観測にまつわる問題

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地裁の迷判決(同性婚訴訟)

2021-03-18 08:24:16 | 憲法・法務・司法・立法

札幌地方裁判所(ウィキペディア「札幌地方裁判所」2021/3/18)

裁判長涙ながらに「差別的だ」…札幌地裁 法の下の平等に反して"違憲" 全国初の同性婚訴訟(FNNプライムオンライン 北海道文化放送 2021年3月17日 水曜 午前11:02)

>一方国側は、「両性とは男女のことを表していて、同性間の結婚は想定していない」として訴えを退けるよう求めていました。

日本国憲法 | e-Gov法令検索
>第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
>② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

憲法24条全体を眺める限り、明らかに両性とは男女のことを意味しています。この両性を両者(双方)に読み替えることは不可能なことは日本語が分かれば、誰でも分かる話です。当時は(今でも?)男女不平等がある時代ですから、両性の本質的平等が特に書かれている訳です。同性婚に対する忌避感が現代でなくなっているとしても(どうだか分かりませんが)、それは憲法議論を経て、憲法改正で決着すればいいだけの話でしょう。憲法改正を行いたくないのは護憲派の都合に過ぎません。

それでは逆に同性婚が憲法で容認されている派の意見を見てみることにしてみましょう。

【論点】日本国憲法は同性婚を禁止しているのか?(LGBTとアライのための法律家ネットワーク)

>憲法起草時において同性同士の結婚はそもそも想定していなかったのですから、同性同士の結婚を禁止するために「両性」という文言が採用されたとは考えられないのです。
>つまり、私たちLLANは「日本国憲法は同性婚を禁止していない」と考えます。そして、昨今では「日本国憲法は同性婚を禁止していない」と考える憲法学者が増えつつあります 。

想定にないというか、ハッキリ両性とは男女のことだと書いているも同然です。これは9条をめぐる「戦力」解釈とは異なります(篠田英朗 『憲法学の病』新潮新書 2019)参照)。禁止していないも何もそれは(解釈の余地なく)明快に規定されていないのです。規定されてなかったら、出来ないf="https://www.fnn.jp/articles/-/156786">裁判長涙ながらに「差別的だ」…札幌地裁 法の下の平等に反して"違憲" 全国初の同性婚訴訟(FNNプライムオンライン 北海道文化放送 2021年3月17日 水曜 午前11:02)

>札幌地裁は3月17日、原告の賠償請求を退けた上で、「法の下の平等」を規定した憲法に反するとしました。
>一方国側は、「両性とは男女のことを表していて、同性間の結婚は想定していない」として訴えを退けるよう求めていました。

日本国憲法 | e-Gov法令検索
>第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
>② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

憲法24条全体を眺める限り、明らかに両性とは男女のことを意味しています。この両性を両者(双方)に読み替えることは不可能なことは日本語が分かれば、誰でも分かる話です。当時は(今でも?)男女不平等がある時代ですから、両性の本質的平等が特に書かれている訳です。同性婚に対する忌避感が現代でなくなっているとしても(どうだか分かりませんが)、それは憲法議論を経て、憲法改正で決着すればいいだけの話でしょう。憲法改正を行いたくないのは護憲派の都合に過ぎません。

それでは逆に同性婚が憲法で容認されている派の意見を見てみることにしてみましょう。

【論点】日本国憲法は同性婚を禁止しているのか?(LGBTとアライのための法律家ネットワーク)

>憲法起草時において同性同士の結婚はそもそも想定していなかったのですから、同性同士の結婚を禁止するために「両性」という文言が採用されたとは考えられないのです。
>つまり、私たちLLANは「日本国憲法は同性婚を禁止していない」と考えます。そして、昨今では「日本国憲法は同性婚を禁止していない」と考える憲法学者が増えつつあります 。

想定にないというか、ハッキリ両性とは男女のことだと書いているも同然です。これは9条をめぐる「戦力」解釈とは異なります(篠田英朗 『憲法学の病』新潮新書 2019)参照)。禁止していないも何もそれは(解釈の余地なく)明快に規定されていないのです。規定されてないものを勝手に読み取ったら司法は成り立ちません。無論、時代の変化に合せて、解釈していいという考え方は有り得ます。憲法上の「出席」がオンラインでの出席を含むというような考え方は有り得るでしょう(技術的変革がある度に憲法改正をしなければならないとは思えません。オンラインの首脳会合は出席していない首脳によって成り立っているでしょうか)。しかし男女(両性)という言葉に解釈の余地はない訳です。それでは別の憲法規定に同性婚を可能にする条文があるでしょうか?それが札幌地裁のいうところの法の下の平等だというのでしょう。

>第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
>② 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
>③ 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

差別とは「特定の集団や属性に属する個人に対して、その属性を理由にして特別な扱いをする行為である。」です。つまり同性愛者を理由にして特別な扱いをすれば、憲法上は差別に成り得ます。しかし結婚とは「結婚(けっこん)とは、夫婦になること。」です。つまりやはり男女関係が前提です。性的関係が前提ではありません。男女でないと子供が生まれないがゆえに結婚は男女が前提な訳です。これは子供が産めなくなった男女の結婚を禁止している訳では勿論ありません。同性婚論者も認めるように同性愛は憲法制定時もありました。

日本国憲法で両の用例は両性以外にもあります。両議院です。これを衆議院と衆議院。参議院と参議院のように読むことは出来ません。禁止規定がなくとも、事実上禁止されているということはあるものです。男女ペアでって指定が違憲で、性的嗜好を理由に同性ペアを認めなければ違憲でしょうか。実際問題、性別の自己決定を認めると、スポーツなんかは成り立たなくなります。結婚も自由に自己決定されると社会の再生産が成り立たないものです。平等の名の下、何でも認められる訳ではないでしょう。最低限の社会的通念を憲法が禁止している訳ではありません。何が最低限かは解釈の余地があるでしょうが、明快に書いていることは認められるべきです。

裁判所が感情論で勝手に憲法判断したら、立法府の意味が無くなってしまいますよ。司法の信頼性を揺るがす迷判決だと思います。地裁って・・・。司法は憲法・法律に中立であるべきでは?

憲法改正小考~令和元年11月7日~

2019-11-07 15:51:28 | 憲法・法務・司法・立法
 改憲勢力が3分の2を割って発議は絶望的になりましたが、安倍総裁は発議を諦めてないようであり、審査会での審議だけでも価値がありますから、今思うことを書いておきます。無駄なことをしているようですが、国民民主党を筆頭に民主党系はそもそも改正議論には反対でないということを(今やれないと断固主張しているようですが)一応言っているので、熱心な改憲派の政治家の方々が何とかしてくれると信じることとします。国民の改憲の気運が足りないという話ではありますが、その辺を含めて、今回は9条について簡単に言及するものとします。
 改憲の目玉は言わずと知れた9条で(護憲派の方々に聞いても一番の焦点は9条改憲の有無と必ず言うでしょう)、今の自民党案は(何故か自民党案でないと仰る政治家の方もいらっしゃいますが)、自衛隊明記案です。これは加憲案で条文を付け加えていますが、明記して自衛隊が合憲であることをハッキリさせるだけと繰り返し説明されており、自衛隊が合憲だけで意義は大きい/やらなくていいで議論になっています。筆者は今の条文に反対点はありませんが、明記するだけという解釈には疑問を感じており、今のまま国会で議論になって発議されれば(発議に賛成ですが)、賛成で投票はするものの、消極的賛成であり、積極的に筆者が改憲を盛り上げる議論に参加したいという気持ちは現時点でありません。積極的に改憲議論を書いてきた筆者でも、やる気は相当削がれていますから、中々一般国民に改憲の気運が出てくるのは難しいような気はしています(言わずもがなですが、反対する気持ちも1ミリもなく、人の心は白黒で綺麗に分かれる問題ではありません)。
 やる気が削がれた直接のきっかけは改憲勢力の議席が3分の2を削がれたことです。これまで3分の2があっても憲法審査会が開かれなかったのですから、通常これはもう敗戦です。ただ改憲サイドにそれなりの勝算があるようですので、ここまで主に様子を見た次第ですが、やる気が戻ってくることはなさそうです。これは何なのかと考えましたが、やっぱりというか、明記だけで自衛隊を認める以外に何一つ変らないという説明がずっと引っかかっていたことを思い出しました。改憲議論が進んでいた時は、流れるままに半ば忘れかけていましたが、冷静になればなるほど、明記だけという説明をハッキリされた時の気持ちが戻ってきたという訳です。
 ただ、だからと言って一見強硬的な石破案は尚悪いという考え方に変わりはありません。何故2項削除の石破案が尚悪いかと言うと、公明党さんが加憲案と主張しており、現在の安倍案は発議されるために最大限議論して決った案だと考えているからです。2項削除の石破案は当然加憲案ではなく、公明党さんと石破氏が議論したというような話を聞いたこともなく、ただでさえ3分の2を割っていて石破案も何もないのであって、石破案というのは見た目強硬、実質反対の性質が悪いやる気がないから発議されない案という訳です。石破議員は自民党案の議論当時、確実に国民のムードを云々するなど、憲法改正自体に消極的な立場でした(だから保守派の改憲派が石破案についていかなかった訳です)。石破議員が公明党さんと勝手に話をつけるなど(そんなことが出来るのか知りませんが)、当時のやる気の無さを説明して、2項削除案を立派な発議できる案にしてくるなら、賛成できると思いますが、彼にはそんなことは出来はしないでしょう。石破議員という政治家は、安全保障に専門知識のある政治家で、当然詳しいと思いますが、平和安全法制の時も働きませんでしたし、自分の案でないと安全保障の法案に乗れない人で、よく言えば(?)理想的、悪く言えば書生と評されますが、発議されないと改正の可能性がないのに、発議に協力的ではないところがありありとしている政治家と言い切って間違いありません。勿論石破議員が反対に回ったら発議はならない訳ではありますが、元から半ば反対していますし、さすがに悪くなる訳ではない明記に反対まではしないだろうと思いますが、考察をするのに石破議員の問題を避けて通る訳にはいきません。総裁選も当面ない訳ですし、安倍総裁よりやる気がない人を担いで改憲の議論をする気は少なくとも筆者にはなく、他に有力な案もありませんし、あくまで筆者の考え方としては議論の叩き台は自民党案でしかありません。
 それではただボーッと見ているのかという話ですが、一点だけ、条文は今のままでいいから、明記以外は何も付け加わらないという説明を変えて欲しいと期待だけしておきます。そもそも条文が付け加わっているのに読み方が全然変らないというのはどうなのかという話ですが、安倍総裁は「読みようによっては~」と条文が出来たて当初には含みを持たせていたように記憶しています。これがどういう経緯で変ったのか知りませんが、条文案のまま素直に明記されると説明してほしい訳です。これで明記以外に何が変るかと言えば、自衛隊は存在そのものが認められますから、2項に矛盾しない範囲で、これまで駄目だった全ての安全保障政策が可能になります。これまでは「必要最低限の~」という解釈ベースで自衛隊の装備は制限を受けていた訳です。元々の安倍総裁案では必要最低限の~は明記されていました。これが議論の結果、必要最低限の~は削除されています。ただ、ここから必要最低限の~という解釈が復活しては、結局明記だけと説明しなければなりませんから、筆者のようなゴリゴリの9条改憲派はやる気など出てきようもない訳ですし、個人的な気持ちはどうでもいいとしても、国民の改憲気運など生じようもないだろうし、出来もしないことをやる気はないということになります。解釈というのは変えられる余地がありますし、自民党案が駄目な案とは思っていませんが(駄目なものを人に薦めるほど性根が腐っている訳ではありません)、改憲の結果のメリットが安全保障政策的には存在しておらず(元々解釈ベースの必要最低限の~です)、だからこそ自衛隊が認められるのが意義深いとしても、既に国民は自衛隊を認めているので、改憲の気運は生じない(だから国会の議論に期待するしかない)と見切っている訳です。憲法改正で条文が変って、解釈が変らないという説明も分かり難い話ですが、筆者としては憲法改正議論で明記していた必要最低限の~という従来解釈の明記を削除したにも関わらず(解釈を明文化したら、解釈を変えることが不可能になって、安全保障政策的には明快に後退でしかないので、その時は絶対反対した訳です。必要最低限という言葉がある以上は何かに対して必ず低くなければならないので絶対的に安全保障政策の足を引っ張りますし、現在の自衛隊の装備は見ての通りです。日本語が理解できる人で必要と必要最低限を同列に考える人は存在しません。必要最低限に対しては使いませんが必要最大限という言葉が考えられます。最低限は英語でミニマムの意味で最大限がマックス、必要はネセサリーで、そもそも必要があるから条文にあるのであって必要は解釈も明記もする必要がない前提ですから、最低限だけがミニマムとして意味があります)、解釈を結局維持するのかと怪訝に思いながらも、明記そのものは意義深いですし、他の3案もある訳ですし、憲法議論そのものも重要ですから、何だかんだで賛成したところ、3分の2を割って今となります。それでも憲法審査会開催の努力が続いているのは筆者が政治素人だから良く分かってないのでしょうが、またぞろ2項削除案とか出てきて、絶対やる気ないでしょ、その辺の説明は?と思い、その旨SNSで発言はしましたが、改めて(これまでいろいろ書いて来た訳ですから、これまでの自分の意見を自分で引き取って)自分の考え方をここに開陳する次第です。

憲法改正と保守的かつ新しい地方自治の形

2019-05-17 00:08:30 | 憲法・法務・司法・立法
今、国会で審議の準備がされている憲法改正4案で断トツで国民に関心が無いのが合区解消案らしい。

1番注目があるのが9条、2番目が緊急事態条項(防災)、3番目が教育で、合区解消案は案も出てないプライバシーや環境といった論点より関心がないようです。野党が徹底反対・実力行使して憲法改正の議論を妨げている今、憲法改正の議論を妨げている案は実は1番興味を持たれてない合区解消案なのかもしれません。国民的議論は野党の徹底反対を吹き飛ばす有力な力となりますが、無関心は議論の盛り上がりを目指す立場からは最大の敵と言えます。憲法を左翼野党反対利権から国民の手に取り戻さなければなりません。

合区解消案に筆者は賛成ではあるのですが、確かに今のままでは物足りないとは思っていました。その物足りなさは首都圏・大都市圏の動向と合区解消案が必ずしもひとつの方向性に向かっていないことから来るものだと思います。合区委解消案はそれ自体正しいと思いますが、一極集中の傾向に対するアンチテーゼに過ぎず、首都圏・大都市圏の問題を解決する性質を持っていません。これでは有権者の大部分を占める首都圏・大都市圏の支持を得られず、従って議論を盛り上げる力を持たないのは当然のこととせざるを得ません。

