宝永南海地震と道後温泉については、松山市立子規記念博物館編『伊予の湯』に『玉の石』が紹介されており、参考となります(『第三〇回特別企画展図録 伊予の湯』1994年、32頁)。これは道後温泉の案内記で僧曇海により元禄15(1702)年に成立したものです。温泉の由来や元禄15年当時の温泉が描かれており、道後温泉の詳細が把握できる史料として古いものといえます。この18世紀初頭成立の『玉の石』(別名『道後温泉由来記細書』)には宝永南海地震後に加筆された「大地震事」が含まれており(『道後温泉』281~283頁)、より具体的な被害の様子がわかります。「宝永四丁亥年十月四日未の刻に諸国大地震 爰に与州道後の温泉に数千浴し侍りけるに 一の湯釜の鳴うごく事をびたゞし 山も崩るゝ計にて 忽温泉止や否 数々の湯坪 一瞬の間に涸(かれ)にけり 湯中にある者ハたゞ池の魚の樋をぬかるゝに相同し 気をうしなひて宛転(ふしまろぶ) 適(たまたま)人心地有ものは自他の衣類をわきまへず 前後忘してさはぎあへり」とあり、湯は一瞬にして枯れ、湯に入っていた者は転倒したり、自分や他人の衣服もわからないほど騒いだりするなど、地震の際の入浴者の混乱状況がわかるのです。そして「湯守村長城下にはしり 急をつぐる事櫛の歯を挽くがごとし 又湯の町近辺の池井 木の葉をくゞる谷水まで一滴もなく同時に乾きぬ 往昔も度々此湯涸し事有といへ共 今更眼下に見る事驚にたえたり」とあり、すぐに湯守や村役人が城下に報告しましたが、道後では温泉だけではなく、池、井戸、谷水まで涸渇してしまい、しかも、それは初めての体験ではなく、以前にも不出を経験していたものの、目の当たりにして驚いたというのです。この以前の経験は貞享2(1686)年地震のことと思われます。そして「故に大守有司に命して 八幡宮湯の神社 其外所々の祈願所へ時日をうつさず(中略)社家に命して俄に玉の御石に仮の御殿をしつらひ注連をひき不浄をいましめ 社司爰に宮籠り 幣帛をさゝげ 十二番御(ばんかくらを)奏し(中略)又一の湯を精進屋とし 数輩の宮人殿籠(中略)明れば同五つのとし(中略)去年のかんな月四日より 昼夜の震動やむ事なく いかなる時か来りけんと精神をけづる計なり」とあり、涌出回復までの祈祷の様子がわかります。これについては『温泉祈祷・湯神社再興日記』(別名「太守様并郡方御祈祷覚帳并湯神社再興諸日記」〔宝永四年亥十月五日 烏谷備前控、湯神社蔵〕『道後温泉』306~311頁所収)にも詳しく載っています。
さて、地震発生で湯の湧出が止まりましたが、その後に回復する様子も『玉の石』に記されています。「しかる所に 閏正月廿八日にいづくともなく老翁一人来り 明廿九日より御湯はかならず湧出べし 神託疑ふ事なかれと 告け知しめて去にけり 湯守明るを遅しと暁天に玉の御石に神拝 籠ゐの社人相かたらひ 一の湯釜の蓋をとれば 不側(ふしぎ)や釜中頻に鳴動して湯気 熱々と立ちのぼる(中略)夫より日毎に湧倍て 弥生半には湯釜の瀧口になかれいて 二三養性諸のゆづほまて悉く元のことく湛(たたへ)つゝ 細々浪たつて落来る瀧の音 かふり山にひゞきて(中略)四月朔日より諸人浴すべきとの御ゆるされあり」とあり、『諸事頭書之控』や『松山叢談』よりもその回復過程が具体的にわかります。宝永5(1708)年閏正月28日にどこからともなく老人がやってきて湯が出ることを予言し、翌日湯気が立ち上って、日ごとに湧出量も多くなり、3月中旬には湯釜にも元のように流れはじめ、4月1日から人々が入浴できるようになりました。道後温泉では将来の南海地震でも同様の事態が発生するかもしれず、過去を知ることが大切だといえるでしょう。
さて、地震発生で湯の湧出が止まりましたが、その後に回復する様子も『玉の石』に記されています。「しかる所に 閏正月廿八日にいづくともなく老翁一人来り 明廿九日より御湯はかならず湧出べし 神託疑ふ事なかれと 告け知しめて去にけり 湯守明るを遅しと暁天に玉の御石に神拝 籠ゐの社人相かたらひ 一の湯釜の蓋をとれば 不側(ふしぎ)や釜中頻に鳴動して湯気 熱々と立ちのぼる(中略)夫より日毎に湧倍て 弥生半には湯釜の瀧口になかれいて 二三養性諸のゆづほまて悉く元のことく湛(たたへ)つゝ 細々浪たつて落来る瀧の音 かふり山にひゞきて(中略)四月朔日より諸人浴すべきとの御ゆるされあり」とあり、『諸事頭書之控』や『松山叢談』よりもその回復過程が具体的にわかります。宝永5(1708)年閏正月28日にどこからともなく老人がやってきて湯が出ることを予言し、翌日湯気が立ち上って、日ごとに湧出量も多くなり、3月中旬には湯釜にも元のように流れはじめ、4月1日から人々が入浴できるようになりました。道後温泉では将来の南海地震でも同様の事態が発生するかもしれず、過去を知ることが大切だといえるでしょう。