歴史用語基準を修正(産経新聞2018年4月1日1面)を読みました。一点だけ、いわゆる「南京大虐殺」について、自分の考えを書いておきます。
南京事件 (1937年)(ウィキペディア)
筆者は全否定論者ではありませんが、中国の主張をそのまま認める立場に立ってはいません。それは何故かと言うと、アサヒグラフと『日寇暴行実録』の写真の問題(写真週刊誌『アサヒグラフ』1937年(昭和12年)11月10日号に、江蘇省宝山県盛家橋の中国人農民の写真に「我が兵(日本軍)に援けられて野良仕事よりへかへる日の丸の女子供の群れ」とキャプションがつけられ掲載されたが、この写真は翌1938年に中国国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』に「日本兵に拉致される中国人女性と説明され無断転載され、後年に至るまで引用され、日本左派は誤用を認めている)や朝日新聞の「南京大虐殺の証拠写真」の問題(朝日新聞1984年8月4日大阪版夕刊(翌朝全国掲載)が「南京大虐殺の証拠写真」として生首写真を掲載したが、この生首写真は、中国軍が馬賊の首を切り落とした写真であることが判明している)(参考:南京事件論争(ウィキペディア))があって、中国サイドが戦争プロパガンダで偽情報を拡散したことが事実だと考えられるからです。戦争プロパガンダをそのまま歴史的事実と認定していては史料批判(ウィキペディア)に基づく近代歴史学は成り立ちません。
記憶遺産に関して言えば、グリム童話などが登録されていますし、必ずしも事実に基づいている必要はなく、こう記憶されているというのが事実であれば問題ないとは考えますが、南京事件に関しては、裁判や歴史学が絡み事実であるかどうかが主要な争点ですので(いわゆる歴史修正主義は事実を否定するから批判される訳です)、記憶遺産に登録することは間違っているのではないかと考えます。童話を事実と思う人はいないでしょうが、南京事件が世界の記憶に登録されれば、それがそのまま事実と考える人が続出し、史料批判に基づく訂正要求の方が歴史を修正していると誤って認識されることになると考えます。中国の歴史は未だ前近代のレベルにあるかどうか知りませんけれども、近代歴史学が一々それにつきあう必要はないのであって、批判すべきは批判すべきですし、別に中国やユネスコがお話・ストーリーとして「南京大虐殺」を記憶したいというなら止むを得ませんが、中国は日本に度々歴史を認めよと日本に譲歩を迫っているのであって、いやいや話は逆で中国の方が近代歴史学に歩み寄ってくださいということです。
筆者の知るところでは、米軍に対して日本がこうした残虐行為を行ったという事実を聞いたことが無く(捕虜の扱いは問題にされます)、中国に対しては日本が残虐行為を行ったと考えるよりは(絶対無いとも言いませんが)、中国が自分達がやっていることは相手もやっているはずという思い込みでお話を流布している可能性の方が高いのではないかと考えます。例えば、中国軍の残虐性を指摘すると、南京事件以前1937年の通州事件(ウィキペディア)が挙げられます。
この中国軍の残虐性が何処から来るのか良くは分かりませんけれども、通州事件が宣伝のためにあえて計画的に行われたと仮定しますと(日本が逆上し先制攻撃することを狙っているのだとすると)(中国が日本を「追い出す」ためには大義名分が必要で、中国から突然攻め込むことが難しかったとも考えられます)、ソ連(1922年~1991年)の諜報機関が関係している可能性もあると思います。コミンテルン(ウィキペディア)は世界革命の実現を目指す組織とされ、当時の中国でも活動していたとされます。
ここからは少なくとも現状確証ある事実として流布はされていない参考意見ですが、ロシア帝国に関する10のダークな秘密(カラパイア)によると、コサック兵の残虐性は有名で、ソ連の行った計画的飢餓「ホロドモール」が残酷すぎる(NAVERまとめ)とも言われますが、これはモンゴル帝国の殺戮と破壊(okaimorio)に繋がるように思えます(モンゴル帝国はヨーロッパにまで攻め入り、今のロシア西部地域にキプチャク汗国を建国しています。黄色人種をモンゴロイドと名づけられたのはこの時の記憶に由来するとされます)。元寇は日本においても対馬・壱岐で虐殺を働き、ムクリコクリ(蒙古高句麗)として記憶に残っています(モンゴル・朝鮮軍が日本で行った“殺戮” 『産経新聞』IRONNA)。
モンゴルが悪いという見方は筆者の着想ではありませんので念のため(この記事の文責は筆者にあります)。
個人的にはその後のモンゴルや中国にはチベット仏教が影響した可能性もあると思っています(チベット仏教の歴史と特色(チベット仏教ゲルク派 宗学研究室)(>アルタン・ハーンの帰依を契機に、チベット仏教は、モンゴル人社会で急速な広がりをみせ始める。>清朝の歴代皇帝は、チベット仏教に帰依してダライ・ラマとパンチェン・ラマを厚く敬ったので、チベット仏教は北京にまで広められ、さながら「アジア大陸随一の国際宗教」という観さえ呈するようになる)。