そういう訳でここでは大都市圏の問題を正面から考えることから、地方自治を見直してみることにします。ただし道州制案を採りません。現在の都道府県制度前提による改革・改善を目指すことが、これまでの日本のノウハウ・あり方を活かす保守的な改革・改善なのだと思います。

議論を進める前に、まず現在の地方の状況をそのまま見ることから始めます。一極集中は既に指摘されつくした論点ですから、ここではその陰に隠れてあまり言われない元気がある大都市の実態を見ることにします。基準は国民の支持の表れとも言える人口増加率です。

増えているのは,選ばれているから。- 人口増加数・増加率、若者(10代・20代)の割合 -(福岡市)

川崎が神戸を抜く 政令市人口6位に(産経ニュース 2019.5.15)で川崎市に勢いがあることが分かりました。それで調べて出てきたのが上記の福岡市のデータです。人口増加率(政令市)ランキングで川崎市は1位の福岡市(5.12%)からは離れるものの、3.49%で2位のようです。首都圏が成長する中、東京都と横浜市の中間という位置にポテンシャルがあるってことでしょうか。さいたま市も僅差で4位(3.40%)だそうです。こちらは副都心へのアクセスがあると見ます。人口増加数で見ないのは流れを見るのに妥当なのは数ではなく率だからです(川が急こう配か見るのに角度ではなく水量を見る人はいません)。

僅差の3位(3.46%)の仙台は東北の中心。少し離れての5位に札幌(2.03%)。政令市平均が1.10%です。断トツの1位が福岡で「道州制レベル」で中心地に人が集中する傾向が明らかにあると思います。また、首都圏を一体としてみると一極集中の傾向が強いと指摘されてきています。

結局、放っておいても人口が増える地域ってあると思うんですよね(福岡市長は良い市長だと思っており支持しています)。一極集中が東京の首長が優れていたのが原因でしょうか?同じ土俵で公平公正な要件で比べる努力から、優れたアイディアが生まれ、活気ある日本が実現し、地方の再生が進むと思っています。つまり様態に大きな差がある地方自治体を適切にカテゴライズした上で横の比較をせねばなりません。そう考えると既存の都道府県のシステムを活かした改革・改善でいいのではないかということになります。そもそも都と県を一緒に扱っても仕方が無いというのはありますが、日本には府や道といった言わば謎システムが長く存在しており、これが活きていないようです。憲法改正の同志である某ローカル国政保守政党は俺達の自治体(府)を都にする等と息巻く始末です(意味が分かりませんが、皆の反対の力でその案は何とか倒されました。ただ性懲りもなく、またぞろ首長選挙戦の勝利に乗って新しい案を出してくるようです)。しかし目のつけどころは悪くないというか、確かに府といったところで大きな意味がある訳ではありません。

まず注目すべきは福岡市・仙台市です。ここが一番勢いがあるからです。両者の成長の核心のひとつに、中央から離れて「道州レベル」の地方の中心地であり、対抗馬が無いということにあるのでしょう。つまり支店経済です。モータリゼーションの現在において既存の都府県というのは、効率性の観点から少し小さいんですね。極端なのが合区の当事者鳥取県で機能的に通勤通学圏で市町村を再編すると、ここは3市でまとまってしまいます(ですから、賛否はともかく合区案なんてどうでもいいよってなってしまうところがあるんだろうと思います。何か頑張ってないところに飴を与えるような感じの話に見えなくもありません)。だからと言って道州制という訳にもいきません。福岡や仙台はまだ隔絶しているにせよ、対抗馬とそれほど差がない「道州」は幾らもありますし、福岡・仙台にしたって、熊本や鹿児島、福島や青森がウンという訳ではありません。県庁がある市はそれだけで有利なのですが、東京都を見ても分かるように政庁があるから強いなんて話は誰も感心しませんし、揉め事の種でしかありません。支店経済が強いのは事実ですが、それを称揚する政策は有り得ない訳です。

ですが確かに成長しており、その成長があまり知られていない現実もあります。その成長を議論の土俵にあげてもいいのではないでしょうか?福岡市が競争すべきは仙台市であり、あるいは名古屋市・札幌市なんだろうと思います。あるいは京都市もそうかもしれません。政令都市の内、大都市の衛星都市の性格がないというのが、まず一つ目の基準です。

2つ目の基準としてはやや曖昧にはなりますが、県のレベルを突破する規模感です。福岡市や仙台市が成長するのは福岡県や宮城県のレベルを超えて周辺の県民を吸引するパワーが強いからです(大会社が九州支店や東北支店を福岡市や仙台市だけに置いたりするのでしょう)。つまり例えば新潟市は確かに政令市で大都市の一角ではありますが、北陸で金沢市との争いや中部をどう分けるか東北に入るのかといった非生産的な話題を避けるのが妥当と考えます。政令市の枠組みはさておき、地方自治の議論が停滞する現状、必要なのは新しい話題です。静岡市も名古屋と首都圏の中間になってしまいますし、熊本市も政令市だから福岡市に対抗できているという訳ではありません。広島市も中国地方第一の都市ではありますが、山口は九州を向き、岡山は近畿を見て山陰は独自の道を歩もうとしている傾向が否めません。対岸だから何となく分かりますが、第2位の岡山市なんか特に少しでも広島に集中させるというような話を全く理解しないような気がします。四国も愛媛は広島を向き、香川は岡山を向き、徳島は関西を向いて、高知は海を向いていると言われてきました(高知・徳島の合区なんて百害あって一利なしと言わざるを得ません)。

ではどうするか。象徴的に福岡県を府に昇格させてみてはどうでしょうか?九州府がいいと思いますが、福岡府でもいいかもしれません(その場合は博多市にすることも一考に値します)。福岡都市圏は佐賀県の一部から人を吸引しますし、四大都市圏の一角で、何と言っても一番勢いのある地方都市です(アジアに近い優位性もあるかもしれません)。福岡県はもうひとつの政令都市北九州市を抱える県であり、他の九州諸県と全くの同列で考えると間違う特殊な県になります。北九州はあまり言われませんが、弥生文化を通じて大和以前の日本発祥の地だとも言えます。博多は宋銭の輸入と使用を通じて日本経済を発展させるきっかけとなった地方であり(貨幣なき経済発展はありません。石高制でも江戸時代は物々交換経済ではありません。皇朝十二銭は都周辺の使用に止まり律令制と同じく自然消滅に近い形で消えました。中世日本は貨幣を鋳造せず輸入に頼りましたが、博多での使用がきっかけのようです。中世を博多がつくったと言えるのかもしれません)、鹿児島県は明治維新の原動力であり、日本本土の最南端として独自の文化を有します。日本の対外玄関口としてアジアに開く位置という特性もあります。また東北と並んで日本有数の火山を擁する火の国でもあります。

宮城県も東北府。仙台市は他県の都市を通勤・通学圏に持ちませんが、事実東北の中心地としての勢いがあって、山形県の県都山形市から買い物客を集め、経済的には山形市と一体的な商圏が形成されつつあると言います。東北地方は広くかつ一定の一体性があって、一県で取り扱えない問題をまとめて取り扱う場所があってもいいんでしょう。例えばインバウンドなんかは県の枠組みだけだと無駄が多く失敗の可能性が高いと思われます(東北の一県で国際社会を引っ張るのような話が進むと思えませんし、出来たとしても無駄の多いものになりそうです)。大きく分けて太平洋側と日本海側に分かれますが、仙台市が山形市から人を集め、秋田新幹線が岩手から分岐するようにその差は決定的なものではなく、しかしながら本州の東北隅にあって北に北海道、南に首都圏、南西に新潟県に面する(山形県だけでなく福島県も面します)地勢を共有し、一緒にすればいいかというと、北東北と南東北の違いや玄関口の福島県もありますから、単に現状追認で仙台市の断トツの勢いを認めるのが良いと考えます。

愛知県が東海府。名古屋市は四大都市圏の一角で岐阜県南部・三重県北部から人を吸引します。JR東海(本社名古屋市)はリニアで日本の話題をリードする存在です。東海地方は伊勢湾を抱えます。三重県伊勢地方は文化的・歴史的に関西との繋がりが深いのですが、経済的・地勢的には東海地方の枠組みを考えておく必要性があると考えられます。熊野地方への入り口が東海地方にあれば、首都圏の方を向くことが出来ますし、中部国際空港を視野に入れることも出来ます。勿論伊勢地方は日本文化において重要な地方であり、伊賀地方は経済的に関西との繋がりが深く(かつ甲賀を通じて滋賀県との関係も重要ですし、安濃津の絡みもあって、京都や滋賀も視野に入れることが重要です)、今の枠組み(三重県)を崩す必要があると思いません。日本第一とも言える工業地帯を擁し(工業は日本の主力産業です)、広く南海トラフ地震を考えるべき第一の地方でもあります。

京都府は京都府しか思いつきませんが、滋賀から人を吸引していますし(県庁所在地の大津市が京都市の通勤通学圏です)、日本の断トツ第2位の大阪都市圏から十分距離があって、県の規模を突破する規模感はあるものとします。大阪に比べれば随分小さいでしょうが、1000年の都で日本を代表する都市であり、オーバーツーリズムの最先端を走る観光都市でもあります。類似に奈良盆地北部の県都奈良市があってその文化遺産は日本有数のポテンシャルはあるものの、奈良県は概ね大阪都市圏の範囲内で奈良盆地南部こそ大和朝廷(皇室)の発祥の地であり、前方後円墳という観光資産は大阪とのシナジーが高く、奈良を通り抜けて三重県伊賀地方まで大阪都市圏の側面があって、大きな独立性がありません。あるいは日本の山間部を考えるのにもっとも適していると言えるかもしれません。山陰地方と言えば中国地方ですが、京都市はその都市圏に本来の意味での山陰地方を擁します。明智光秀での注目も出てくると思いますが、応仁の乱を引くまでもなく、1000年の都に隣接する山陰地方東部は京都の影響が大きく、見過ごされがちな山間部に目を配るのに適しているところがあると考えられます。京都市自体北部の山間部(鞍馬など)に主要な観光資源を擁し、盆地に位置する唯一の大都市とも言えます。滋賀県の県都大津市が京都市都市圏に入りますが、日本一の湖の琵琶湖のポテンシャルを発揮するのにもう一押し欲しい感じもあります。淀川なんかも日本としては結構大きい川ですが、見逃されがちな内水面を考えるのも重要かもしれません。

府に独自の権利が必要かは分かりませんが、こうして並べると県の枠組みを超えて話し合ってもいいよというお墨付きが象徴的にあって良さそうな気もします。完全な横並びを是とすると、暗黙の了解で無駄な縄張り争いがあるような気もするんですよね。省庁の縄張り争いは激しいと言いますが、過剰に縄張りを尊重すると、九州や東北といった資産が活かされないとも考えられます。また似た枠組みを並べることで比べる相手・相談相手が出来る効果も小さくなさそうです。福岡市も東京23区と同列で考えられませんが、例えば松山市なんかと同列で考えられる訳でもありませんし、広島市とも必ずしも同列ではないんじゃないでしょうか。同列で扱って発展性がありそうなのは、第一に名古屋市だと思いますが(中部国際空港と福岡空港の対比など)、地方の拠点で勢いがあるという意味で仙台市との比較も面白く、大宰府を擁し京都のオーバーツーリズムの視点が活きるかもしれませんし、弥生文化の中心地として京都と似たような切り口を導入する考え方もありそうです。

これが成立すると、逆に福岡市に吸引される佐賀県鳥栖市と名古屋市に吸引される三重県桑名市のような対比の可能性も出てきます。同じ条件で比べることで違いが分かって、アイディアが生まれ健全な競争が促されるところがあるように思います。通勤通学圏か否かの違いはありますが、大津市と山形市なんかも似た悩みがありそうです。現代において全部に目を配れる万能のスーパーマン等存在しないのであって(官僚制で全てを差配出来ると思った共産主義は滅び、地方野放しで言うこと聞かないとかいう中国がやたら勢いがあります(中国の「上に政策あり、下に対策あり」)、地方の自律的な発展を促す制度が望まれていると思います。道州制の考え方が言われる所以ですが、地方ごとの経済力に差が有り過ぎる日本で一括で地方分権革命を起こすことは自殺行為のように思え(稼ぐところが使えば地方は滅び、地方に分配が過ぎれば稼ぎ頭が滅び、均等に分配すれば時間と共に勢いの差で時代にあわなくなり、それが調整されることが分かっていれば誰も努力しないという問題があります)、時代の変化にあわせ名目的に現状追認をするのが妥当なラインで益多くして害少なしなのではないかと考えます。

これは憲法改正と同じ考え方です。憲法改正をしなくても出来るじゃないかとワーワー喚く反対派がいますが、無理な憲法解釈で現状の変化に対応することが憲法を国民の手から遠ざけ、必要な改革を阻んでいるところがあると思います。典型例が外交安全保障・防災で、自衛隊は違憲の疑いがあると言われ平和ボケと揶揄され、ゆっくりした改革で時代に乗り遅れ慌てて某国や某国の無法に対応し、1000年に一度の震災に上手く対応できなかったきらいがありますが、名目的でも憲法について話し合う過程で理解が深まり、必要な改革が出来る効果は小さくないと筆者は考えます。教育もそうですが、この際地方政治も俎上に載せるべきではないでしょうか?

