愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

愛媛の「縄文」文化

2000年05月08日 | 衣食住

 最近、「縄文」がブームになっている(ような気がする)。
 これまで、縄文時代から弥生時代、そして歴史時代への移行を論じるにあたっては、採集狩猟経済から生産経済へ発展するといった進化論的な考えがそこにあった。エンゲルスの野蛮から未開へ、そして文明へという発展法則に照らし合わせて、縄文(イコール野蛮もしくは未開下位)、弥生文化(未開中位)、そしてその後の文化(文明)を見てきた感がある。学校で教わる歴史の教科書にもその視点ははっきり見えるし、研究者の間でもそうである(あった)。
 近年、東北地方において相次いで高度な文化を持つ縄文遺跡が発掘され、縄文史観がくつがえされており、また、東北文化研究センター(赤坂憲雄氏)の提唱する「東北学」は「ひとつの日本からいくつもの日本」と称して、東北をベースに民族史研究を行うことで、これまでの西日本(畿内)中心史観を揺さぶろうとしている。
 さて、ここ愛媛でも、「縄文」を視野に入れた新たな研究成果が生まれている。近藤日出男氏の食文化史の研究である。先日刊行された『四国食べ物民俗学』(アトラス出版)は、近藤氏が四国山地をフィールドワークし、ドングリやトチ、彼岸花、トウキビなどの食文化が「縄文」から連綿と続くものであることを紹介している。これまで、愛媛の民俗研究では「弥生」は見えても「縄文」までは視野に入っていなかったと思う。その意味で近藤氏の成果は画期的である。
 これまで発展法則に基づいた縄文観ではあったが、現在にも縄文文化は身近に息づいていることを目の当たりにすると歴史も違ったように見えてくる。 2000年05月08日

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調査ノート-八幡浜市大島-

2000年05月08日 | 八幡浜民俗誌

 昨年10月と今年2月の二度、八幡浜市の沖に浮かぶ大島に渡ってみたが、その時の調査ノートをまとめてみた。調査内容は秋祭りが主ではあったが、種々雑多なことを聞き書きしてみた。

