愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

愛媛・災害の歴史に学ぶ20 地震による道後温泉不出5

2019年12月20日 | 災害の歴史・伝承
宝永南海地震から約150年後の嘉永7/安政元(1854)年に安政南海地震が発生しました。このときに道後温泉は105日間、つまり約3ヶ月の間、湧出が停止しています(『松山市史』第1巻、39頁)。このように歴代南海地震では高い確率で湧出が止まっており、それは後に紹介する昭和南海地震でも同様でした。この安政南海地震は、嘉永7年11月5日に発生していますが、地震後すぐに不出となったことが湯神社所蔵の水行人の額に記されています。地震翌年の安政2(1855)年4月12日に奉納されたもので、「嘉永七年申寅霜月五月地震てふ、天の下四方の国に鳴神のひびきわたりて、温泉忽ち不出なりて音絶ぬ故(中略)若きすくよかなるかぎりには赤裸となり雪霜の寒きを厭はず雨風のはげしきをおかして三津の海へにみそぎしてまたは御手洗川の清きながれに身をきよめ、夜こと日毎に伊佐爾波の岡の湯月の大宮出雲岡なる此湯神社に参りて温泉をもとの如くに作り恵み給へと祈り奉りしに(中略)明る安政二年きさらぎ廿二日といふに、湯気たち初め日ならずしてもとのごとくに成ぬ」とあり、ここには涌出の復旧を祈願して大人数で水行が行われ、道後、三津浜間の街道二里余りを裸で腹に晒白木綿を巻き、「御手洗川の清き流れで」汐垢離に往復して、神に祈願したのです。地震後に止まった湯は、翌安政2年2月22日に湯気が立ち始め、復旧したことが書かれています。この湯神社所蔵の額は、愛媛県内の地震災害に関する貴重な歴史資料といえますが、湯神社に奉納されたものは他にも安政2年奉納の「俳諧之百韻」の俳額があり、安政元年の地震で停止した温泉の湧出祈願の俳諧が記されています(『伊予の湯』82頁)。このように安政南海地震でも約3ヶ月間、湯が止まり、人々が復旧を必死の思いで祈願していた様子がわかるのです。また次の南海地震、つまり昭和21(1946)年12月の昭和南海地震でも約70日間、湧出が停止しています。将来、南海トラフ地震が発生した場合、道後温泉の湯に何らかの異常が出る可能性は高く、現在、愛媛県を代表する観光地となっていることもあり、その経済的ダメージは大きくなるものと想定されます。
この、直近に発生した南海地震、昭和21年の昭和南海地震は、安政南海地震の92年後に発生しています。平成28年は昭和南海地震からちょうど70年であり、やはり近い将来に南海トラフ巨大地震が発生してもおかしくはない状況と言えます。
昭和南海地震の発生翌日の昭和21年12月22日付愛媛新聞には、愛媛県内の状況について次のように記載されています。「道後温泉止まる 県下の震害大(詳報二面)」、「天下の霊泉で鳴る道後温泉は震害で地下異変を生じ突然第一より第四にいたる各源泉全部閉塞してしまつたので当分の間休業のやむなきに立至つた」とあり、愛媛県内の死者26名を数え、地震直後に道後温泉が止まって、大きなニュースとなっていました。
愛媛新聞記事によると地震当日に湧出が止まり、3日後の12月24日には湯神社、伊佐爾波神社の神職が出湯祈願を行っています。道後温泉は宝永4(1707)年の宝永南海地震では約5ヶ月間、嘉永7(1854)年の安政南海地震では約3ヶ月間、湯の湧出が止まっており、昭和を含め、過去3回の南海地震で連続して不出被害が出ていることになります。ただし、昭和南海地震でも発生から1ヶ月後から徐々に地下水位が回復しはじめ、昭和22年3月には湧出が復活し、3月21日には復活を祝う温泉祭が開催され、市民による盛大な仮装行列も行われている(註:愛媛新聞 昭和22年3月22日記事)。
このように、道後温泉は南海地震で不出となりながらも、涸渇することはなく、結局は数ヶ月後には復活することが各種史料からわかっています。巨大地震を恐れ、無闇に将来を不安視するのではなく、過去の南海地震での不出・復活の歴史に学びながら、災害特性を把握して将来に備えるという態度が大切なのかもしれません。