ここで府から離れて北海道に関して言えば、既に「道州制」を実現しているという特徴があります。分県議論のようなものもあるかもしれませんが、筆者はそのような革命に現状で賛成するつもりはありません。十勝県や旭川県や函館県の代表がそんなに必要でしょうか?北海道内でどのような改革をするべきかという議論は有り得るでしょうが、北海道は北海道ブランドで勝負すべきと考えます。札幌は成長していますが、仙台に比べて勢いがないようです。今はJR北海道の問題や北海道電力の問題(ブラックアウトしてしまいました)、アイヌ新法、インバウンドの拡大、農業における黒船(TPP)襲来という問題があって、最後のは安倍政権が自分でやった「問題」ではありますが、新しい話をする時期ではないと筆者は考えます。まあ札幌市擁する北海道が府になるのもひとつの考え方かもしれませんが、北海府ではブランド破壊で有り得ませんし、北海道府は屋上屋を架すところがあってシックリきません。

北海道とよく対比される沖縄に関して言えば、沖縄県のままでいいとは思いますが、独自の立場をアピールしたければ、沖縄道に改称する可能性は考えられても良さそうです(ブランド名を変えるする訳ではなく、違和感はその内消えるでしょう)。北海道と沖縄は独自の文化を有するところがあって、何処まで行っても日本の範囲から外れていた歴史は消せませんし(最初の日本の範囲は歴史の観点から本四九でしかありません。歴史を教えない選択肢もありませんが、歴史を教えると現状で北海道史と沖縄史は上手くいかないところがあります。沖縄は独自の王国という資産があり、近代まで日本史の舞台に外部としてしか登場しません。北海道も久しく蝦夷・アイヌの土地で日本史に近代まで外部としてしか登場しません。東北がギリギリですが、東北は奥羽として日本史内部ですし、独自の王国もなく(平泉政権はありますが、琉球王国と比較になりません)、アイヌ語地名北東北に残存していても、その文化を推進する主体が津北に残存している訳ではありません)、逆に独自性を活かさなければ、その存在する意味が半減します。日本の一部であることは全く変わりませんが(外交安全保障で独自性なんてものは存在しませんが)、その違い・独自の価値を認めて、新しい切り口を日本に加えることに主眼があります。伊予だの筑紫だの言ったところで、沖縄・北海道は?ってなってしまいますし、その辺に配慮して言わないも逆にこちらが迷惑なところがあります。明治政府は廃藩置県を行いましたが、令制国名を外したのは、沖縄と北海道に配慮してのことでしょう。しかし追い付け追い越せの明治時代と違って、今の日本は独自の歴史や価値を活かさねばならないところがあると考えます。日本書紀とか正史とか言ったところで北海道・沖縄は出てきませんが、勿論これは日本をやる意志なのであって、嫌がらせでは全くありません。今のままで何も変えない考え方=保守というのは、革命派から見た保守派であって、その実態ではありません。いずれにせよ、筆者はその土地・その土地で自分の土地を勉強して自分で自律的に発展させるが地方政治の本旨だろうと考えます。従って外交安全保障を地方が独自の視点で考え、独立を目指すのような考え方を容認しませんが、沖縄は琉球王国の歴史を日本に統合される前の前史としてやっていい・やった方が面白いというのが筆者の考え方です。スコットランドやウェールズ・北アイルランドのようにしないのは(自治権を考えないのは)、明治に統合して久しいこと、そもそも民族が同じであること(アングロサクソンとケルトも遡れば一緒でしょうが、時間的近さが異なると考えます)、某国が伸長する今、独立問題を抱えることは害多く益少なしであることです。具体的には日本語沖縄方言を活かすこと、琉球神道と日本の古神道の相似を考えること、日本の歴史と沖縄の歴史の連動性を重視すること、日本人の南下の潮流を抑えること、台湾の歴史を正確に知ること、中継貿易を肯定的に捉えないこと(それを目指して独立したところで、楽市楽座を言ってスルーするだけです。関所は経済発展の邪魔が学ぶべき歴史観・経済観です。琉球貿易の繁栄は海禁政策・鎖国政策の徒花でしかありません)、非武装を肯定的に捉えないこと(琉球士族は武装していました。かつては奄美に侵攻し日本を撃退したことがあったようです。大小を差し誇り高い琉球士族は日本の侍そのものであり、東南アジアで南蛮人に記録されています。薩摩に敗れたのは戦国日本が火縄銃を大量に持ち武装の差・練度の差があったからに過ぎません。自衛隊無き安全保障政策は存在せず、非武装平和という視点は日本の外交安全保障に必要ありません)、朝貢貿易に関連して某国を上位におかないこと(名目上とは言え、確実に上位においていました。知識として教えるのは構いませんが、同時に国と国の関係は対等であるべきなのであって、否定的に捉えられなければなりません)、本土復帰を肯定的に捉えること(外交安全保障上の理由・歴史的理由で独立を容認しません)、「琉球処分」を肯定的に捉えること(琉球という価値は日本国の範囲内で生きます。それが無ければ、日本国の一部になりません)、薩摩の侵攻を全否定しないこと(ここで日本の一部になった訳ではありませんが、前史あっての日本への統合です。現実的に奄美が難しい立場になります)が考えられます。その実現の方法は独自の教材を作成して、日本政府の監督の下、承認を得ることが考えられます。「反乱軍」に利益を与える訳にはいきませんが(独立されたら大体投資がパーになる上(日本は沖縄に資本を投下しているのであって、収奪している訳ではありません)、日本の外交安全保障政策に困難をもたらすことになります(ですから現在重点的に沖縄をやらなければならないという話です)、その独自性を十分活かして益々の発展を実現してもらうことが重要だと考えます。

中四国や北陸・甲信に関して言えば、既存の県の枠組みで良いと考えます。隔絶した県もないのに無理に主導的地位を認めることは百害あって一理無しでしょう。

例えば四国は四国新幹線の話がありますが、瀬戸大橋を通す話ばかりで、紀淡海峡ルートが同時に俎上に上がりません。瀬戸大橋ルートでは徳島県が玄関口ではなく香川の次になってしまいますし、今注目のインバウンド獲得も関西空港活用の道が開けず、四国八十八箇所巡礼も高野山や熊野古道との連携が生まれません。あるいは先の豊予海峡ルートの夢にも繋がりません。勿論コスト面の問題はありはしますが、紀淡海峡ルートはこじんまりした瀬戸大橋ルートに比べて爆発力があると思いますし、四国四県平等にメリットがある話だと思います。四国四県は愛媛が広島を向き、香川が岡山を向き、徳島が兵庫・大阪を向き、高知が海を向くと言われます。四国の象徴とも言える四国八十八箇所も阿波(徳島)に始まり、土佐(高知)、伊予(愛媛)、讃岐(香川)と回ることに大きな意味があって、何処か一箇所が差配するというような話ではありません。両案を広く俎上に乗せた上で四県の総意で最終案が決定されるべきではないでしょうか。

こうしたことが起こるのは某市に官公庁の四国支所が集中するからかもしれません。本来特に差は無かったのですが、官公庁が集中するとそれが理由で結構大きな差がつくことは、日本史・地理が分かっていれば体感できている話です。別に支所を寄越せとまで言いませんが、そういうものの取り合いが効果あるだけに無用な争いになってしまう訳です(ですが勝手な話はもの申さざるを得ません)。道州制で県庁まで動かすのような話は勿論論外で他県の壊滅的打撃は目に見えています。どうしてもと言うなら、四国の真ん中に置くのが四県平等の理念に合致します。

中国地方も同じで広島は確かに中国地方最大の都市ですが、岡山も負けてはおらず、備後(広島県東部)は吉備じゃないの?という思いもあるかもしれません。山口は九州を向き、長州・周防という独自の歴史的資産もあります。山陰に至っては新幹線のシの字もなく、出雲は独自の歴史を有します。対岸の愛媛県民だから何となく分かるのかもしれませんが、まず広島万歳のような話にならない気がします。これに対して福岡はあまりにも突出していますし、現状を追認して活性化してもいいんじゃないのという話です。

北陸も同じで甲信も同じでしょう。それぞれ突出せず、平等にどこ向きという話もありません。中部を活かす枠組みというのも無いでしょう。

最後に大阪府と東京都ですが、四大都市とはいいますが、大阪都市圏は世界最大の東京都市圏に次いで突出した規模を有します。東京と切磋琢磨し比較になるのは大阪しかないんですよね。川崎が成長しているという話もじゃあ尼崎や西宮はどうなの?という話になりますし(同じく成長していればそれぞれ参考になりますし、事情が違えば何故違うのかという問いになります)、神戸と横浜は良く似ており、規模感は違うにせよ内陸部で奈良と埼玉、海繋がり・国際空港繋がりで和歌山と千葉という比較もできるかもしれません。政令市でなければ川口市も川崎市と比較になりますが、船橋市はバスケットで勢いがあるチームを有しているようです。一極集中と言えば、東京大したものと思うかもしれませんが、(左翼)首長とかトップ当選(外国系)国会議員の活躍のおかげと思えません。どう考えても首都があるおかげです。首都を動かすような話に賛成ではありませんが、大阪と切磋琢磨して国からは出てこない巨大都市圏なりの政策があっていいような気がします。何時も何だか後手後手ではないでしょうか。関西空港のインバウンドの活躍に対してそんな感じ無しとも言えません。

大阪は上方文化という独自の文化も有します。マスコミは東京都に集中しますが、保守系産経新聞を排出し、保守系テレビ番組を全国に提供して独自の日本のための(国政の)視点を提供しているのは大阪だけではないでしょうか?

自民党は大阪維新に先の選挙で敗北しましたが、大阪都という大きい構想に対して反対という立場で小さくまとまったことが敗因だったのかもしれません。結果的に過小評価になったという訳です。堺市の選挙で敗北したものの、維新は結局政策的には後退しています。大阪市の話は大阪市でやればいいのであって、府市あわせとかいう話は何処に行ったのでしょうか?これに対し、巨大な大阪市をそのまま認めて東京と切磋琢磨してもらうという話はありそうです。首都機能を移転する訳にもいきませんが(首都直下地震を想定して、国政の停滞を防ぐため一時的な避難は考えられてもいいのかもしれません)、そこさえ大丈夫なら府からの昇格も無い話ではないのかもしれません。これは単に東京に比肩し得る規模を活かしてもらうという話です。

自民党の合区解消案が、自分のための改正のように言われますが、筆者は違うと思っています。高知・徳島・島根・鳥取は令制国を経て多少の合従連衡はあっても、千数百年続いてきた枠組みだということを忘れてはなりません。その歴史と文化は認められるべきであり、現代において多少の手直しはあっても守られるべきだと考えます。地元の声をすくいあげて国政に繋ぐのも国会議員の仕事です。これに対して東京を代表する議員というのが5人でも6人でも大して違いはありません(そもそも大選挙区制ですから、どれだけ東京を向いているかも分かりません)。高知・徳島・島根・鳥取から一人取り上げてまで、数を増やさなければならないのでしょうか?

勿論国会議員の仕事は国政の仕事が本来です。しかし国会議員が国政の仕事を何処まで本気でやっているでしょうか?というのも外交安全保障が国会議員の主要な仕事のひとつですが、自衛隊の地位を認めないとか、立法府の議員であるにも関わらず憲法について話し合わないなんて立場が罷り通っています。言い訳は誰それちゃんがーレベルです。小学生でしょうか?感情論の政治とおさらばして本来的な仕事に取り組んでもらう必要があると思います。大選挙区ほど組織票有利になります。筆者は利益団体が政治に参加するのも透明性があれば反対ではありませんし、それなりに意味があると考えますが、左翼の組織票で憲法について話し合うことを実力で阻止するのような連中が通ってしまうことを残念に思っています。大都市とは結構左翼が強いものです。それに対して自民党はいろいろあったにせよ憲法改正でまとまっているようです。政治は結果を出さねばなりませんが、実現のプロセスも見る必要があります。国会議員が仕事をする(憲法について話し合う)のを妨げているのは(地方で強い)自民党でしょうか?(大都市で戦える)左翼野党でしょうか?案に反対の立場はあろうかと思います。しかし議論はされなければなりません。そして最終的に国民の判断の手に委ねばなりません。このプロセスに反対する国会議員は確実にひとつの大きな仕事をさぼってます。その仕事は支持者のためではあっても、国民のためでは有り得ません。

憲法改正しなくて出来るじゃんみたいなことも言われます。しかしそれは無理な解釈を強いるのと同義です。憲法を時代の変化を見ながら国民の分かりやすい文章に手直して、憲法を反対利権の手から国民に取り戻さねばなりません。憲法とはそもそも理念規定です。国民の指針として分かり易い内容であり、議論のベースになることが求められます。解釈すれば出来るのような言い草を認める必要はありません。

合区解消案で具体案を出すならこうです。今現在、憲法には地方公共団体の具体案は明記されていません。これに今回都道府県を明記すると共に都道府県間の移動を認めます。市が政令指定都市に昇格するようにです。これは時代の移り変わりに沿うものですし、現状が追認される可能性が出てくることで各自治体の励みになるものであり、実態に即した名前に変更することで、公平な条件での比較を促し自律的な成長に繋げて、国民の自治体に対する理解を深めるものです。これは憲法改正の趣旨に沿うものです。大阪においては都構想の実現をある意味認める形になるかもしれませんが、先の選挙で自民党は惨敗してしまいましたし、これも一つの国民の声なのかもしれません。外交安全保障はそもそも地方政治の論点に成りえないものですが、地方自治に関する声はシッカリ受け止めるべきものなのでしょう。都道府県の明記案になっていないのは、道州制に対する配慮があるとも言われますが、道州制なんてものは現状で出来ませんし、やるなら憲法改正マターです。つまり明記したところで現状は何も変わりませんし、都構想が実現するなら、面子に配慮して十分お釣りが来ると言わざるを得ません。

地方の県は地方の県と比較しながら切磋琢磨するべきでしょう。一極集中と言えど、地方の県が東京と戦うというような話では全くありません。東京と高めあう役は大阪がやればいい。同じ悩みを持つもの同士で相談しあえば、具体的で役に立つアイディアも生まれ、協力して声を上げればいいアイディアを拒否する政権があろうはずもありません。県知事会が今ひとつ存在感が薄いのは、何でも一緒くたにしてアイディアを出すのがどっちかつかずになるからなのかもしれません。

ともあれ9条について議論することで安全保障について理解が深まり、緊急事態条項について防災について理解が深まり、教育充実で教育について理解が深まるように、合区解消案も地方自治について理解が深まる契機になれば良いと考えます。それが国民の声となり、誰それとは議論をしない等という有り得ない立場を吹き飛ばし(言い訳に決まっています。誰それを交代させても反対する新しい理由を考えるに決まってます)、憲法を国民の手に取り戻すことになると考えます。

憲法改正(教育充実)及び家庭の問題など

2019-03-04 17:12:28 | 憲法・法務・司法・立法
今回の(下村博文自民党憲法改正推進本部長のえひめ政策セミナーを受けての)憲法改正シリーズ4案の最後「教育充実」ですが、簡単に触れておきます(他の考えられる案や世論喚起についてはまた別の機会にやるかもしれません)。

自民党の現行案は二つで一つ目は第二十六条に3項「国は、教育が国民一人一人の人格の完成を目指し、その幸福の追求に欠くことのできないものであり、かつ、国の未来を切り拓く上で極めて重要な役割を担うものであることに鑑み、各個人の経済的理由にかかわらず教育を受ける機会を確保することを含め、教育環境の整備に努めなければならない。」を追加する案のようです。