・大島の人口は現在460人余り。戦後間もなくの最も人口の多いときには、1200人程いた。
・八幡浜市大島は、約330年前に開島した島で、昭和43年に建立された記念碑に、次のように記されている。
「寛文九年穴井浦庄屋井上五助、次男庄右衛門ヲ召シ連レ、開島ノ足跡ヲ印シテヨリ本年三百歳ノ光陰ヲ閲ス。コノ佳歳ニ当リ、先人ノ遺徳ヲ偲ビ、将来ノ発展ヲ祈念シテ、●(ここ)ニ、三百記念碑ヲ建立ス。
                 記
寛文九己酉三月井上五助翁次男庄右衛門渡島開島ノ鍬ヲ入ル。寛文十二年弥三衛門、久助、六兵衛、勘三郎兵衛、善吉、三郎右右衛門渡島、寛文十三年、作蔵渡島、以上本島ノ開祖トナル、天明六年三月二十九日庄屋ノ命ニヨリ平助、豫兵衛、善之●(じょう)、平十郎等四名、三崎ヘ大豆種子ヲ求メ行ク途中遭難シ、不帰ノ客トナリ、六地蔵トシテ合祀サル。以来、栄枯盛衰ヲ重ネ●(ここ)ニ人口一千有余人ヲ数エ今日ニ至ル」(天明六年に遭難した人たちを祀る六地蔵は願海禅寺の入り口に安置されている。)
・開島300年記念碑の近くには、大正7年4月に建てられた「開嶋二百五十年記念碑」もある。この碑には具体的な銘文は刻まれていない。
・大島は、粟の小島、大島(本島)、三王島、地大島、貝付小島の大小5つの島からなる。そのうち人家があるのは大島(本島)だけである。理由は井戸水が他の島からは出ないからである。
・大島の神社、小祠は、若宮神社(大島本浦)が最も大きな神社で、小社として、三王島に三王神社、地大島の竜王宮、貝付小島にも竜王宮、本浦に高島様が祀られている。
・秋祭りの祭日は昔は旧暦10月18日だった。新暦では11月中旬以降になることもあり、かなり寒い時期にやっていた印象がある。それが、昭和40年頃に八幡浜市の祭日に統一して10月19日としたが、祭りの日が同じになると、八幡浜市から親戚や客が来れなくなり、不都合になったので、市内よりも一日早めて10月18日に変更し、現在に至っている。
・祭りには、牛鬼1体、神輿2体、龍1体が出される。牛鬼はかつては2体だされていたが、人手不足により、数が減ってしまった。
・牛鬼や神輿を担ぐ際のかけ声は「オーホンヒエーイ」である。これの意味は地元ではわからないようである。ただし、漁の網をひく際にもこのかけ声を用いる。近隣では、八幡浜市川名津で「ボーホンイェーイ」といい、八幡浜市街で「フンエーイ」とかつて言っていた。大島では、力を入れる際の声として「フンエーイ」が原型としてあり、それに強調の「オー」が付加されて、「オーホンヒエーイ」になったのではないか。
・秋祭りは本浦にある若宮神社の大祭である。この神社には専属の神主はいない。今は、八幡浜市穴井の薬師神氏が来ている。それ以前は五反田の菊池家が来ていた。
・島内には神社の管理をする宮守さんがいる。代々、本浦の伊藤家がやっている。
・この宮守の家の前はお旅所となっており、そこに「サンボウコウジン」という一種のオハケを立てる。「三宝荒神」の字をあてるのだろうが、島の人は「三方荒神」と言っている。これは約5メートルほどの竹をお旅所の真中に立て、その頂上に柄杓を付ける。また白木綿も垂らしている。三方を藁縄で張って立てている。このオハケは神の依り代とでもいうべきものであり、これを立てることが南予地方の祭りの特徴であり、古い形であるといわれている。
・このオハケは現在でも南宇和郡では用いられているが、これまで八幡浜、西宇和地域では確認できていなかったので、今回、新たな発見であった。大島が祭りの古い形をとどめていることをうかがわせる良い材料である。(なお、秋祭りではないが、4月の八幡浜市川名津の柱松の時に、神楽を舞う施設である「ハナヤ」の脇に、3メートル程の笹竹に柄杓、白木綿をつける三宝荒神を立てる。これもオハケの一種である。)
・大島の祭りには芸能は昔からないという。
・祭りでは年により種々の作り物が出されることがある。最近は小学生たちが龍を出している。(6、7年前から)
・この龍は、長崎のくんちで出されるものを模したものであると思われる。長さは4メートル程で5人で持つようになっている。
・龍だけではなく、太刀魚や鯛、鮑の作り物を出していたこともあった。
・練りは若宮神社を出発して、本浦、江ノ浦、加重、音泊を通って、大島小中学校まで行き、その前の海岸から船に乗って「船みゆき」がある。牛鬼、神輿、神輿、龍それぞれを船に乗せた4艘が、大島の南隣の三王島の三王神社前まで行って上陸する。そこから雉ヶ浦を通って若宮神社に戻る。
・船みゆきに使用する船はかつては和船を用いており、櫂を用いていたので「カイネリ」と言っていた。
