昭和21(1946)年12月21日に発生した昭和南海地震。愛媛県内で死者26名を出すなど大きな被害をもたらした地震ですが、戦後間もない混乱期でもあり、その被害の様子を克明に記録した史料等は多くはありません。その中でも獅子文六が執筆した小説『てんやわんや』は、昭和南海地震の様子を具体的に記述しており、将来の南海トラフ巨大地震が起こる際、参考になるかと思われます。
獅子文六(明治26年〜昭和44年)は、太平洋戦争終戦の直後に妻の実家のある岩松町(現在の宇和島市津島町岩松)に疎開し、その時の様子を題材に『てんやわんや』を執筆し、昭和23年から24年にかけて毎日新聞で連載されました。『てんやわんや』は闘牛、牛鬼、とっぽ話、方言など南予地方独特の文化が取り上げられており、これまでも南予の民俗を知る上では重要な作品として知られていました。
『てんやわんや』では主人公の犬丸順吉が東京で戦犯の容疑から逃れるため「相生町」(モデルは岩松)に疎開します。物語の終盤、犬丸は「相生町」から「檜扇」(モデルは御槇)に行っていた際、南海地震に遭遇します。「昭和二十一年十二月二十日・・・・・いや、もう二十一日の領分に入ったかも知れぬが(中略)闇黒のなかに、轟々と、天地も崩れる物音が、暴れ回っていた。同時に、私の体は、宙に持ち上げられ、また、畳に叩きつけられ、何か固いものが、額へゴツンと衝突し、土臭い埃の匂いが、急激に鼻を襲った。」、 「村道の所々に、大きな亀裂ができたり、大石が転落していたりする」と地震の揺れの状況や地面の亀裂、岩の崩落が記されています。犬丸はすぐに「相生町」(岩松)に戻りますが、その被害も大きく、「私は拙雲の寺のある裏山へ踏み込んでいた。(中略)驚いたことに、彼の古寺は、二本の蘇鉄が立ってるきりで、潰れた折詰のような形になっていた。」と寺院が倒壊している様子や、「一歩を町に踏み入れると共に、予期以上の惨状に驚いた。本町通りは、ほとんど全滅と言ってよかった。ブック・エンドを不意に外した書籍のように、家々は倒れ、傾き、道路は、砕けた瓦と、壁土と、絡まった電線と、あらゆる塵芥で、埋められていた。」と家屋倒壊など建物被害が大きかったことを紹介し、さらには津波被害についても記しています。「しかも、その堆積物は無残に泥水で濡れ、下駄や、樋や、また漁村でなければ見られない、舟道具などが散乱していた。(中略)川は、黄色い濁流を、滔々と漲らせ、川上に向って、逆流していた。私は、相生町が地震のみならず、海嘯にも見舞われたことを、直覚した。(中略)海嘯は、今暁の地震の直後に起り、その時が最も烈しく、その後、数回寄せてくるが、河岸通りだけの浸水に止まっている、とのことであった。私は、幾度か、堆積物に躓きながら、やっと、玉松本家の前へ出た。」とあり、岩松に津波が押し寄せて、河川に面した通りは浸水して物が流され、泥などが堆積した様子がうかがえます。
これらの記述は文学作品なので「事実」とは異なる「創作」の側面も考慮しなければいけませんが、実際、岩松は昭和南海地震で建物被害、津波の浸水、地盤の沈降での防波堤の被害や田畑への海水流入などの被害が見られ、昭和23(1948)年には地元岩松から国会に復旧工事の陳情がされるほどでした。この『てんやわんや』は愛媛県、特に南予地方沿岸部での南海地震被害を想定する上で参考となる作品だといえるでしょう。
獅子文六(明治26年〜昭和44年)は、太平洋戦争終戦の直後に妻の実家のある岩松町(現在の宇和島市津島町岩松)に疎開し、その時の様子を題材に『てんやわんや』を執筆し、昭和23年から24年にかけて毎日新聞で連載されました。『てんやわんや』は闘牛、牛鬼、とっぽ話、方言など南予地方独特の文化が取り上げられており、これまでも南予の民俗を知る上では重要な作品として知られていました。
『てんやわんや』では主人公の犬丸順吉が東京で戦犯の容疑から逃れるため「相生町」(モデルは岩松)に疎開します。物語の終盤、犬丸は「相生町」から「檜扇」(モデルは御槇)に行っていた際、南海地震に遭遇します。「昭和二十一年十二月二十日・・・・・いや、もう二十一日の領分に入ったかも知れぬが(中略)闇黒のなかに、轟々と、天地も崩れる物音が、暴れ回っていた。同時に、私の体は、宙に持ち上げられ、また、畳に叩きつけられ、何か固いものが、額へゴツンと衝突し、土臭い埃の匂いが、急激に鼻を襲った。」、 「村道の所々に、大きな亀裂ができたり、大石が転落していたりする」と地震の揺れの状況や地面の亀裂、岩の崩落が記されています。犬丸はすぐに「相生町」(岩松)に戻りますが、その被害も大きく、「私は拙雲の寺のある裏山へ踏み込んでいた。(中略)驚いたことに、彼の古寺は、二本の蘇鉄が立ってるきりで、潰れた折詰のような形になっていた。」と寺院が倒壊している様子や、「一歩を町に踏み入れると共に、予期以上の惨状に驚いた。本町通りは、ほとんど全滅と言ってよかった。ブック・エンドを不意に外した書籍のように、家々は倒れ、傾き、道路は、砕けた瓦と、壁土と、絡まった電線と、あらゆる塵芥で、埋められていた。」と家屋倒壊など建物被害が大きかったことを紹介し、さらには津波被害についても記しています。「しかも、その堆積物は無残に泥水で濡れ、下駄や、樋や、また漁村でなければ見られない、舟道具などが散乱していた。(中略)川は、黄色い濁流を、滔々と漲らせ、川上に向って、逆流していた。私は、相生町が地震のみならず、海嘯にも見舞われたことを、直覚した。(中略)海嘯は、今暁の地震の直後に起り、その時が最も烈しく、その後、数回寄せてくるが、河岸通りだけの浸水に止まっている、とのことであった。私は、幾度か、堆積物に躓きながら、やっと、玉松本家の前へ出た。」とあり、岩松に津波が押し寄せて、河川に面した通りは浸水して物が流され、泥などが堆積した様子がうかがえます。
これらの記述は文学作品なので「事実」とは異なる「創作」の側面も考慮しなければいけませんが、実際、岩松は昭和南海地震で建物被害、津波の浸水、地盤の沈降での防波堤の被害や田畑への海水流入などの被害が見られ、昭和23(1948)年には地元岩松から国会に復旧工事の陳情がされるほどでした。この『てんやわんや』は愛媛県、特に南予地方沿岸部での南海地震被害を想定する上で参考となる作品だといえるでしょう。