第1項は教育を受ける権利、第2項は教育を受けさせる義務および義務教育の無償になりますが、第3項追加の狙いは義務教育でない普通教育(高等学校等)や高等教育、専門教育、職業教育を国民一人一人の幸福の追求に欠かせないものと定め、経済的理由にかかわらず教育を受けられるよう国に教育環境の整備を促すことだと考えられます。逆に言えば、これまではそれが出来ていなかったということなのでしょう。

子供の貧困が社会問題化して久しく、その要因は一人親家庭が増えていることのようです(一人親世帯の増加 データえっせい)。要は日本はこれまでこうした急激な少子高齢化に十分対応できていなかったのでしょう。機会の平等はあると言ったところで、親を選んで生まれることも出来ません。経済的理由で子供に必要最低限の教育を受けさせられない家庭があるようですから(というかそういう家庭が増えているようですから)、国の支援を義務付けていくことで、日本はこうした問題を解消していこうということだと思います。当たり前化している普通教育は勿論、あくまで教育ですから高等教育等も視野に入っているんだろうと筆者は考えています。学歴は仕事に関係ないと言いますが、現実的には学歴によって生涯年収に差がつく現実もあって(学歴別の年収・収入格差データ 年収ガイド)、能力があるのに経済的理由で適切な教育を受けられない人が日本に多いのだとしたら、日本の損失だと捉えることも出来るのでしょう。

最近児童虐待の話題が国会でもありますが、母子世帯などひとり親世帯は虐待の発生率が高いことが指摘されているようです(母子世帯と子どもへの虐待 山野良一 社会保障研究 2017, vol. 2, no. 1, pp. 45-59.)。児童相談所充実も考えられますが、片親世帯(特に母子家庭)の教育を支援することで経済的負担を軽減すれば、児童虐待の発生も抑えられるかもしれません。義務教育は既に無償と思うかもしれませんが、幼稚園も教育でしょうし、年長の兄弟の教育を支援ことで親が楽になるとも考えられます。

教育に関連して片親の問題に触れたので、ここで都会と地方の事情の違いを確認してみます(シングル親が多い都道府県ランキング【47都道府県掲載・完全版】 2017.10.24 和泉虎太郎 ダイヤモンドオンライン)。

>親権については、さらに驚く数字がある。女性が親権を持つ比率は戦後一貫して高くなっているのだが、1965年までは男性の方が多かったということだ。シングルマザーの比率が顕著に高くなるのは80年代以降のことなのである。※2p

親権って女性が持つイメージがあって現在において間違いないのですが、1965年まで男性の方が多かったという事実があったのだとすると驚きます。これは元々の傾向が経済的理由で隠れていたのだと考えられると思います。恐らく1965年までは女性は親権を持ちたくても経済的理由で難しかったのでしょう。女性の社会進出が進むに従って、女性が子供を育てる元々の傾向が出てきたように見えます(近頃はイクメンという言葉もありますが、まだまだ普及しているとは言えないのかもしれません)。いずれにせよ、女性の社会的進出が進めば、離婚も増えるのでしょうし、母子家庭が増えるなら、教育にお金をかけられず子供の可能性が狭まってしまうことも増えるのでしょう。だからと言って、女性の労働力の活用なくして経済成長は全くの不可能ですから、そうした国(女性の社会進出を阻む国)を目指すことは亡国の道だと思いますが、歪が出てきた部分は対応しなければなりません。親権のような一見心の問題に見える問題も結構経済問題の影響が大きいことは認識されてもいいのでしょう。教育も然りだと言え、それを踏まえた改正案だと思います。

>京都や大阪府、神奈川県といった大都市圏では、住宅事情が厳しかったり、就業の構造、幼児保育の未整備の問題のために、そもそも同居なしの母子父子家庭を維持するのが困難なのではないだろうか。そして特に父子家庭にその傾向が高いということだ。※4p

大都市圏で幼児保育未整備等の問題があるため、同居なしの母子父子家庭を維持するのが困難はその通りのように思いますが、特に父子家庭にその傾向が高いというのは、男の職場ほど子育て支援などないという事実を示しているんだろうと思います。これまで通り女性が多い職場(及び周辺)での子育て支援策を進めると共に、男の職場でも万一の際に子育てできるよう支援が必要ではないかと思います。女性の方が経済厳しいで男性の方が引き受けた方がいいにも関わらず、男性が職場環境の問題で子供を引き受けるのが不可能なケースで子供が貧困になる可能性もあるんでしょう。大都市が人口ブラックホール(人を吸引するものの自らは人口を増やさない)なのは昔からだと思いますが、今は地方の人口増加力が衰えている問題があって厳しいところがあると思います。ただそれは問題意識が薄く対策も無かった昔の話で傾向があってもそれが永続すると限りません。要は企業を含め大都市がコストをかけて対策することです。大都市は自らの人口ブラックホール現象に向き合う責任もあるんじゃないでしょうか?これに対し地方は待機児童問題も深刻ではありませんし、親に子供をみてもらえるケースも大都会よりあって、子育ての環境は現時点で逼迫していませんから、新たな負担は少なくて済みそうです。企業がこうした問題意識をもって解決を目指して真剣に取り組む時、コスト面で地方が相対的に有利になりますから、あるいは東京一極集中の流れも変わっていくのかもしれません。

>もうひとつの仮説は、親族の支援がないシングルでの子育てが困難と知って、離婚を踏みとどまっているケースだ。

あるいは支援してしまうとじゃあ離婚できるなで離婚が増えるケースも考えられます。これはあまり望ましくない事態ではありますが、例えばDV癖がある夫に対して経済的理由で(子供は自分で育てられないけどDV親に放置するのも可哀相と踏みとどまるかもしれません)離婚できないと仮定すると、離婚できるなら離婚した方が幸せになれる人が多くなるだろうと考えることも出来ます。また少なくとも離婚カードが存在しないならば、パートナー(妻のDVの可能性がゼロではないんでしょう)の横暴を牽制できないとも考えられるんじゃないでしょうか?反省して改善する可能性が潰れていると見ることも出来るかもしれません。

>給料が高いところは、母子父子家庭が少ないのである。

旦那の給料が低いから離婚!があるある世知辛い世の中です。憲法改正で教育支援されるならば、低所得家庭の離婚もあるいは減って、皆幸せになれるかもしれません。この旦那では子供を高卒にしなければいけないと思いつめた嫁が三行半をつきつけるのはありそうな話です。最初から分かってて結婚したのではないかと言われるにしても、たまたま倒産・たまたま人員整理だってないとは言えない世の中です。

家庭の問題に関連して無戸籍問題を(離婚やDV増のツケ…無戸籍者「全国に最低でも1万人はいる」 2016.12.1 iza 産経新聞)。

>子供が無戸籍になる理由はいくつかある。もっとも多いのは「嫡出推定」の制度が壁となるものだ。嫡出推定は民法772条で規定され、離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子と推定。法律的に前夫の子と推定されるのを避けるために、出生届を出さないケースが多い。

明治の頃につくられた法律がDNA鑑定を想定してない問題のようです。嫡出子とは法律上の婚姻関係にある男女の間に生まれた子どものことで相続で優遇されますが、つまり実子じゃなくてもいいということで浮気を奨励していると見ることも出来るのかもしれません。裏切られた方はたまったものではありませんね。「やってない」「少ない」「素行が」「念のため」で怪しいと思えば今は調べられる時代ですから、実子でなければ非嫡出子にできるならば、裏切りもあるいは減るのかもしれません。まぁ今の時代は不作為で(時代の変化に応じた法改正をしないことで)詐欺師有利、カッコウ有利な世の中と言えるのかもしれません。

>暴力から必死で逃げてきたのに、離婚のために連絡を取れば居場所がばれる。が、そのまま出生届を出せば、法的に元夫の子となってしまうからだという。

児童相談所の強化だけで問題が解決するとは限りませんね。子供に暴力を振るう人は妻(夫)にも暴力をふるっているかもしれません。また、この場合安易に逃げるという対応にも問題があるように思います。何故かというと、安易に逃げて逃げた側の言い分を丸呑みする社会にしてしまうと、それを逆利用されて無茶苦茶した側が逃げて無茶を通すケースが想定されるからです。例えば浮気がバレた専業主婦(仕事があれば逃げにくいという以上の意味はありません)が逃げてDVされたと作り話する可能性もないとは言えません。

今はDV相談できる窓口もありますし、緊急時以外は相談から始めるべきなのでしょう。この場合、DV夫はスマホをチェックしているとも考えられますから、発信者番号の消去もあわせて教えるべきかもしれません(それが出来ない電話は使うべきではないでしょう)。そう考えるとDV相談もそうですが児童相談所も緊急のもの以外は日本全国何処に設けてもいいのかもしれません。

非正規の問題で格差拡大の話もありますが、過ぎた時間が戻ることはありません。そう考えると、やはり教育とお金の問題を何とかしておくことも重要だろうと考えられます。育てられないから産まない・従って結婚しないを選択するのが少子化の一因だと仮定すると(結婚する前から子供を大学に行かせられないと分かっていたらどうでしょう?)、これが厳しい少子化解消の一助になるとも考えられます。

次に第八十九条ですが、私学助成を禁じてるように読める文面です。「公の支配に属しない」を「公の監督が及ばない」に変えて(私学は支配されてなくても監督はされています(文科省の管轄下にはあります)。公立は公の指揮下にあるのですから支配されていると言えます)、誰が読んでも私学助成ができるようにしていこうという話です。

改正しなくてもいいじゃないかと思うかもしれませんが、そうではないと思います。憲法とは立憲主義で国を縛るものとしてのみ見るのは一面的に過ぎます。比較憲法学の西修教授の指摘ですが、スイス憲法やフィンランド憲法など世界の多くの国で国民に責務も課し、国民と公共機関が相携えて良好な環境づくりをするための根拠規定に憲法はなっているようです。憲法を国を縛るか国民を縛るかの二項対立で見る民主党的見方こそ時代錯誤のようですが、国民と公共機関が協力するのであれば、国民が普通に読んで理解できないような文面は修正するべきとしか言いようがありません。そんなに難しいことでしょうか?話し合ってちょちょいで出来そうな話です。一々それだけのために国民投票をするのは大変ですが、いろいろセットでやればいい話です。そんなことをする政治家・官僚もいないと信じますが、この文面を悪用して私学に脅しをかけることも出来るのかもしれません。少なくとも変えるに越したことはないものを変えないという結論は無さそうだと思います。

関連して第九十九条憲法尊重擁護義務は書いてませんが国民も当然あると読むべきなのだそうです。権力者は濫用するかもしれないから特に規定を設けただけで書いてないから憲法制定権者である国民が憲法を尊重し擁護しなくていいということにはならないのだとか。前文とか9条を尊重し擁護するのかと暗澹たる気持ちになりはしますが、まぁ第96条の改正規定があるのですから、ここを変えろで理由を言うのは構わないとは言えそうです。つまり一国民であっても、憲法改正自体に反対(護憲派とその仲間達)は第99条及び96条違反で歩く憲法違反ということになりそうですし(安倍政権下での~も法の下の平等に反した上で憲法改正に反対し憲法を擁護していませんからアウトのようです)、私学助成に関して言えば論理的に詰められたケースで(誰がそれをするのか知りませんが)「言い訳」が準備されていないと論破されて現時点で私学助成アウトと言わざるを得ないんじゃないかということになりそうです。どうでもいいようですが、どうでもいいことで絡まれないための改正も必要かと思います。

憲法遵守義務はイタリア始め諸国の憲法に書かれているようですが、アメリカとフランス憲法には書かれていないと主張する人もいるようです。ところが少なくともアメリカにおいては連邦最高裁判所が1879年の判決で合衆国の憲法及び法律は国の最高法規であって個人の資格であろうと公的な資格であろうと従うことは合衆国民の義務であると明確に判断を下しているようです。要は当たり前のことが書いている訳だから国民皆守りましょうということだと思います。そして時代にあわないと思えば改正すればいい訳です。そしてそれを提起するのが国会議員の仕事でしょう。国会議員も国民に理解されないと(選挙に勝てないと)議員になれませんから、そうした問題意識を持つ政治家を選ぶことが重要なんだろうと思います。その判断基準は無条件で憲法議論ができるかどうか(少なくとも憲法審査会を力ずくで止めたりしないか)だと考えますが、筆者はとにかく否決されてもいいので発議を目指したらどうなのかと思っています。何故なら発議を目指さないと誰が消極的か分かりにくいからです。発議可能な能力を持ちその意志を示してきた安倍政権の間に何らかの結論はほしく、有耶無耶にはなってほしくないですね(9条改正が反対として国民投票で否決すればいいだけと思うのですが議論自体否定の意味が分かりません)。また、この唯一の例外として憲法改正自体に反対した護憲派とその仲間達の憲法改正議論には応じるべきではないとだけは書いておきます。野党の間は徹底反対するから与党になったら賛成してねのような議論を認めることはテロリストを育てるのと同義です。日本をテロを称揚するお隣のような国にしたくはありません。政権とったられば、一度やらせてみせてくださいでどうなったか、民主党が民主党ではない民進党なのだと通り名ロンダリングしただけではないのかよく考えてみるべきだろうと思います。

憲法改正(9条改正と自衛の定義)

2019-02-24 22:18:13 | 憲法・法務・司法・立法
下村博文自由民主党憲法改正推進本部長の講演やCafestaトークで確認しましたが、どうも現行の憲法9条改正案は違憲論の払拭に限定されるようです。

>我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。

筆者は必要な自衛の措置をとれると憲法に書いているなら、少なくとも相手の攻撃が着弾したら、持てる装備を全て使って全力で反撃できると思うのですが(戦時国際法に則り)、何かよく分からない制限のようなものがあるのかもしれません。9条2項の戦力の定義はありますが、それは装備や体制整備の段階の話であって、持っている装備がフルスペックで使えないなんて話は信じがたいものがあります。自衛隊は自衛に限るのであって、敵国占領を想定するのは疑問ですが、今はミサイル時代ですし、敵国の根拠地を叩くのは止むを得ないというか、自衛の範囲にしか思えません。

筆者は基本的に憲法の条文間に矛盾があるとしても互いに違憲にならないと考えています。勿論矛盾に見える記述はない方が望ましいのですが、憲法は法律の根拠になるのであって、憲法自身の根拠は存在しないはずです。自衛隊明記で違憲論は払拭できるとして、問題は戦力の解釈ですが、これは現時点でも(自衛隊明記論で改憲しても)その装備が違憲だと解釈される恐れがないとは言えません(その結果自衛隊自身が違憲になる可能性はなくなります)。そうした事態を完全に防ぐためには二項を削除ないし、せめて文言を変えておいた方がいいとは思いますが、発議の可能性の問題もありますし、全ての可能性を考慮して議論するなら、憲法改正はほぼ不可能と考えられますから(特に中東の戦争に参加するしないの議論は不可能です)、ここでひとまず置きます。