・船みゆきは神輿を乗せた2艘の船が競争していた。しかし、牛鬼の船を追い越すことはなかった。
・6、7年前まで使用していた牛鬼の頭を、雉ヶ浦の高野氏が所有している。これはプラスチック製である。これは20年頃前に製作したものという。製作の際に、古い頭を参考にしている。この牛鬼頭の型は、宇和島地方で明治時代から昭和20年頃に製作されたものと同様のものである。宇和島地方の古態をとどめているので興味深い。大島の人はこれを八幡浜地方の牛鬼の型といっている。
・近年使用している牛鬼頭は、現在の宇和島の牛鬼をもとに製作したものである。よってそれ以前の牛鬼とは表情が異なっている。
・大島の牛鬼はプラスチック製である。張り子ではない。これは、船みゆきの際に、各地区の前を通る時に牛鬼の首を振りながら海中に浸けて、海水を飛び散らす。
・大島の島内で結婚する者も多かったが、大正時代頃までは、地区外では真網代、穴井、周木の人と結婚することが多かった。今でも親戚がこれらの地区には多い。
・かわうその化かされる話として、次のようなものがある。
「漁師が沖で漁をしていると、かわうそがこっちこい、こっちこいと手招きするので、行って見ると、船が陸に上がっていた。」
「島の人がかわうそを捕獲して家に連れてかえると、捕獲されたかわうその親が、毎晩、かえせ、かえせと言いに来た。」
「夜2時ごろ、海岸をあるいていると、海岸にはちまきをして、子守をしている女性がいた。「お前はかわうそじゃろうが」と叫ぶと、消えてしまったという。」
・大島の向いの穴井でも似たような話があり、かわうその化かされて、一晩中、山中を歩かされた人がいるという。また、かわうそが手招きして、風呂をわかしたから入れというから入ってみると、実はお湯ではなく、枯れ葉だったという話もある。
・かわうそは、昭和20年代までは人家の近くに生息しており、身近な動物だった。
・かわうそが捕獲されたのは昭和40年に磯だて網にひっかかったのが最後である。
・大島のかわうそは三崎のかわうそとつがいだといわれる。(どちらが雌雄かは不明)
・願海禅寺境内には、1メートル程の棒状石柱がある。銘は「日本廻国願成供養塔 明和四丁亥九月日 行者禅関是誰上重」とあり、明和4年の廻国供養塔であることがわかる。八幡浜市内でも数例しか確認できていない石造物であり、これまで報告されていないものであり貴重である。
・享保18年に建立された石像地蔵菩薩坐像がある。これは、市内でも古い部類に入る石造物である。
・三王島は、安芸の宮島のように神島としての性格があったようで、島の小石などを持っていってはいけなかったといわれている。この三王島の頂上に祀られていたのが三王神社で、現在は海岸沿いの道路に面したところに社殿を移している。この神社は大島の中でも最も古いとされ、開島以前は穴井浦の信仰神であり、大島開島後は、大島の海の守護神として、また安産の神として信仰されている。安産のご利益があるといわれるようになった由来は、慶応2年正月12日に、伊達御前様が難産につき、御心願があったことによる。島外では大洲方面からも安産の祈願に来ている。奉納物を見ると大阪からも来ているようである。
・貝付小島には、竜王が小祠に祀られているという。この島は潮流の関係で、漂流死体がよく流れつくといい、それを祀ったものともいわれている。
・地大島の南端に大入池(竜王池)があり、そこに竜王宮が祀られている。この宮は、三瓶町周木に向かって位置しており、大島以外からも周木や八幡浜市向灘からも参拝する者がいる。宇和海沿岸の漁に出る際には、この竜王宮の前の海を通過することがあり、その際に酒を奉納したりしていた。この宮の常夜塔は向灘大内浦、中浦の人が寄進している。トロール漁船が漁に出る時は、竜王沖で船を止めて祈願してから出漁しているという。
・戦後間もなくまで、旧暦6月15日の竜王宮の祭りの時に、大島地区の主催で相撲大会が開催されていた。青年相撲であり、県内各地で行われていたものである。伊方町や大洲方面からも参加者があり、盛況だった。
・勝者にはボンデン(御幣の一種)と金一封の賞金が出た。昭和10年代で100円という大金だった。
・竜王にはつぎのような言い伝えが残っている。
竜王はもとは五反田にある保安寺の池に住んでいた。しかし竜王が大きくなりそこの池が狭くなったので、大島の大入池に移り住むことになった。その際、三瓶町周木から渡ったといわれる。(五反田では舌間から渡ったとされる。)
・竜王は、渡る際に、美しい娘に化けて、周木の漁師が船で連れていった都いう。その後、その漁師は豊漁続きで、妻に豊漁のきっかけ(竜王を連れていったこと)を話すと、もとに戻ってしまったという。