南京事件 (1937年)(ウィキペディア)
筆者は全否定論者ではありませんが、中国の主張をそのまま認める立場に立ってはいません。それは何故かと言うと、アサヒグラフと『日寇暴行実録』の写真の問題(写真週刊誌『アサヒグラフ』1937年(昭和12年)11月10日号に、江蘇省宝山県盛家橋の中国人農民の写真に「我が兵(日本軍)に援けられて野良仕事よりへかへる日の丸の女子供の群れ」とキャプションがつけられ掲載されたが、この写真は翌1938年に中国国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』に「日本兵に拉致される中国人女性と説明され無断転載され、後年に至るまで引用され、日本左派は誤用を認めている)や朝日新聞の「南京大虐殺の証拠写真」の問題(朝日新聞1984年8月4日大阪版夕刊(翌朝全国掲載)が「南京大虐殺の証拠写真」として生首写真を掲載したが、この生首写真は、中国軍が馬賊の首を切り落とした写真であることが判明している)(参考:南京事件論争(ウィキペディア))があって、中国サイドが戦争プロパガンダで偽情報を拡散したことが事実だと考えられるからです。戦争プロパガンダをそのまま歴史的事実と認定していては史料批判(ウィキペディア)に基づく近代歴史学は成り立ちません。
記憶遺産に関して言えば、グリム童話などが登録されていますし、必ずしも事実に基づいている必要はなく、こう記憶されているというのが事実であれば問題ないとは考えますが、南京事件に関しては、裁判や歴史学が絡み事実であるかどうかが主要な争点ですので(いわゆる歴史修正主義は事実を否定するから批判される訳です)、記憶遺産に登録することは間違っているのではないかと考えます。童話を事実と思う人はいないでしょうが、南京事件が世界の記憶に登録されれば、それがそのまま事実と考える人が続出し、史料批判に基づく訂正要求の方が歴史を修正していると誤って認識されることになると考えます。中国の歴史は未だ前近代のレベルにあるかどうか知りませんけれども、近代歴史学が一々それにつきあう必要はないのであって、批判すべきは批判すべきですし、別に中国やユネスコがお話・ストーリーとして「南京大虐殺」を記憶したいというなら止むを得ませんが、中国は日本に度々歴史を認めよと日本に譲歩を迫っているのであって、いやいや話は逆で中国の方が近代歴史学に歩み寄ってくださいということです。
筆者の知るところでは、米軍に対して日本がこうした残虐行為を行ったという事実を聞いたことが無く(捕虜の扱いは問題にされます)、中国に対しては日本が残虐行為を行ったと考えるよりは(絶対無いとも言いませんが)、中国が自分達がやっていることは相手もやっているはずという思い込みでお話を流布している可能性の方が高いのではないかと考えます。例えば、中国軍の残虐性を指摘すると、南京事件以前1937年の通州事件(ウィキペディア)が挙げられます。
この中国軍の残虐性が何処から来るのか良くは分かりませんけれども、通州事件が宣伝のためにあえて計画的に行われたと仮定しますと(日本が逆上し先制攻撃することを狙っているのだとすると)(中国が日本を「追い出す」ためには大義名分が必要で、中国から突然攻め込むことが難しかったとも考えられます)、ソ連(1922年~1991年)の諜報機関が関係している可能性もあると思います。コミンテルン(ウィキペディア)は世界革命の実現を目指す組織とされ、当時の中国でも活動していたとされます。
ここからは少なくとも現状確証ある事実として流布はされていない参考意見ですが、ロシア帝国に関する10のダークな秘密(カラパイア)によると、コサック兵の残虐性は有名で、ソ連の行った計画的飢餓「ホロドモール」が残酷すぎる(NAVERまとめ)とも言われますが、これはモンゴル帝国の殺戮と破壊(okaimorio)に繋がるように思えます(モンゴル帝国はヨーロッパにまで攻め入り、今のロシア西部地域にキプチャク汗国を建国しています。黄色人種をモンゴロイドと名づけられたのはこの時の記憶に由来するとされます)。元寇は日本においても対馬・壱岐で虐殺を働き、ムクリコクリ(蒙古高句麗)として記憶に残っています(モンゴル・朝鮮軍が日本で行った“殺戮” 『産経新聞』IRONNA)。
モンゴルが悪いという見方は筆者の着想ではありませんので念のため(この記事の文責は筆者にあります)。
個人的にはその後のモンゴルや中国にはチベット仏教が影響した可能性もあると思っています(チベット仏教の歴史と特色(チベット仏教ゲルク派 宗学研究室)(>アルタン・ハーンの帰依を契機に、チベット仏教は、モンゴル人社会で急速な広がりをみせ始める。>清朝の歴代皇帝は、チベット仏教に帰依してダライ・ラマとパンチェン・ラマを厚く敬ったので、チベット仏教は北京にまで広められ、さながら「アジア大陸随一の国際宗教」という観さえ呈するようになる)。