戦力の定義ですが、憲法と自衛権(防衛省・自衛隊)を参照すると、「性能上専ら相手国国土の壊滅的な破壊のためにのみ用いられる、いわゆる攻撃的兵器」「たとえば、大陸間弾道ミサイル(ICBM:Intercontinental Ballistic Missile)、長距離戦略爆撃機、攻撃型空母」が保有を許されないようですから、(違憲論を払拭し)戦力でないと定義された自衛隊が現在保有していいと解釈されている兵器は、結局核というか大量破壊兵器関連のみのように見えるんですよね。戦力条項があるなら、裁判所が政府解釈を超えて勝手にこの装備が違憲と判定する可能性が排除できないとは思うのですが、国際的に禁止されている大量破壊兵器を保有している実力部隊が戦力であり軍隊であると日本(だけ)は定義しておくのは、意外と透明性があって分かりやすい解釈になるんじゃないだろうかと思います。

これに伴い所謂非核三原則も「持たず、つくらず」は空文化し意味がなくなります。「持ち込ませず」はそもそも他国の権利を侵害しますし、何なら(無理やり持ち込まれたら)開戦事由にすらなりえるので、この際無かったことにするべきだと思います。残念なのはこれで(現状で)ニュークリアシェアリングのような話の可能性が無くなることですが、それが必要な安全保障環境になったと思われたら、また国民の理解を得て改憲を目指すのが政治の務めだろうと思います。とにかくそういう話を今すると改憲の実現性が無くなると考えられ、薄い可能性を最大限に確保するのような話はやらない方が良いと思います。

ICBMは基本的に大量破壊兵器(ほぼ核)とセットで使われますし、戦略爆撃機も然りです(共にアメリカでは空軍のようです)。問題は攻撃型空母ですが、そもそも空軍の戦略爆撃機を運ぶことは(多分)考えてないでしょうが、要は大陸を占領したり、それを目指すため大洋を横断したりすることを想定しているのが攻撃型空母と考えていいのかもしれません。戦前の海軍の失敗に艦隊決戦志向があるともされるようですが、シーレーンの防衛や通商破壊がそもそも海軍の大きなな役割であるようです(参考:海上自衛隊「装備」のすべて。SBクリエイティブ サイエンスアイ新書 毒島刀也)。自衛でシーレーンの防衛や通商破壊かよ?と思うかもしれませんが、近現代の戦争は総力戦ですし、日露戦争あたりでも既に(艦隊決戦で日本は派手に勝ちましたが)ロシアの通商破壊に苦しめられたところはあるようなんですよね。補給は戦争の重要な一要素で、油が無ければ継戦できない訳です。日本の防衛と通商破壊やシーレーンの防衛は固より一体的です。

具体的には東南アジアの海の島に拠点がある国もありますし、人口密集するアジアのシーレーンの防衛が日本の自衛を意味するということは考えられます。逆に考えれば、そのシーレーンが防衛できずに日本が自衛できるでしょうか?商船が潰され石油が入ってこなくなったら、「はいアウト」は誰でも分かると思います。別に総力戦で奴らを叩き潰すぜを想定せずとも、日本がシーレーン防衛できる能力を保持して訓練しておくことで、戦争になったら面倒と思わせ、平和維持力を高めることは十分可能なはずです。最近導入が決まったF-35bやいずもはそうした用途なのでしょう。南シナ海で自衛隊が訓練していたことが最近公開されましたが、元々自衛隊は日本を自衛するため、通商破壊やシーレーン防衛を志向してきたんだろうと思います。通商破壊と言えば物騒な感じですが、世界の安全保障にとって不安定要因と認識されている大量破壊兵器の保有に関係ありませんし、逆にそうした志向性を持つ海自は背取り対策で大量破壊兵器の拡散阻止業務に従事しているとも言えると思います。

まぁあまり物騒な話をするべきではないのかもしれませんが、実際問題、日本の領土を狙っている国も存在する訳で、戦争になったら補給が絶えて国が死ぬと思わせられれば、かなり抑止力があるってことになると思います。また、中越戦争なんかは中ソ対立でイライラした中国がベトナムを苛めるつもりで開戦したところがあるようです。姑息と思いますがそれが厳しい国際政治の現実でもあるでしょう。中国軍は党の軍隊で政治の腹ひとつで動きかねない部分もあって注意が必要です。犯罪者は弱者を狙うのであって、筋肉ムキムキマンというかできるだけ強そうな人は避けるでしょう。安全保障政策も同じで、奴らは強い、戦争になったらタダでは済まないと思わせることが戦争を抑止し平和を守ります。残念ながら逆に弱そうな国・隙がある国が無茶苦茶やられるってことでしょう(妙な線をガッツリ東南アジアに引いて(弱者に)挑戦的な国もありますよね。経済成長著しい韜光養晦な国は警戒すべきですし、体制整備は直ぐに整うというものでもありません)。

日本自体が不沈空母と言えますから、シーレーン防衛が必要としても、日本が基地では駄目なのかという考え方は有り得るでしょうが(滑走路の制約で艦載機は重量が重くなってしまい、滑走路を十分使える空自の航空機の方が基本的に性能が良いはずです)、シーレーン防衛という遠征を考えると(F-35aの航続距離は2220kmだそうで、沖縄を基地にしても往復で南シナ海での活動には使えそうにありません。空自は戦時に重要な日本近辺の制空権を確保する業務もありますし、海自が独立して戦闘機を自身で持ちその業務を担う重要性もあるかもしれませんし、航空機の搭載戦力の制約を考えると、艦隊の方が対戦したら強い可能性もあると考えられます(先の大戦と違って今はミサイル時代です)(自衛隊が長射程の巡航ミサイルを必要とする背景、盾と矛の競争(Yahooニュース 2017/12/28)を参照すると、射程が延びた対空ミサイルに対して新型の対艦ミサイルが必要なようです)(艦隊が山のように対空ミサイルを持っていたら(高価ですが)空軍でもそれを潰せるのか潰せないのか素人にはサッパリ分からないものがあります)。

こうした業務をすることを国民に説明しやすくし、違憲論を払拭し、平和を引き続き守ることが9条改憲の目的と思います。

北朝鮮の問題にミサイルの脅威が挙げられますが、筆者は交渉による先軍政治の武装解除を目指すよりは、「相互確証破壊式」に北朝鮮に対する攻撃力を整備する方向性が一番コスト安ではないかという気もします。勿論大量破壊兵器の廃棄が前提条件ですが、ミサイルぐらいと言ってはなんですが、それだけなら反撃力があれば、十分抑止は成り立ちそうです。また、一方でミサイル防衛の進展を選択肢から排除しないことも重要かもしれません。外交交渉も不可能ではないかもしれませんが、とにかく世界に短中距離ミサイル廃棄の流れもありませんし、日本もICBMという戦力は持たないにせよ、自衛・防衛にミサイルは必要な訳で、北朝鮮相手に放棄を迫る交渉が難しいと考えられます。

次に集団的自衛権ですが、そもそも自衛とは何でしょうか?ウェブスター見解によると、自衛権の行使の要件は①急迫不正の侵害があること(急迫性、違法性)②他にこれを排除して、国を防衛する手段がないこと(必要性)③必要な限度にとどめること(相当性、均衡性)になります。「自衛戦争の名の下に侵略戦争は行われる」という批判がありますが、このウェブスター見解を守る限り、そんなことにはならなそうです。自衛隊が明快にウェブスター見解のようなルールに従って体制整備・法整備し平時から訓練しておけば、日本が侵略戦争を開始するという疑いは無くなるものと思います。こうしたやり方は憲法9条条文との矛盾批判を和らげる役割もありそうです。国連憲章第51条に「個別的又は集団的自衛の固有の権利」があるようですが、勿論日本も国連加盟国です。日本国憲法が明快に自衛権を否定していないのであれば、国連憲章が定める固有の権利はあると理解するのが普通の読み方だと考えられます。9条2項で交戦権が否定されていますが、その前提として1項で「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」とあり、1項に矛盾しない(戦力ではない)実力組織の戦闘を交戦とは言わなければ特に問題はないのではないでしょうか?要は国際紛争を解決するために武力行使せず、(自衛を拡大解釈しない体制で)自衛のための戦闘は容認すればいいと考えられます。交戦権という文言ですが、戦争を開始する権利とも読めます。無論自衛のための「戦争」も広くとれば戦争には違いありませんが、より上位の権利である自衛権で上書きされると解釈すれば良いと思います。自衛権がなければ、襲われたら確実にやられてしまいます。襲えば確実にやっつけられる獲物こそ狙われるのが当たり前ですが国際社会の現実でもあると思います。ですから自衛権が国際社会で認められ、日本もその例外ではないという訳です。その前提で自衛隊が存在し、侵略されたら必要な限度で戦闘することが出来るということになります。この文脈において、日本に依然交戦する権利は存在しないと言えます。あくまで国際的に認められた自衛をしているだけなのですから。あえて例えるなら「喧嘩権」を否定すれば喧嘩を開始することは出来なくなりますが、殴られて(必要限度の範囲内で)殴り返すのは自衛であって喧嘩とは言わないという解釈です。やや分かり難くはあるかもしれませんが、筆者はこれをそう無理のある解釈とは思いません。そして日本がそうした国を志向するのであれば、寧ろ9条2項を削除しないことに積極的意味があるということにもなります(文言ぐらいは分かりやすく変える方が望ましいかもしれませんが、削除したままだと侵略戦争容認と同義になってしまいます)。

個別的自衛権はそれでいいとして、次に集団的自衛権について考えてみると、やはり個別的自衛権と同様で例えばウェブスター見解に準じることが考えられます。集団的自衛権は他国と協同して自衛する権利ですが、この他国が日本で決められた自衛の範囲外で戦争する国だと自衛隊が憲法に禁じる行為を実行する端緒になりかねないことは容易に分かります。ですから、集団的自衛権は固有の権利として持っているにせよ、個別的自衛権に準じる解釈でならねばならないのであって、あらゆる可能性を担保する国に対して、自分の基準以上の協力は不可能だと予めしておかなければならないということになります。言わば、個別的自衛権と同程度の日本が定めた範囲のフルスペックの集団的自衛権は保有しているが、日本が解する範囲以上の自衛は集団的自衛の名の下でも(事実上の自衛でないと解するので)行わないということになると思います。これは主権国家固有の権利でもあると思います。無論、これが集団的自衛権を行使しない言い訳にはなってはならず、同盟国と十分協議する必要はあると思いますが、急迫性、違法性、必要性、相当性、均衡性が認められる攻撃が同盟国に対して加えられた場合、論理的帰結として、自動参戦するということになると思います。具体的には在日米軍基地やグアムの基地もそうですが、ペンタゴン・ホワイトハウス等米本土に対する攻撃も含めて日本は参戦するということになりそうです。ただ、アフガニスタンの戦争への自動的参戦にはならないかもしれません。②の必要性の観点から自衛ではないと判断できるからです(タリバンに証拠を渡せば犯人を引き渡した可能性や犯人確保に失敗しても自衛できた可能性が残ります)。この時、ドイツはNATOによる集団的自衛権の発動を受けて参戦したようですが、日本という国がアフガニスタン戦争に介入する可能性を事前に説明して改憲が成功すると思えないところがあります。ですから、例えば(治安問題と解することができる)テロに対する戦争は自衛の必要性(他に代替手段がない)を認められないと予め説明する必要があるように思います。米本土に対する想定される攻撃とは従来型の軍隊による攻撃を指し、先の大戦で日本がハワイを攻撃したものの、そう簡単に発生しないと考えることが出来ます。風船爆弾の類はテロの範疇で解するべきかもしれませんが、ICBMなんかは勿論戦争に含まれます(テロ組織でできるレベルか国家の力が必要かで判断されるかもしれません)。グアムの米軍基地もそうですが、その辺が仮に攻撃されたと考えると、否応無くもはや一蓮托生としか思えません。それでも日本が先走るべきではありませんが、アメリカと共に近隣の対象国と戦争するということになると思います。逆に日本が攻撃を受けた場合は日本とアメリカは共に戦うことになるんでしょう(頼みます先生!でアメリカという用心棒がボコボコにしてくれる訳ではありません)。また、日本が自衛の原則を守る限り、アメリカが日本の戦争に巻き込まれるという事態も起こり得ません(自衛戦争に対する協力は互いに前提のはずです)。互いにいろいろ言い分はあるかもしれませんが、これで対等な同盟とも言えるはずです。核抑止など米軍は膨大なコストを払っていますが(集団的自衛権ですが、自衛隊という実力組織は集団的自衛権で戦力と組むということになると思います。憲法に書かれているのは日本が主体的に保持しないということです。逆に言えば自衛隊は戦力外の実力組織ということになりますが、名を捨てる形は容認するしかありません)、日本の基地負担は比較的大きいとされます。遠く離れた地域の戦争に参戦しなくても、貢献の方法はいろいろ考えられますし、実際そうしてきたとも思います。

これまで具体的に触れていない①急迫不正の侵害があること(急迫性、違法性)をここで考えておくと、過去の事情を理由に自衛戦争しない、道徳・感情のみを理由に自衛戦争しないということになります。あくまで差し迫った(現在の)危険と違法行為(具体的なルール違反が見られること)が自衛戦争の条件ということになると思います。ついで②他にこれを排除して、国を防衛する手段がないこと(必要性)を別の言い方をすると、拡大解釈しないということになりそうです(既に対テロ戦争のような「新しい戦争」は(事前の体制整備がない限り)容認すべきではないのではないかと指摘しました。サイバー戦争・宇宙戦争なら事前に法整備があればOKだということにはなります)。仮に日米同盟が無ければ、日本が中東のテロ組織に攻撃されたとして、戦争のしようもありません。何もしないことはないにせよ、外交努力とか経済制裁とかそういう話になりますよね。ですから、テロ組織の攻撃に対して軍隊を持ち出すのは、(ベストではないかもしれませんが)他に手段があるとは言えるはずです。これに対し、従来の軍隊による攻撃は他に代替手段も無さそうです。軍隊が攻めてきているのに外交努力も経済制裁も何もあったものではありません。③必要な限度にとどめること(相当性、均衡性)もやはり重要で過剰報復はならないという戒めです。一発殴らせておいて殺人するのは、どちらがならずものか分かりません。ちょっと気に入らないからジェノサイドは有り得ないのであって、日本は先の大戦において人道に対する罪に大きく問われた訳でもありません。