・竜王宮では、五反田保安寺の住職が一生に3度まで雨乞い祈祷ができるという言い伝えがある。大島の願海寺の住職も昭和60年ごろに一度雨乞いをしている。また、島の人が、雨乞い踊りを奉納することもあった。蓑笠を着て、カネや太鼓をたたいた。
・昭和21年か22年に大島の南部に位置する地大島にて野ねずみが大発生したことがある。この頃、宇和海のいくつもの島々でねずみが発生している、最も有名なのが20年代中ごろの日振島での大発生である。主にイモに被害が出た。
・この時、島の古老によると、それ以前にもねずみの大発生したことがあり、その時には、漁師が魚だと思って網をひきあげると、大量のねずみだったという話がある。ねずみは大群で海をわたるといい、地大島のねずみの大群も突如として少なくなったという。外の島に渡っていったといっている人もいる。また、鼠が海を渡るとき海面が赤色に染まったともいわれている。
・この話は鎌倉時代初期成立の「古今著聞集」20魚虫禽獣にある、宇和郡黒島の漁夫が海中から多くの鼠をひき上げたという説話に通じるところがあるので興味深い。
・大島の歴史、民俗に詳しい人として、大島江ノ浦の田中 強氏(老人会会長)がいる。昭和2年生まれ。漁に関する伝承について詳しい。
・大島では、昭和40年頃まで、四つ張(ヨツバリ)という漁法で漁をしていた。主にホウタレ(カタクチイワシ)を捕るもので、25人程度で行っていた。船は全部で5艘を使う漁で、風上に位置するのが「カザウエ(風上)」、風下に位置するのが「カザシタ」、風に向かって右側に「マアミ(真網)」、左側は「サカミ(逆網)」これらの4艘(それぞれ5~6人が乗る。)が正方形になるように位置し、その中央部で「ヒブネ(火船)」(1~2人)が火をともして魚をおびきよせる。火船の近くに魚が集まってきたところを、周囲の4艘が網を張って一気に捕獲する。
・昭和24年に漁業制度改革で、特別漁業権は消滅し、網元が漁業権をもち、多くの網子を使う形はなくなった。漁業権が個人から組織へ移った。
・四張網は昭和30年には、大島で、9統あり、八幡浜市周辺には63統あったという。(小川博『海の民俗誌』名著出版 1984)
・火はもともとはタイマツだった(昭和初期以前)が、戦前にガスになり、戦後、バッテリーが使用されるようになった。
・現在では、漁は個人個人で行っているが、四ツ張では全島あげて漁をしていた。網を引き上げる際には、子供も手伝っていた(小遣い稼ぎになったという)。
・大島の亥の子は漁業と密接な関係にある。旧暦の10月の亥の日に行っていたが、現在では11月にやっている。亥の日は年によって2回の時と3回の時がある。最初の亥の子を「ハツイノコ(初亥の子)」といい、この時には網元が餅をついて、網子(乗組員)を家に招待して、餅を配る。次の亥の子を「ナカイノコ」といい、この時には船主が乗組員を家に招待し、御馳走する。最後の亥の子を「オトイノコ(乙亥の子か?)」といい、この時は各家庭で行う。
・正月2日は「乗りぞめ」の日である。早朝に船主が船の船霊様に、酒やお菓子などを供える。供物は、子供達が取っていく。
・大島では土葬がまだ残っている。火葬する場合は、八幡浜市の火葬場に船で遺体を持っていく。
・葬具は願海禅寺の倉庫にて管理されている。
・新仏の家では、11~12月の巳午の日に「ミンマ」を行う。餅をついて墓前に持っていき、親族で分配するという儀礼である。餅は、鎌を左手に持って切ることになっている。
・また、8月15日の晩には、精霊船流しを行う。この行事は現在では、瀬戸町大久、川之浜、大江で行われているが、八幡浜市内ではまったく知られていないもので、非常に興味深い事例である。
・この行事を地元では「オセイレイブネ」という。現在はベニヤ板で畳一畳分の大きさの船をつくり、その年の死者の数だけの人形を乗せる。人形には戒名を書いた旗を背負わせる。供物ものせる。昔は船は麦藁で製作していた。大きさももっと大きかった。
・8月8日に「ナキネンブツ」といって、死者のあった家の者が寺に集まって盆棚をつくって、供養する。
・8月16日に百万遍念仏を寺で行う。
・8月24日がお棚下げである。
・盆灯篭は、江ノ浦の田中強氏がつくっている。形は4角であり、八幡浜型である。
・大島は旧真穴村だった。昭和51年に発行されている八幡浜市真穴小学校の『まあな 開校百周年記念誌』に大島をはじめ、真穴の民俗に関する記述がある。ただし、これは八幡浜市民図書館にも所蔵されておらず、真穴小学校にはあった。 2000年05月08日

