愛媛県内各地に残る伝説の中にも、洪水、治水に関わる伝承は数多く見られます。その中でも神社のご神体が流されたり、流れてきた事例や、洪水対策として人柱が埋められたりした事例を紹介します。
松山市八反地(旧北条市)の国津比古命神社では、ご神体が洪水のために、大浜の沖合まで流されて海中に沈んでしまいました。その夜にある者が夢を見ます。「自分は国津の神であるが、今、大浜の沖合に流され、海底に沈んでいる。その海上に瓢箪があって、鵜の鳥が止まっている。明日の朝、沖合に舟をこぎ出して引き上げよ」という内容でした。これはご神託だと思い、翌朝、舟に網を乗せて沖合に出ました。すると夢のとおり瓢箪の上に鵜が止まっていた。網を投げ入れ、引き上げようとするも重くて上がりません。困り果てて近くの釣り船に協力してもらい、何とか引き上げ、神社に戻すことができました。この釣り船に乗っていたのが猪木地区の者であり、この時から子孫代々、祭りの際には神輿のお供をすることになりました。現在でも秋祭「風早火事祭り」では猪木地区の者が神輿のお供として鬼面をつけた「大魔(ダイバ)」として祭りに参加しています。その大浜は御旅所となり、「御神霊上昇の地」と刻まれた石碑も建てられています(註:『祭都風早ガイドブック』65頁)。この北条の立岩川は普段は流水が少ないのですが、豪雨となると暴れ川に豹変します。洪水も頻繁に発生し、また治水対策のため流路の変更工事も行われてきたところです。
また、神社のご神体が河川の洪水によって上流から流されてきたという伝承は、県下では重信川流域に多くみられます。例えば、県内の伝説を紹介した『予陽旧跡俗談』には、松前町西高柳の稲荷神社について「流宮五社大明神(中略)いつの頃にや洪水出て此宮下に流るを、正保四(1647)年本所に勧請してより流れ宮と号す」と記されています。現在でも松前町内では稲荷神社のことを「流れ宮」と呼んでいます。これも重信川の洪水に関わる伝説といえるでしょう。
洪水、治水のために人柱を埋めた伝説も県内各地にあります。有名なのは、大洲城の人柱伝説です。宇都宮氏が大洲に城を築いた際、川に面する高石垣が積んでも何度もすぐに崩れてしまうので、「これは神様の祟りに違いない」と言うようになり、神の怒りを鎮めるため高石垣の下に人柱を立てることになりました。くじ引きで人柱になる者を決めることにしましたが、このくじに当たったのが「おひじ」という娘でした。「おひじ」は「この城下を流れる川に、どうか、私の名をつけてください」と言い残して人柱になりました。そして出来上がった高石垣は二度と崩れることはなくなり、城も完成させることができたといいます。人々は「おひじ」の願いどおり、城名を「比地城」、川に比地川(今の肱川)という名をつけ、彼女の魂を慰めたといわれています。洪水、治水に関わる人柱伝説については他にも、西予市東多田の関地池や、伊予市双海町久保の「ホウトウさん」など県内各地にあります。これらのご神体流れや人柱伝説は、災害の「言い伝え」として今の地域の人々や、後世に警鐘を鳴らすものといえるでしょう。
松山市八反地(旧北条市)の国津比古命神社では、ご神体が洪水のために、大浜の沖合まで流されて海中に沈んでしまいました。その夜にある者が夢を見ます。「自分は国津の神であるが、今、大浜の沖合に流され、海底に沈んでいる。その海上に瓢箪があって、鵜の鳥が止まっている。明日の朝、沖合に舟をこぎ出して引き上げよ」という内容でした。これはご神託だと思い、翌朝、舟に網を乗せて沖合に出ました。すると夢のとおり瓢箪の上に鵜が止まっていた。網を投げ入れ、引き上げようとするも重くて上がりません。困り果てて近くの釣り船に協力してもらい、何とか引き上げ、神社に戻すことができました。この釣り船に乗っていたのが猪木地区の者であり、この時から子孫代々、祭りの際には神輿のお供をすることになりました。現在でも秋祭「風早火事祭り」では猪木地区の者が神輿のお供として鬼面をつけた「大魔(ダイバ)」として祭りに参加しています。その大浜は御旅所となり、「御神霊上昇の地」と刻まれた石碑も建てられています(註:『祭都風早ガイドブック』65頁)。この北条の立岩川は普段は流水が少ないのですが、豪雨となると暴れ川に豹変します。洪水も頻繁に発生し、また治水対策のため流路の変更工事も行われてきたところです。
また、神社のご神体が河川の洪水によって上流から流されてきたという伝承は、県下では重信川流域に多くみられます。例えば、県内の伝説を紹介した『予陽旧跡俗談』には、松前町西高柳の稲荷神社について「流宮五社大明神(中略)いつの頃にや洪水出て此宮下に流るを、正保四(1647)年本所に勧請してより流れ宮と号す」と記されています。現在でも松前町内では稲荷神社のことを「流れ宮」と呼んでいます。これも重信川の洪水に関わる伝説といえるでしょう。
洪水、治水のために人柱を埋めた伝説も県内各地にあります。有名なのは、大洲城の人柱伝説です。宇都宮氏が大洲に城を築いた際、川に面する高石垣が積んでも何度もすぐに崩れてしまうので、「これは神様の祟りに違いない」と言うようになり、神の怒りを鎮めるため高石垣の下に人柱を立てることになりました。くじ引きで人柱になる者を決めることにしましたが、このくじに当たったのが「おひじ」という娘でした。「おひじ」は「この城下を流れる川に、どうか、私の名をつけてください」と言い残して人柱になりました。そして出来上がった高石垣は二度と崩れることはなくなり、城も完成させることができたといいます。人々は「おひじ」の願いどおり、城名を「比地城」、川に比地川(今の肱川)という名をつけ、彼女の魂を慰めたといわれています。洪水、治水に関わる人柱伝説については他にも、西予市東多田の関地池や、伊予市双海町久保の「ホウトウさん」など県内各地にあります。これらのご神体流れや人柱伝説は、災害の「言い伝え」として今の地域の人々や、後世に警鐘を鳴らすものといえるでしょう。