平和安全法制に少し触れますと、これまでも違憲ではありませんが(違憲立法審査できる裁判所が判断を下していませんが)(何の権限もない野党の類が何やら外交安全保障で違憲を主張し政争しているようですが)、自衛隊明記で違憲論は必ず払拭されるということになりそうです。憲法間の矛盾があるとしても憲法の条文自体が違憲になる可能性がありません(そう判断する根拠がありません)。集団的自衛権との絡みでも存立危機事態は妥当な自衛権解釈の中に内包されると思います。掃海も石油タンカーが通る海域の機雷は日本の存立危機事態で掃海艇の派遣は当然だと考えられます。かといって、③均衡性の観点から機雷を撒いた国の本土を攻撃して立ち直れないように戦争するということにはならないはずです(同盟国の攻撃はその限りではなく、日本も協力は無論するのでしょう。しかしながら、機雷を撒いた部隊の港は攻撃するかもしれませんし、あるいは出撃基地が明確なら空港の攻撃もあるかもしれません。地上部隊の派遣と占領までは全く無いとと言えます)。

シーレーンの防衛ですが、インド洋・中東あたりは平和維持活動の範囲内で活動するべきで、日本の主任務にはならなそうです。当該海域で日本の自衛を明快に脅かすと言える存在がありませんし、日本にあらゆる可能性を考慮して世界展開する余裕がある訳でもありません。ただ、東南アジアの海域のシーレーン防衛は(日本並びに同盟国に対して挑戦的に)既に積極的に活動している勢力が存在しており、①~③の要件をクリアする事態は想定されるべきだろうと考えています。石油が止れば日本は死ぬのですし、同害報復の手段ぐらい確保せねば防衛になりません(タイマンでやる訳でもなし)。

置き去りになった(最大派閥の)陸自ですが、自衛を旨とするなら、海空と違って平和維持活動以外での日本の周辺事態での活動が考えられません。だとするなら、(現状の体制では)せめて島嶼も含めて防衛というか陸自が奪還作戦に積極的に関わる方向性が重要なのかもしれません。サイバー戦争なんかもありますけど。インフラは基本的には陸にあります(海底や宇宙も重要でしょうが)。

違憲論払拭で改正の必要性云々言う方もいらっしゃいますが、関心のある方は各々自衛とは?自衛隊とは?をこの機会に問い直してもいいんじゃないかと思います。その辺を平時から押さえてないから拡大解釈になりやすいのかもしれません。

憲法改正(合区解消)

2019-02-22 11:35:16 | 憲法・法務・司法・立法
憲法改正で合区ですが、四国が三国になるのは困ると思いますし(しかも隣接する香川-徳島ではなく、山深い四国山地で区切られる徳島-高知)、大都市一極集中の流れが止らなければ(今のところ止りそうもありませんが)、これからドンドン田舎県が合区になっていって更に問題が増えると思うのですが、大都会の選挙区への注目があってもいいと思います。

人口が多い東京選挙区では6人選ばれます。所謂大選挙区制度ですが、有権者との距離が遠くなること、多数の立候補者に有権者が混乱すること、選挙費用がかかること、同一政党間における同士討ち問題、金権腐敗体質の招き、補欠選挙も行いにくいことなどの欠点もあるようです。前回と一回飛ばして(半数改選)その前の連続トップ当選が二重国籍問題でも知られる蓮舫氏なのですが、そのあたりの事情もやや関係すると思います(それでも民主党・民進党は2人通していて大都市に強い感じもありますが、今年改選の2013年選挙ではゼロ人で浮動票が多い感じもあるのかもしれません。ただし極左議員が2人通っています)。

一極集中の是正に関して言えば、福岡市の事例に注目すべきかもしれません。東洋経済2月23日号の特集を参照しましたが、圧倒的な勝ち組福岡市(地方というか大都市な気もしますが)の人口増の秘訣は学園都市であることにもあるようです。教育は憲法改正のテーマでもありますが、今後要注目のテーマかもしれません。大学進学で他県から来て、そのまま就職で人口移入はありそうなパターンというか、人口移動の強いきっかけになると考えられます。地方創生は大学から?

同じ東洋経済記事で過疎地の振興で言えば、猿払村が港区・千代田区に次ぐ高所得なのだそうです。ホタテの育てて獲る漁業が成功しているらしいですが、高所得だけに後継不足はないらしいのですが、加工は外国人実習生に依存しているようです。いろいろ批判もある外国人実習生ですが、過疎地においてwin-winのひとつの事例と言えるのかもしれません。猿払村には天北線の猿払駅があったようです。維持だけで膨大な赤字が出る同路線が現在も存続していれば、今の成功も無かったかもしれません。地方・特に過疎地はお金がかかるものです。しかし抱えていれば面白いこともあると思います。少なくとも足し算すれば規模は大きくなるとも考えられます。日本は意外と人口・面積大国ですし、大国の平均はそう高くはでないところはあると思いますが(その意味でヨーロッパ小国が強い)、結局のところやるべきことをやるということに尽きそうな気もします。ともあれ、そういう地方に目を配り、面白いものを育てていく意味でも都道府県に最低一人の議員を確保するための合区解消という訳です。一人あたりGDPが全てではなく、広い土地を持つ地方を活かす視点も必要だと思います。

憲法改正(災害に関連して緊急事態条項を設ける意義)

2019-02-20 05:51:57 | 憲法・法務・司法・立法
[フリー写真] 東北地方太平洋沖地震の被害に遭った岩手県大船渡市(パブリックドメインQ:著作権フリー画像素材集)

【CafeSta】「みんなで考えよう憲法改正のコト」解説:古屋圭司 党憲法改正推進本部顧問 司会:下村博文 憲法改正推進本部長(2019.2.13)自民党チャンネル(4分30秒~11分40秒あたり)で憲法改正緊急事態条項に関連して、大規模災害に関連して緊急事態条項を設ける意義に関して解説がありました。以下それを元に自分なりに記事にまとめておきます。

古屋圭司議員ご指摘の災害が起きた時の日本の5つの法律。

災害対策基本法
災害救助法
自衛隊法
パンデミック法(新型インフルエンザ等対策特別措置法か。※感染症法があるのに、なぜ「特措法」が必要だったのか 日経メディカル 2013/2/15)
国民保護法(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律

これらの法律には憲法違反を指摘される疑いがある条項があって、そうした条項はほとんど発動されてこなかったようです。

例えば「車両の移動」に関しては災害対策基本法に基づく 車両移動に関する運用の手引き(国土交通省)7pを参照すると・・・

災害対策基本法
第七十六条の六 第七十六条の四第二項に規定する道路管理者等(以下この条において「道路管理者等」という。)は、その管理する道路の存する都道府県又はこれに隣接し若しくは近接する都道府県の地域に係る災害が発生した場合において、道路における車両の通行が停止し、又は著しく停滞し、車両その他の物件が緊急通行車両の通行の妨害となることにより災害応急対策の実施に著しい支障が生じるおそれがあり、かつ、緊急通行車両の通行を確保するため緊急の必要があると認めるときは、政令で定めるところにより、その管理する道路についてその区間を指定して、当該車両その他の物件の占有者、所有者又は管理者(第三項第三号において「車両等の占有者等」という。)に対し、当該車両その他の物件を付近の道路外の場所へ移動することその他当該指定をした道路の区間における緊急通行車両の通行を確保するため必要な措置をとることを命ずることができる。
2 道路管理者等は、前項の規定による指定をしたときは、直ちに、当該指定をした道路の区間(以下この項において「指定道路区間」という。)内に在る者に対し、当該指定道路区間を周知させる措置をとらなければならない。
3 次に掲げる場合においては、道路管理者等は、自ら第一項の規定による措置をとることができる。この場合において、道路管理者等は、当該措置をとるためやむを得ない限度において、当該措置に係る車両その他の物件を破損することができる。
一 第一項の規定による措置をとることを命ぜられた者が、当該措置をとらない場合
二 道路管理者等が、第一項の規定による命令の相手方が現場にいないために同項の規定による措置をとることを命ずることができない場合
三 道路管理者等が、道路の状況その他の事情により車両等の占有者等に第一項の規定による措置をとらせることができないと認めて同項の規定による命令をしないこととした場合
4 道路管理者等は、第一項又は前項の規定による措置をとるためやむを得ない必要があるときは、その必要な限度において、他人の土地を一時使用し、又は竹木その他の障害物を処分することができる。

これら国土交通大臣の権限は、地方整備局(東北、関東、北陸、中部、近畿、中国、四国、九州の8地方整備局)長又は北海道開発局長(沖縄県については、内閣府沖縄総合事務局開発建設部ですが、規定なしか)に委任されているようですが(災害対策基本法施行令33条の5)、これまで日本では災害時に例えば交通を阻害している車があり、それに対処する法律があっても、手出しが難しかったということなのでしょう。世界では当たり前にある緊急事態条項が無かった(【正論】国防と緊急事態の扱いは同一に 駒沢大学名誉教授・西修 産経新聞 2018.10.16 >国防条項と緊急事態条項の設定は、各国の憲法構造において不可避である。私が世界の全憲法を調査したところ、ある程度の人口と面積を備えた国家でそれらを欠いた憲法はほとんど見当たらない。とくに1990年以降、まったく新しく制定された憲法をもつ103カ国中、緊急事態条項を欠いている憲法は皆無である)から。

車は勿論個人の貴重な財産です。でも災害時には放置された車が邪魔になって交通を阻害する可能性があります。交通が阻害されていたら、緊急車両の通行もできませんから、速やかに撤去する必要がある訳ですが、これまで国土交通省の局長の判断では移動というか破損させる(第七十六条の六の3)ことが難しかったのではないかと思います。災害時に必ずしもレッカー移動する余裕がある訳ではなく、壊して速やかに通行を確保するべき時はあると思います。災害対応はスピード命です。勿論「やむを得ない限度において」という規定がありますから、これ幸い災害時にバンバン車を破壊するということでは全く無く、プロの責任者の判断において不必要かつ過剰にこの規定を利用することは無いということでもあると思います。

日本国憲法第二十九条
財産権は、これを侵してはならない。
財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。

用いることは出来るようですが、侵してはならないと書いている訳ですし、正当な補償があっても破損させることは出来ない可能性はあると思います。また、首都直下地震や南海トラフ地震クラスの大規模災害時に、全て補償できるのか(補償できないからといって必要と思われる措置をとらなくていいのか)という論点があってもいいと思います。いや自分にとって車は命より大切だ(本気かもしれません)と訴えられる恐れもあって、とにかく憲法を盾に災害に乗じた権利濫用を防ぐ必要はあるんだろうと思いますし、現実にそれを恐れてこれまで必要な措置が中々とられてこなかったという経緯があるんだろうと思います。緊急時だから憲法を曲解していいとも言えませんし(それをやると平時に戻って裁判で負ける可能性もあります)、実際にそうされてこなかったということでもあります。

クレーン車(東京消防庁)
>このクレーン車は、震災時における救助活動や各種災害現場で使用する車両です。
・・・吊り上げて車を移動させる訳ですが、これを実施した後、車が傷ついたんだがどうしてくれる?みたいなクレームも考えられます(穿った見方をすれば後で自分で傷つけることは出来ます)。まぁ消防庁の過失で補償も考えられはするんでしょうが、平和な日本と言えど世の中そんなに甘いものでもなく、是幸いで詐欺を働こうとしう方もいらっしゃるかもしれず(詐欺が無ければ警察は必要ありません)、言いがかりから政府・自治体を守る憲法的根拠が必要とも考えられます。

東日本大震災においてがれきの撤去に関連して現行憲法の規定に問題があるのではないかという自治体首長の声もあったようです。

次に職務従事命令に移ります。

災害対策基本法
(都道府県知事の従事命令等)
第七十一条 都道府県知事は、当該都道府県の地域に係る災害が発生した場合において、第五十条第一項第四号から第九号までに掲げる事項について応急措置を実施するため特に必要があると認めるときは、災害救助法(昭和二十二年法律第百十八号)第七条から第十条までの規定の例により、従事命令、協力命令若しくは保管命令を発し、施設、土地、家屋若しくは物資を管理し、使用し、若しくは収用し、又はその職員に施設、土地、家屋若しくは物資の所在する場所若しくは物資を保管させる場所に立ち入り検査をさせ、若しくは物資を保管させた者から必要な報告を取ることができる。

災害救助法
(従事命令)
第七条 都道府県知事は、救助を行うため、特に必要があると認めるときは、医療、土木建築工事又は輸送関係者を、第十四条の規定に基づく内閣総理大臣の指示を実施するため、必要があると認めるときは、医療又は土木建築工事関係者を、救助に関する業務に従事させることができる。
2 地方運輸局長(運輸監理部長を含む。)は、都道府県知事が第十四条の規定に基づく内閣総理大臣の指示を実施するため、必要があると認めて要求したときは、輸送関係者を救助に関する業務に従事させることができる。
3 前二項に規定する医療、土木建築工事及び輸送関係者の範囲は、政令で定める。
4 第五条第二項の規定は、第一項及び第二項の場合に準用する。
5 第一項又は第二項の規定により救助に従事させる場合においては、その実費を弁償しなければならない。
(協力命令)
第八条 都道府県知事は、救助を要する者及びその近隣の者を救助に関する業務に協力させることができる。
(都道府県知事の収用等)
第九条 都道府県知事は、救助を行うため、特に必要があると認めるとき、又は第十四条の規定に基づく内閣総理大臣の指示を実施するため、必要があると認めるときは、病院、診療所、旅館その他政令で定める施設を管理し、土地、家屋若しくは物資を使用し、物資の生産、集荷、販売、配給、保管若しくは輸送を業とする者に対して、その取り扱う物資の保管を命じ、又は物資を収用することができる。
2 第五条第二項及び第三項の規定は、前項の場合に準用する。
(都道府県知事の立入検査等)
第十条 前条第一項の規定により施設を管理し、土地、家屋若しくは物資を使用し、物資の保管を命じ、又は物資を収用するため必要があるときは、都道府県知事は、当該職員に施設、土地、家屋、物資の所在する場所又は物資を保管させる場所に立ち入り検査をさせることができる。
2 都道府県知事は、前条第一項の規定により物資を保管させた者に対し、必要な報告を求め、又は当該職員に当該物資を保管させてある場所に立ち入り検査をさせることができる。
3 第六条第三項から第五項までの規定は、前二項の場合に準用する。