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地域学に思うこと

2000年05月07日 | 民俗その他

 昨年度9月に愛媛県生涯学習センターで行われた「愛媛学トーキング」にて、赤坂憲雄先生の講演があり、それを拝聴した際の感想。
 赤坂先生が愛媛に来られ、地元の発表者とのディスカッションがあるとうかがい、私は以前より、このトーキングを実に楽しみにしていたが、当日は、赤坂先生の話を聞き、「聞き書き」の大切さを改めて実感した。
 ディスカッションでは会の進行や地元パネラー等との議論が半端となり、少々残念であった。当日、会場参加者からの質問や感想を述べる機会があればよかったのだが、時間の都合で無かったため、その時の私なりの感想をメモとしてまとめていたので、それを以下掲載する。

 柳田国男は郷土研究を「郷土人自身の自己内部の省察」と述べていますが、私は最近、民俗学者の調査・記録により、各地域の人々が自分の郷土の民俗を「客観視」し、「大切なもの」、「残すべきもの」、果ては「伝統行事」へと無意識のうちに祀りあげてしまうことに、抵抗を感じています。抵抗というより、そのこと自体を客観視してしまいます。果たして民俗学者は何故に民俗学をやっているのか。民俗学者とは何物なのか。民俗学者の活動が、時代の流れや地域文化を変えているのではないか。必要以上のことを民俗学者(私自身)はしているのではないかと、自己の内部省察をしてしまいます。(以前、ある芸能調査に行った際、男子のみが行う芸能が人手不足だと聞き、「他の地区では女子でもやるようになってますよ」と伝えたところ、翌年、その芸能を取り上げた新聞記事に「県の博物館学芸員の助言により、女子も参加」と出てしまい、自分の責任を痛感したことがあります。)赤坂先生はそういった点をどのような立場で考えるのか、会場で質問してみたかったのです。(質問が受け付けられなくて残念でした。)
(そのように考える事自体、私が民俗学者失格ということかもしれません。)

 また、赤坂先生が当日話された内容や「山野河海まんだら」は、聞き書きにより「記録」をすることが主眼であったかと思うのですが、地元パネラーの場合、弓削の村上氏を除き、「おらが町の民俗」(とはいっても、廃絶してしまった行事を今日風に復活させた新文化とでも申しましょうか)を、町おこし、地域連帯のために「活用・実践」している事例の報告でした。
 私は博物館に勤務していつも悩んでしまうのですが、民俗学はどこまで地域にタッチすれば良いのでしょうか。赤坂先生の場合、民俗誌を執筆し、東北文化友の会という地元貢献につながる活動をされていますが、私にとっては博物館展示活動で地域に密着していればよいのですが、民俗学をとおしての地域との連関が不明瞭です。未熟ゆえアイデンティティが確立できていません。(展示が自己満足の域を出ないのです。)宮崎県椎葉の永松氏のような立場と自分を比較して考えてしまいます。
 私は愛媛学や山形学のような地域学が、私の悩みを解決する手がかりになるかと思っていました。愛媛学のように、毎年聞き書きによる報告書を出版し、シンポジウムにて地域の人々に公開・発表していく。このような事業が私ども博物館もできていたら良いのに・・・、といつも考えていました。
 ただし、今回の愛媛学トーキングでは、赤坂先生の話した「記録・保存」を主眼にした報告と、大西氏や山田氏が話した「活用・実践」を主眼にした報告を、愛媛学(地域学)としてどのように理論付ければよいのか、どのように関連づけていくべきなのか、そこが当日、話題として出てくればよかったかなと思いました。コーディネートの問題で、その立場の違いが調整できていなかった感想を持ちました。これは単にコーディネートの問題だけではなく、愛媛学(地域学)そのものが内包する課題ではないかと思います。
 愛媛学の趣旨については、県の御用達(といえば語弊があるかもしれませんが)の学者(地理学等の重鎮の先生)が作成したもので、突き詰めていけば「お国自慢」になってしまいますし、「愛媛県文化絶対主義」に陥りやすいものです。生涯学習センターで実践されている先生方の活動は評価できると思いますが、愛媛学(地域学)の根本理念には疑問を持ってしまいました。
 民俗学界内部でも、若手研究者が「日本民俗学よさようなら」と言い、多文化主義を出張していますが、愛媛(地域)を「内からの眼」・「外からの眼」で冷静に分析できる愛媛学(地域学)として、何とか理論付けはできないものか。模索しなければいけないなと実感しました。 2000年05月07日

