うようになっています。これは江戸時代中期から後期にかけて城下町で大火が相次いだことによるものと思われます。また、新谷藩においては町方の町内に水路を設け、溝底に瓦を敷き詰めて流れを良くし、火災のときは新谷藩邸の池(現在の新谷小学校の池)の樋を抜いて、この溝に水を流した上でせき止めて消防用水とするなど町ぐるみでの防火対策がとられていました。
なお、家屋の屋根を瓦葺きとすることも消防対策の一つでした。もともと江戸時代初期から中期に城下町が形成された際には武家屋敷は瓦、板もしくは杉皮葺きで、一般の町家は瓦の使用は認められていませんでした。ところが大洲では享保から元文年間に大火が相次ぎ、600軒近くが被災した元文5(1740)年の大火の後、町家でも瓦屋根とすることを差し支えないとする通達が出ています(註:『大洲市誌』昭和47年、380〜381頁)。
このように地域における消防組織は明治時代後期以降に次第に整備されたのであり、それまでは地域住民主体となって防火体制を構築していたのです。