災害対策基本法と災害救助法によれば、都道府県知事は災害時に医療、土木建築工事を救助業務に従事させることが出来、地方運輸局長(運輸監理部長を含む)は輸送関係者を救助業務に従事させることが出来るようです。他にも物資の保管を命じたり出来るようですが、これが(災害時に県内や地方運輸局内の業者を命令によって動員することは)憲法第22条居住移転の自由に反する恐れがあって(動員に法的根拠があっても訴えてくる論外な外国もあって今正に問題になっているところですが)(災害復旧は1日して成りませんし、被災地に止まって救助する必要があるのですから、一時的に居住・移転してもらう必要はあろうかと思います)、実際は東日本大震災においてボランティアで協力はしてくれたようですが、キチっとした法的根拠は必要でしょうし、その範囲に関して(広範囲に協力要請すると)憲法上問題があるという話もあるようです。「公共の福祉に反しない限り」という但し書きはあるのですが、公共の福祉って分かり難い概念でいろいろ議論もあるようですし、憲法は国民が読んで分かりやすいようにあるべきだと思います。

日本国憲法第二十二条
何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

自衛隊法に関して言えば、第九十四条の三「第八十三条第二項の規定により派遣を命ぜられた部隊等の自衛官は、災害対策基本法(昭和三十六年法律第二百二十三号)及びこれに基づく命令の定めるところにより、同法第五章第四節に規定する応急措置をとることができる」に基づき、例えば災害対策基本法第六十五条「市町村長は、当該市町村の地域に係る災害が発生し、又はまさに発生しようとしている場合において、応急措置を実施するため緊急の必要があると認めるときは、当該市町村の区域内の住民又は当該応急措置を実施すべき現場にある者を当該応急措置の業務に従事させることができる」の実施が緊急事態条項が無いと難しいのかもしれません。職業選択の自由があるから、応急措置の業務に従事してくれと要請されても嫌だよという訳です。

また、さすがに現役自衛官が任務拒否は無いにせよ、予備自衛官の災害招集で職業選択の自由で拒否が有り得る可能性もあります。予備自衛官に他の仕事もあるかもしれませんが、その場合でも災害時に動員し得るのかという議論があってもいいような気もします。日本は首都直下地震や南海トラフ地震のクラスの災害が有り得る国な訳ですから、人手が足りない可能性は有り得ますし、災害対応は速やかに行うことが重要です。救助活動の現場では災害後3日(72時間)が勝負と言われているそうです(72時間pdf 内閣府防災担当)。

国民保護法に関して言えば、国民保護法とは(内閣官房 国民保護ポータルサイト)を参照しましたが、住民の避難に関する措置があるようですが、これも居住、移転の自由を犯す恐れもあるのかもしれません。災害時の避難に関する検討課題 防災・災害情報(中央防災会議「災害時の避難に関する専門調査会」第6回資料)によると、災害時に避難を呼びかけても結構避難しない方もいらっしゃるようで、命令口調で呼びかけて効果があったという話もあるようです。印象も大切でしょうが、避難指示に対して抵抗を誘発する権利を制限する憲法根拠がある方が平時からの訓練もし易く、住民の事前の理解が得られるとも考えられます。少なくとも居住・移転の自由があるなら、避難指示が出たところで、いや自分はここを動かない!と主張する余地があって、実際にそう考えてしまう方がいるようですから、そういう方が亡くなったとしてその人の自由ですからでいいのかということになります(確信犯的に動かない人はそれでいいと考える余地はありますが、認知症等で判断力がない方もいらっしゃいますし、実際問題自分が被害を受けるような気がしなかったというレベルの認識で避難しない方もいるようです)。自治体は極力犠牲者を少なくするのが務めと思います(訴えられなかったら問題なしでもないでしょう)。

新型インフルエンザ等対策特別措置法に関して言えば(これが古屋議員の仰るパンデミック法か分かりませんがとりあえず)、第四十五条「感染を防止するための協力要請等」が憲法が保障する権利に抵触する恐れがありそうです。例えば「生活の維持に必要な場合を除きみだりに当該者の居宅又はこれに相当する場所から外出しないことその他の新型インフルエンザ等の感染の防止に必要な協力を要請することができる」ようですし、例えば興行場に対して「施設の使用の制限若しくは停止又は催物の開催の制限若しくは停止その他政令で定める措置を講ずるよう要請することができる」ようです。要するにパンデミックを誘発する恐れがあって、皆家でジッとしててほしいので、パチンコ場は閉鎖しててねという要請が考えられますが、商魂逞しすぎる方々の抵抗があったらどうするのかと考えてみることが出来るのかもしれません。まぁこれはあくまで要請に過ぎないようではありますが。

安倍政権下での憲法改正に徹底抗戦している野党第一党の党首の憲法観ですが、「東京新聞:性急な改憲議論「首相の趣味」 枝野氏「必要性感じない」」というニュースもあった(2018/01/05 リンク切れ)ようで、この程度の男が東日本大震災当時の官房長官だったことは日本の不幸だったのかもしれませんね。緊急事態対応に関連して、菅直人政権は十分な対応が出来なかったのであって、その原因は現行憲法に緊急事態条項が無かったことにあるのではないですか?だとしたら、憲法改正に関連して緊急事態条項を話し合わねばならないと思います(審査会は野党第一党が徹底反対したら動かず、実際議論が出来ていないようです)。フルアーマーが話題になりましたが(護憲系の支持者が反対するかもしれませんが)、自分を守ることが仕事ではありません。

現行憲法下で災害対策の法律があるからと言って、十二分に機能してきたとは限りません。憲法が規定する権利が緊急時に問題になるのであれば、制限する根拠も明快に必要になります。勿論法的根拠が必要ですから、憲法に緊急事態条項があるからと言って、滅茶苦茶なことが行われるということになりません(大陸法の国ですし法律に書かれていないことは実行する根拠がありません)。災害対策関連法案があったとして、画竜点睛を欠いていたという訳です。

これまでの自民党の震災対策(自民党ホームページ)

古屋議員は憲法改正を当初から訴えてきており、緊急事態条項や防災等にも詳しいようです。筆者は緊急事態条項は憲法改正の足を引っ張りかねないと思ってはいたのですが、勉強不足だったのかもしれません。

緊急事態条項に関連してこれまで国会議員の任期延長の話が中心だったようですが、大規模災害時に選挙どころではないは分かります。憲法に規定を設けて選挙延長は考えられると思います。

筆者としては他に東日本大震災クラスの震災で自治体が壊滅した場合を考えておく必要もあるんじゃないかと思います。東日本大震災において実際に町長が死亡したり、機能を喪失した自治体もあったと言います。幾ら法律に政府の権限が明記されていたとしても、その権限を持つ人物が死亡している場合、仕事の指示を出せるものがいないということになりかねません。これは憲法関連のマターではないかもしれませんが、緊急事態が何処まで想定されているか分からない気もしますので、あえて書いておきます。

また首都直下型地震の場合は、権限を持つものが死亡する等して災害関連の法律における憲法的根拠すら失われる可能性もあるかもしれません(例えば国会が開かれなければ国会の承認等得られません)。官房長官等、東京を離れないのが原則の仕事もある訳ですが、例えば防災担当大臣が首都直下地震でも政府機能が喪失しないように何らかの権限・制限をもたしたり、首都機能(防災)の一部移転をしておくことは考えられるのかもしれません。

緊急事態条項試案(2018年12月31日)

2018-12-31 16:12:00 | 憲法・法務・司法・立法
米海兵隊との実動訓練(フォレストライト01)(陸上自衛隊第4師団)(陸上自衛隊facebook 12月17日)

自民党の憲法改正案で国家緊急権は災害対応に関連する改正でこれまでも検討してきましたが、思うところあって(西修教授のほとんどの憲法では国家緊急権があるという指摘を踏まえ)、これまでの考察を見直した後、一度全て取っ払って一から考察したいと思います。

国家緊急権(ウィキペディア 2018/12/31)

>戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態に際して、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止し、一部の機関に大幅な権限を与えたり、人権保護規定を停止するなどの非常措置をとることによって秩序の回復を図る権限のことをいい、当該権限の根拠となる法令の規定を緊急事態条項という。

要は憲法秩序を停止するための憲法に埋め込まれた根拠規定が緊急事態条項なのでしょう。それが必要になる事態とは「戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態」です。自民党案では災害に関連して議論されてきた訳ですが、1000年に一度の東日本大震災を例にとって、こうだからこうという議論が盛り上がらなかったような気がしており、憲法改正案の中ではかなり厳しい部類のような現状ではしています。時期が(憲法に任期が規定されている)選挙にかぶったらどうするのかという議論はもっともだったと思いますが、ややインパクトに欠ける感じだったと思います。多分、南海トラフ地震も東日本大震災に近い感じになるはずで、首都直下地震だけ憲法秩序が足枷になるかもしれないと考察したのが前回の記事になります。

防災でフルスペックの人権を認められないケースはあります。分かりやすい極論で江戸時代ですが、火事の延焼を防ぐために関係ない人の家をブッ壊すのような。現代において例えば、がれきを片付け交通を回復しようとした時、所有権を主張する○チ○イがいたらどうするのかという問題が無いとも言えません。ただ、この場合も冷静に考えると、ガレキを片付ける時に、例えば貴金属のようなものを一緒に捨ててしまったらどうする?みたいな問いをたてることも出来ます。所有者にしてみれば、絶対に家にあったはずで、幾ら探してもないということは、片付けた時だとなるでしょう。ガレキを片付けることに因縁をつけられることをあまり心配する必要はないかもしれませんが、あらゆる事態を想定してみれば、何処まで憲法秩序を停止していいかという問題は残るのでしょう。いずれにせよ、防災は憲法秩序の下でずっと行われてきており、東日本大震災で具体例を元に必要性を示せないなら、緊急事態条項の創設の意図を勘ぐられて仕方がないところはあるだろうと思います。選挙の延長の必要性があるとしても、緊急事態条項を創設してしまえば、他の法令の根拠になりますから、創設の時に効果が大きい理由を示さないと改正自体危ない気がしてなりません。

東日本大震災と緊急事態条項に関連してひとつ押さえておくべきことがあって、それは原子力災害に関してです。原子力災害対策特別措置法(e-Gov)(1999年制定施行)が現在あるようですが、それでいいのか、現行憲法秩序で問題なかったのかという問いは有り得るでしょう。結論から言えば憲法的観点からは問題なさそうです。原子力災害対策特別措置法において原子力災害時に既に原子力事業者の上に総理大臣が立っているからです。工場における事故は第一に現場をよく知り圧倒的に近場にいる責任者や労働者が対処すべきと思いますが、それと同じく本来的には原子力災害は原子力事業者が対処せねばならないはずで、素人の総理大臣が出る幕はないように思えます。消防庁や自衛隊のような組織もサポートに止まるはずです(あまりに危険な仕事を事前に想定する可能性は考えましたが、やはり事故の拡大を防ぐには現場の人間が対処せねばなりません)。本当は(イラ)菅のような人の指示に従うべきのような法律が問題視されて良かったと思いますが、悪者になったのは東電で実際的な議論はなかったように思います。勿論、東電の人がヤバイから現行憲法下の罰を受けてもいいから、トンズラするわのような議論は許されることではなく、現行憲法下、あるいは緊急事態下で東電の人が対処するように法を定める必要はあると思いますが、それは総理が一々指揮指示するを意味しないと思います。具体的には、名目上事業者を指揮下において、三条「原子力事業者の責務」違反の罰を重くすることは考えられると思います。とにかく、事故はスピード第一で現場で対応し、行政は監視監督(監督というと野球を思い浮かべ指示をイメージするかもしれませんが、督戦(「督戦隊」ウィキペディア 2018/12/31)というのは逃げ出さないように見張って武力で逃げ出したものを処分することを意味し、監督の督は督戦の督だと筆者はここで定義しておきます)すると共に(指示指揮は必要ないというか基本的にはすべきでありません)、消防庁や自衛隊を援護に向わせるという形になるんじゃないかと思います(勿論予め何を援護するかは想定しておくべきです)。

以上ですが、ここまで(寧ろやり過ぎに思えるぐらい)現行憲法で出来るとなると、新たに緊急事態条項を創設して何をするの?と言われてしまうことになるんだろうと思います。ただ、緊急事態条項は通常の憲法において当然あるべきものですから、提起することに大きな意味があるとは筆者は思っています。

結局、「公共の福祉」万能論みたいな感じで、柔軟にやり過ぎて良く分からなくなっているような気がしないでもありません。そういう部分も議論できたら面白いのかもしれませんが、それはさておき、現状で権利(人権)が(当然に)(場合によっては)制限できることは確認できてしまいました。だとするならば、緊急事態条項の扱いは微妙なものになります。憲法の文言上有り得なそうな私学助成ですら罷り通るのですから(筆者は今回改正するべきだろうと思っています)、有り得ることは何をかいわんや。

ここで本来の緊急事態条項を考えてみましょう。ウィキペディアの記述を眺めてみると、どうも戦争や内乱・クーデターといった非常事態に対応して緊急事態条項があるような気がします。前提として戦争とは本質的に味方の人権も制限するものだと筆者は思っています。例えば本土決戦でここに塹壕を掘ると決めた時に、おらが土地に~などと言われても困ってしまう訳です。物資も徴発して軍票という形に成らざるを得ません。そうせずに人権を守っていると、戦争に負けてしまって、敵軍にそれどころではない人権侵害されてしまう訳です。また、自衛隊が敵軍を撃って、警察に殺人罪と言われては適いません。ですから、そうした軍事的な非常時に憲法秩序を停止するというのは有り得る発想です。これは憲法秩序が危ない(決定的に損なわれると想定される)時に一時的に憲法秩序を停止するものと表現することが出来るように思います。戦争に負けて日本国が無くなれば、日本国憲法も何もありませんし、選挙に拠らず、内乱・クーデターで政権が変わった時も同様と言えます。こうした事態を起こす連中はそもそも日本国憲法の秩序を尊重していない訳ですから、それなりの対処も必要になると言えます。まぁ外国に支配される戦争より、内乱・クーデターの方がマシと言えなくもありませんが、現行秩序から見れば、似たようなものと言えば似たようなものと言えます。

日本は英米法(慣習法)の国ではありませんから、大陸法における緊急事態条項を以下見ていきます。これはどちらがどうとかいう問題ではなく、実際的な議論をする必要性から来るものだと思ってください。