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『宇和地帯の民俗』

2000年05月05日 | 民俗その他
和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』(吉川弘文館刊)に関して思うことがある。それは「宇和地帯」の地域設定についてである。この「宇和地帯」という言葉は、地元においては日常的に持ちいれられるものではなく『宇和地帯の民俗』(和歌森太郎編)の出版により、民俗学界のなかで一般化したものである。和歌森グループの用いた「宇和地帯」とは「愛媛県西南部を占める宇和島市、北宇和郡、南宇和郡の地を指す。」とされている。この調査地設定の理由は、1 和歌森らが前年調査した国東半島と不即不離の位置にあること。2 鉄道の通らない陸の孤島であること。3 地域を宇和四郡に設定して調査を行うには広大であること。この3つが挙げられている。しかし、この設定には、いくつかの問題、弊害が存在する。<問題点1>国東との不可分の関係を指摘しているが、実際、「宇和地帯」は文化圏としては同じ大分県でも、国東よりも大分県南部地方との関係が強く、「不即不離」とするのは強引である。<問題点2>和歌森は、地域設定の前提で述べたような国東との関係を具体的には述べてはいない。これは和歌森以後においても同様である。<問題点3>和歌森グループによって『宇和地帯の民俗』が刊行されることによって、「宇和地帯」イコール南北宇和郡、宇和島市が定着し、その結果その他の宇和地域である東西宇和郡の総合民俗調査が遅れることとなった。つまり、「調査地域の設定」が結局のところ「文化圏の設定」と認識されてしまったといえよう。文化圏としていえば未調査の段階なので確定出来ないが、仮説として「宇和地帯」とは宇和四郡の地がひとつのまとまりを持っているといえよう。その理由は次に挙げるとおりである。・旧宇和島藩の牛鬼、八つ鹿、祟り信仰などこの地域特有の習俗がある。歴史的に見て伊達氏の入藩がこの地域特有の文化形成に果たした役割は大きい。(歴史的に見て宇和島藩としてのまとまりを持っていたこと。)・習俗に影響を与えた存在として修験者が挙げられるが、宇和地帯には篠山権現や鬼ケ城(奈良山)が存在し、独自の信仰圏をを作っていた。国東の六郷満山寺院群に匹敵するほどの仏教文化地帯となっていた。文化的に見て独時も仏教文化圏を持っていた。(平安時代の仏像から推察可能)・九州とのつながりの深さ、これは特に大分県南海部郡との言葉の類似性、交流の存在。ゆえに和歌森の調査地域としての「宇和地帯」ではなく、文化圏としての「宇和地帯」の設定のための調査が必要と考える。 2000年05月05日

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続菊間町の牛鬼

2000年05月05日 | 祭りと芸能

平成8年1月の調査ノートより
越智郡大西町東明寺諏訪神社に明治10年8月奉納の遷宮絵馬あり。
宮脇、山之内、脇、新町、大井濱の五村の氏子が奉納したもの。
幅4メートル90センチの大型絵馬。
八幡神社に合祀されていた諏訪大明神を分祀して現地に遷座させるときの行列を描いたもの。奴行列の奴、牛鬼、御箱、御鉄砲、御弓、傘遣、獅子、三番叟、三味線、太鼓、摺鐘、櫓輿、御輿が描かれている。牛鬼は、菊間町浜地区のものを出している。
絵馬にはっきりと「牛鬼」の墨書が残っている。ただしこの牛鬼の形態は現在見られるものとは少々異なっている。
いずれにしても菊間の牛鬼に関する史料として貴重なものである。 2000年05月05日

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菊間町の牛鬼

2000年05月05日 | 祭りと芸能
伊予史談198号で池内克水氏が菊間町の牛鬼について紹介している。牛鬼は愛媛県南予地方とその周辺地域にしか見られない祭礼の練物である。しかし、分布上、飛び地のように越智郡の菊間町の加茂神社祭礼にのみ牛鬼が見られる。なぜこの地に牛鬼があるのか不明であるが、池内氏は菊間に伝わる牛鬼に関する伝承を次のように紹介している。 1・昔、疫病が流行している時、疫神退散を願って牛鬼をつくり、厄祓いをしたことにより始まった。その後、牛鬼を出さなかった年に、奉仕していた地域に再び疫病が流行することがあったのでその後は中絶することなく今日まで続いている。2・昔、牛の妖怪が出て、農作に大被害を蒙ることが続いた。そこで人々は相談して慰霊のために牛鬼をつくり、祭事に奉仕することにより、その後被害から免れることができた。 結局は南予地方と菊間町の牛鬼の相関関係はわからずじまいである。2000年05月05日

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川名津柱松4-関の意味-

2000年05月04日 | 八幡浜民俗誌

 川名津柱松と同様の行事は、山口県に数カ所見られ、その共通性には驚かされる。
 川名津と同じく松登りの神事を行っているのは、山口県岩国市行波、柳井市伊陸、熊毛郡田布施町大波野、同平生町曽根であり、いずれも神舞と呼ばれる神楽と一体の行事となっている。川名津も神楽と柱松が一体であり、これらは、荒神神楽に九州の英彦山の松会の祭礼が合体したものと考えられている。川名津柱松と山口県の神舞の歴史的な交流は全く不明であるが、山口県のものと同系統であることには違いはない。
 例えば、伊陸の神舞は別名八席神楽ともいい、南山神社の二十五年目ごとに奉納される神事芸能である。前回は昭和五十五年三月二日に行われており、次回は平成十五年に行われる予定となっている。登る松の高さは平年で十二間(約二十一メートル)、閏年で十三間であり、これは川名津柱松と全く共通する。山に入って適当な松を選定し、そこで神事を行って伐採する。その松を神舞を舞う神殿から三十メートル離れた場所に立てる。立てた松を関松と呼ぶ。神楽の奉納の最後に、短刀を持った九人の若者や鬼役が関松まで舞いながら行き、神主のお祓いの後に松登りがある。白鉢巻きをして松を登って行き、関松の先端に日、月、星のあんどんを三つ立て、その中のローソクに火をつけてから紙吹雪を撒き散らし、それが流れた方向の綱から逆さまに降りてくるが、途中で片手でぶら下がったり、曲芸的な見世物で観衆をはらはらさせる。この点も同じである。川名津のように松明を背負って登るわけではないが、柱上で火を灯すことは共通している。川名津柱松の由来を調べるには、山口県と九州の英彦山の松会などとの比較が今後必要となるだろう。
 さて、川名津柱松で立てられた松の土台に、関(せき)と呼ばれる高さ二メートル程の壇が設けられる。伊陸の神舞でも松のことを関松と呼んでいるが、関とは一般に国境や要所にある検問所つまり関所のことであり、境界を示す言葉である。
 柱松行事では厄火祓いをするが、祓われた厄をダイバン(鬼)が松に登って昇華させる。関という壇は、神楽殿と松との中間にあり、模擬的にこの世とあの世または地上と天を分ける境界を示すために設置されていると考えることができる。この世(地上)の厄を、関を通過させ、ダイバンが松に登ることであの世(天)へ祓え捨てるのである。伊陸の関松も同じ意味であろう。
 このように、川名津や山口県に見られる関(せき)の存在は、柱松の世界観を明らかにする指標となるのである。

2000年05月04日 南海日日新聞掲載

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