歴史を見ると、ナチスが緊急事態条項を乱発したのようなことが起こったようです。その反省の元に現行の国家緊急権があるとも。具体的には(ボン基本法において)職業の自由等(12a条)、移転の自由や住居の不可侵(17a条2項)、通信の秘密(10条2項)、移動の自由(11条2項)などを規定しているようですが、緊急事態における人権の制限に対する歯止めについて規定もあって、労働条件及び経済条件の維持、向上のための労働争議に対して、軍の投入などの措置をとることができないこととなっており(9条3項)、併せて憲法的秩序の除去に対する抵抗権を明文で規定している(20条4項)ようです。

確かに徴兵・徴用を考えると、職業選択の自由はありません。住居に入るなと兵士に言われても困るでしょう。スパイがいるかもしれませんから、怪しいと思ったら心証で通信を覗きみします。勝手に移動されても困りますし、また避難しろと指示して居座られても困ります。自衛隊は存在しており、こうしたことは現行憲法下で出来るのかもしれませんが、明快に議論しておいた方がどう考えても安心だと筆者は思います。戦争準備ガーと言われるかもしれませんが、戦争する準備がないから、「敵国」に冒険されてしまうとも言えます。明快に議論しておけば、緊急事態下においてもこれはやるなということまで事前に決めておける訳です。

戦争はそういう訳ですが、今回特に考察してみたいのは内乱・クーデター等に関してです。要は国内における憲法秩序の破壊についてですね。

事前に言っておきますが、立憲主義を盾にとって違憲を叫ぶのような立憲民主党的立場こそ危険極まりないというのが筆者の考えです。実際のところ安倍政権は憲法秩序に従い、やりたくもない合区を実施しており、自民党は憲法改正を提起することになりました。心証で憲法秩序が破壊されたと叫ぶことから、憲法秩序が破壊されていくような気すらしています。そういう大きな話は明快でなくてはなりません。

内乱やクーデターの防止を考える時、事後の対処は有り得ないというのが前提です。例えば、内乱やクーデターが成功しても認めないのような規定は、制圧されてしまえば全く意味がありません。つまり、内乱やクーデターは防止するより他ありませんが、防止するために憲法秩序を停止する必要があるのかという議論になります。怪しい団体や個人は平時において監視されるべきで、またそうでなくては内乱・クーデター等防げない訳です。ですから、緊急事態条項で対処すべきは実際の武力攻撃事態に対する対処ということになります。平時の監視は通信の秘密を侵すにしても裁判所を通してのように歯止めをかける流れになります。だとすれば、戦争に準じる規定で大体良いのではないかと考えられ、大は小を兼ねそうです(一端制圧されてしまったら、何を規定しても無意味と既に指摘しました)。逆に言えば、戦争の規定が無ければ、内乱にも対処できないということになりますし、内乱に対処できるなら、戦争にも対処できそうだということになります(外国との戦争は敵国の扱いを考えねばなりませんが)。この違いは敵が外国か国内かに過ぎません。クーデターだって例えば野党諸君が壇上に上がって乗っ取ったと叫んでもお笑い種。警察の皆さんに排除されるだけで、軍隊やそれに準じる組織が動かなければ成功するものではありません。

憲法と内乱・クーデターの防止を考えるなら、緊急事態条項と共にシビリアンコントロール(文民統制)を考えた方が良いはずで、今回の自民党の憲法改正案の目玉は9条改正だと筆者は思っています。シビリアンコントロールと言っても、戦略戦術を事細かに政治家が指示を出しても寧ろ戦争に負けるだけと筆者は思っています。大体が専門的なことはプロがやらねばなりません。ただ、上に立つ国民から選ばれた政治の側にしてみれば、軍が裏切ってはならないし、それを防ぐための措置はとるということになります。面倒だから軍が指揮した方が早いと思うかもしれませんが、政治が統括するのは軍事だけでは勿論ありません。政治家は全てのプロではありませんが、誰かが全ての責任者になる必要があります。まぁ文民統制条項の実効性云々の議論は聞いたことなく(寧ろ共産党政権の軍隊が党の軍隊で政治将校(ウィキペディア 2018/12/31)がいるということになります)、恐らく信頼関係のようなものでやっているのでしょう(ここで原子力災害を再び考えましたが、それこそ正に起こってはならない緊急事態ですから、一応そのままにしておきます。軍事は非常時に平時から備える組織であり、原子力発電所は発電が本業ですから、性質が大きく異なるんだろうと思います)。独裁政権は裏切りに徹底的に備えねばなりませんが、民主国家は合法的な政権交代が有り得るので、裏切りに備える必要が少ないと言えます。実際に戦後日本で非合法な政権交代が実現しそうになったことはなく、合法的な政権交代が民主党政権において実現しました。ですから、内乱やクーデターが起こる可能性が独裁国家に比して少ないと言え、具体的な措置があまりとられていないのだろうと思います。

ここで考えるべきは民主国家においてもクーデターが起こる国と起こらない国があるということです。個別の事情に深く立ち入らない方が良さそうですが、日本と比較されることが多いドイツの事例だけ考察しておくことにします。

まず日本ですが、有名な統帥権(ウィキペディア 2018/12/31)干犯問題があります。大日本帝国憲法下では陸軍や海軍への統帥の権能は天皇にあったのですが、実際のところは天皇陛下が政治の実際を指揮していたということは無いと考えられます(仮にそうであれば、戦争で負けた時に皇室は断絶していたでしょう)。日本の歴史において天皇陛下が親政していた時期は短期間に止まっています。憲法の文言上は天皇の権限が大きかったようですが、慣習法的に政治の実際は首相にあったと考えられます。曖昧だった規定をつき統帥権干犯問題が発生し、1930年に表面化した後、またたくまに満州事変(1931年~)が発生し、国際連盟において総スカンをこらい脱退し、ドイツが続いて、大きな構図が決まり、ほぼ運命が決定したようにも思えます。満州事変は関東軍の独走でしたが、時の政府は全く制御できませんでした。統帥権干犯問題に関連して時の総理(浜口雄幸総理)は狙撃され総辞職しており、満州事変を制御できなかったのも、その辺の問題と関係がありそうです。

つまり大日本帝国憲法の規定が曖昧であり欠陥があったことが日本の失敗に繋がったとも言えるのではないでしょうか?仮に主権が国民にあると規定され、文民統制が規定されていれば、統帥権干犯問題なる問題は起こる余地はほぼ無かったのかもしれません。

では何故曖昧だったかと言えば、実際のところ明治維新の時点で完全なる民主主義をやる訳にはいかなかったと考えられます。江戸時代は武士の世で、明治政府の樹立も地方武士の反乱が成功しただけの話で、四民平等は明治維新において規定され、普通選挙は段階的に実施されました。そもそも明治維新は外来の脅威に臨んで発生しており(攘夷がスローガンでした)、西洋に対抗して西洋を模すにしても、引き続き武士が主導権を握る必要があって、要するに元老(ウィキペディア 2018/12/31)(薩長土肥)支配だったと考えられます。元老は憲法の規定外の存在だったようですが、天皇を輔弼することで重要国事に関与したようです。最初はそれで良かったというか、良くなかったのかもしれませんが、それしかなかったんだろうと思います。元老は明治政府の樹立に功があったことでやはり権威があったようです。つまり時が経るに従い(少なくとも力ある)元老の数は減っていったようです。最後の元老が西園寺公望(ウィキペディア 2018/12/31)ですが、原敬が1921年に暗殺され、1922年に病気療養中の山縣有朋が没する流れの中で、元老一人体制になっていったようです。西園寺は戊辰戦争に参加した元勲ですが、名前から分かる通り公家出身でどうも力が足りなかったようなフシが感じられます。西園寺は1940年に90歳で没しますが、統帥権干犯問題も満州事変もどうすることも出来なかったようです。年で衰えた可能性もあるかもしれませんが、詳しくなくこれ以上は触れないものとします。

第一次世界大戦(1914年~1918年)は日本は勝ち組でした。この辺まで後世から粗を探せばキリがないとは思いますが、国際協調から外れず概ね大過なくやっていたように思います。結局、第一次大戦が終結した後、原や山縣といった力ある元勲が退場してしまいコントロールが上手くいかなくなったことが日本の失敗だったのかもしれません。元は元老支配するつもりで元老支配の体制をつくったに関わらず、状況の変化にあわせて体制を変えられなかったことが失敗だったとも言えます。原や山縣退場して大丈夫?みたいなことを考え準備することが出来なかったということでしょうか。原は暗殺ですが。

日本の普通選挙は1928年ですから、普通選挙が実施されて間もなく統帥権干犯問題が起こったと見ることも出来ます。普通選挙が実施されてみると、西園寺一人元老体制に違和感があったでしょうか。犬養毅総理が殺害された五・一五事件が1932年、クーデター未遂事件二・二六事件が1936年、第二次上海事変で日中戦争の泥沼に入ってしまったのが1937年、北部仏印進駐が1940年、マレー作戦・真珠湾攻撃が1941年になります。こうして見ると統帥権干犯問題→満州事変以降日本はまるで為す術なかったことが分かりますが(五・一五事件~二・二六事件は小康状態?)、そもそも満州事変然り第二次上海事変然りですが、その時もトップの意志が効いていた様子は窺えず、日本が迷走していたことは確実のように筆者には思えます。

普通選挙の実施にあわせて憲法改正していればどうだったかという問いは有り得るかもしれませんが、現状では筆者には何とも言えません。とにかく、元老支配前提の体制そのままで元老の力が弱くなり、その実態にあわせて体制を変えられなかったことが問題だったように思えます。まぁ何時の世も支配者が自分がいなくなった時の体制を磐石にしようなんてあまり思わないのかもしれませんが(磐石にしたからこそ寝首をかかれるかもしれません(笑)。道場で師匠は秘伝だけは教えないのような)。

さて以上を踏まえて日本国憲法に戻ると、日本国憲法において日本政府のリーダーは国民から選ばれた国会議員が選ぶ総理で、戦前のような問題が起こるとは考えにくいところがあります。文民統制を明記すれば、まぁ理論的には大丈夫のような気もします。この明記がなければ、国民が選ぶ政治家が軍人でという可能性も無いとは言えないですよね。理論上は。現状ではそのような気配はありませんが。軍人が(文民になって)政治家になってはいけないとは思いませんが(プロの意見は必要でしょう)、軍人支配は駄目ですよとハッキリさせておく必要はあるんだろうと思います。その辺を曖昧にしておくと(建前が守られないと)、歯止めがありませんから、軍人そのものでいいじゃない、クーデターでいいじゃない、内乱でいいじゃないということになっていくんだろうと思います。

ついでドイツを考えてみます。ナチスがヴァイマル憲法下で台頭したことは知られますが、どうも緊急事態条項を利用したこともあったようです(ですから自民党は緊急事態条項を防災関連に絞ったのでしょう)。第一次大戦まではドイツ帝国でした。明治維新で日本が参考にした国のひとつがこのドイツ帝国です。第一次大戦でドイツが負けてヴァイマル体制になった訳ですが、賠償が重かったこともあるのでしょう。結局、ナチスが台頭し第二次大戦で再戦という流れになります。ドイツ帝国で活躍したのが彼の有名なビスマルク。第一次世界大戦時のトップはヴィルヘルム2世だったようです。第一次世界大戦の原因はここで考察しませんが、ヴァイマル体制以前にドイツは帝国だったことは踏まえられていいんだろうと思います。日本と似ているとも言われるドイツですが、どうも苦しい状況で慣れない民主主義が上手くいかなかったと見ることが出来るのかもしれません。

ナチスと緊急事態条項を見ると、治安で軍が出ることがあまり良くないようにも思えます。軍だけが活躍すると、どうしても軍国みたいになるのかもしれません。戒厳(ウィキペディア 2018/12/31)を見ると、第二次世界大戦後の復興期のドイツと日本 、そして米国南北戦争後の南部復興の時代に戒厳令がしかれたようです。戦争後のホットな時期に反乱を警戒する必要は実際問題あるんでしょう。そう考えると、何らかの理由で騒乱が起きやすい状態の時は緊急事態条項のようなものが必要と言えるのかもしれません。そう考えると、現代の日本でそれを想定する必要があるだろうかということにもなります。どう考えても警察が治安を守れば事足りそうです。また、ナチスに関して指摘すれば、武装親衛隊のようなものを組織し、党の軍隊を持っていたことは指摘せねばなりません。ただ、帝国から民主主義国に変わった訳ですから、特有の事情があった可能性はありますが、少なくともここではこれ以上触れません。いずれにせよ、警察が治安を守れている状況で軍(自衛隊)の出動を想定する必要があるようには思えません。寧ろそれを準備することで、些細なことで軍が出ていってしまうことが考えられる訳です。

ここで現代における緊急事態条項を考えてみると、防災の他には結局戦争なのかなと筆者は思います。公共の福祉で何でも対応するよりは、緊急事態条項で対応した方がスマートで機能的なような気が筆者はします(どう考えても公共の福祉なる概念で対応するのは奇妙で、戦争というのは緊急事態そのもののように思えます)。戦争するための戦争準備ではなく、戦争に応じられる体制を整備することで戦争を抑止するという考え方です。治安は平時から通常の手続きに則って対応できそうですし、そうすべきのように思えます。まぁ現代は戦争のハードルが上がっている核時代ですし、絶対不可欠と強く主張する気はありませんが、普通にやったらどうかなという気がします。また、防災での自衛隊の出動は基本的に問題ないと思います。言っても火事の度に出動する訳ではありませんし、実際のところ騒乱→戒厳令のような事態はあまり想定する必要もなさそうです。つまり濫用につながりそうにありませんし、滅多に起こらない天災に最大限の準備をする(防災関連部隊で全て対応する)のは非効率であり(デメリットが大きく)、なおかつ非常時に非常時の組織である自衛隊に手伝ってもらう効果は非常に高そうです(メリットが大きい)。

最後に試案(のようなもの)を提示すると、緊急事態条項をとりあえず創設。何故かという理由は、ボン基本法のように実力組織が活躍する時に職業の事由や移動の自由を制限する根拠にするため。これは現状公共の福祉で対応しているのですが、主権者に分かりにくいので改正した方が良く、あわせて歯止めも設定するという説明になります。自衛隊の役割が明快になり国民の理解が深まることで、これまで曖昧だったところがあると思うのですが、攻撃されたら自衛隊が反撃するということに賛成意見が集まるような気もします。あわせて歯止めで攻撃しても退却して占領継続しないということになります。この辺は前回の記事で9条を考察したのをご確認ください。前回の記事における首都機能の喪失の想定等、憲法の抜け穴探しを今回進める気はありません。