観測にまつわる問題

政治ブログです。「保険」「相続」「国民年金」「AIロボット」「運輸エンタメ長時間労働」「GX」を考察予定。

コロナ後の新常態雑考

2020-06-02 16:35:59 | 厚生労働
 コロナ後の新常態ですが、政府が決める基準と人々の感情に基づくものの二つがあると思います。この内、人々の感情に基づくものは日本においてそう大きな影響を及ぼさないと筆者は見ます。何故なら社会的距離は医学的にとった方がいいに関わらず、そうとられてはいないからです。パーソナルスペースの感覚は個人個人にあると思いますが、感染症を防ぐための社会的距離は広過ぎるきらいがあって、よほど神経過敏な方以外はパーソナルスペースを社会的な距離とシンクロさせてくるようには見えません(愛媛基準です)。そう考えると、まず考えるべきは政府が定める基準になります。これが社会的な距離をとれと強力に定め続けるなら、国民に大きな影響を与える可能性が否定できないという訳です。
 政府の基準ですが、医学的な基準と経済的な基準があるでしょう。医学的な基準で言えば、筆者はワクチン開発の目途がついたと言える今の状況(多分)で効果的に時間稼ぎできればいいと筆者は見ます。特に日本は第一波でそうは広がらないと見切れました。インフルで死者多数だからといって社会をつくり変えようという人はいません。これは完全に費用対効果の問題です。皆保険で誤解があるのかもしれませんが、医療とてタダでは決してありません。AIが人類を滅亡させるという冗談ともつかない話がありますが、病気を無くすために人間を無くすという訳にはいきません。究極お金が無くなれば、医療だって受けられなくなります。まじないで良ければ、何時だって受けられるかもしれませんがね。ワクチンだって治療薬だって人工呼吸器だってお金がかかっているでしょう?マスクだって無から生まれている訳ではありません。では経済的基準とはここでは命を救うため、病気を拡大させないための費用対効果のことを言っているのではなく、対策そのものの経済的効果のことを狭義に言います。つまり人を密集させないと通常はロスでしょうが、価格上昇に繋がれば相殺できるのようなことです。そう考えると政府の定めることはやはり厚労省(金勘定を含めた広義の医療・衛生)の範疇にほぼ収まりそうです。経済とは結局、民間が自律的にやるものでしょう。飲食店を例にとりますと、政府が間隔をとるように要請(ないし指示)すると、基本的には価格の上昇では結局相殺できないと分かります。何故ならライバルはスーパーだったりコンビニだったり弁当屋だったりするからです。マクドナルドは4月に客数を下げ客単価が上がって売り上げが増えましたが、これはハンバーガーの価格を上げたからそうなった訳では無く、ドライブスルーやデリバリーが増えたから売り上げが上がった訳です。つまりお客様が店内飲食を好めば競争上マクドナルドも店内提供せざるを得ませんが、店内飲食の提供とは回転率との戦いでスペースを無駄に開ける余裕などないという生態系だと思われます。飲食業とは回転率が重要とよくいいますね。マクドナルドだからドライブスルーやデリバリーは可能かもしれませんが、それが出来る飲食店ばかりとは限らないのは当然のことです。つまり一般的な飲食店からすれば、何時までも社会的距離をとることを要請されると、それは大量死に繋がっていきます。それをどうにかするため政府が補助金を出し続ける訳にはいかないでしょう?経済ですから、それで利益を得る勝ち組は出てきますが、それを目指すと別の場所(例えばスーパー)で密集を生むという悪い冗談みたいな話になります。無論飲食店が死病の発生源というなら閉店止む無しでしょうが、それは極論というもので、何かあったならともかく、それを常態にする訳にはいきません。とは言え、じゃあ野放しかと言えばそうは言ってない訳で、費用対効果次第で感染症対策の要請や義務付けは有り得てもいい訳です。例えば換気ですが、飛行機なんかは空気が入れ替わるようになっていて感染症が機内で広がらないようになっていますね。建築基準法だってコストをかけて防災をやっていますが、全ては費用対効果の問題に繋がってくると分かると思います。この辺は専門的な話なので、普段から専門家の集団がもっと積極的に政策に関与できる仕組みがあるといいと思われます。ただ付け加えておかなければならないのは箸の上げ下げまで政府が指示できるかということです。日本なら鉄道駅の構内放送よろしくひたすら要請し続けるのかもしれませんが、鉄道駅で危険なことは寧ろ鉄道会社に大迷惑なのであって、店舗にとって大勢の客をマイナスと純医学的なパラダイム転換する訳にはいきません。例えば高級リゾートや高級住宅がゆったりを売りにしてコロナを成長の糧にできれば、デフレ脱却の観点から願ったりですが、何処まで日常で距離をとるようにもっていけるかは疑問でしょう。これを下級国民は死ねのように勝手に変換してはなりません。少なくとも日本は皆保険の国ですし、経済的に成長したからこその医療で平均寿命は延びていると歴史を振り返れば誰でも分かるでしょう?資本主義の権化のように言われるアメリカだって、まさかコロナのワクチンに馬鹿みたいな値段をつけることは有り得ないのではないでしょうか?
 企業の社会的責任という視点で言えば、詳しくありませんが、社会のために何らかの基準を守るのような考え方であるようです。日本の場合だと政府が何らかの基準を示すと読み替えていいでしょう(社会主義者ではありませんし、それ以上の考えも特にありません)。あるいは企業イメージに関わると読み替える見方もあるかもしれませんが、それは先に示したような感染症対策をブランドイメージにできるかということに繋がっていると思われます。
 以上、社会的距離を中心に考えましたが、要は平時にマスクを常に皆がするのようなことはイメージしていません。それは感染症防護に役に立つかもしれませんが、やっぱりマスクって風邪や花粉症など目的があってするものだと思う訳です(欧米に風邪や花粉症でマスクをする習慣があっていいと思いますが、日本でも風邪予防でマスクをする習慣がある人は極極少数だと指摘しておきます。詳しくありませんが、マスクは何処にでも売ってて、欧米よりはやはりメジャーなのでしょう)。コロナやインフルで発症前の無症状感染に感染力があるとして(未だにそのメカニズムを心底信じる気になれませんが)、インフルの例で言えば治まるものに対して(コロナも遅かれ早かれそうなるでしょう)予防でとまではいかないんじゃないかと筆者は思う訳です。あくまで思うだけですが、勿論強制するなという含意もあります。これは人間観の問題でもありますが、人間そのものを汚物のように距離をとるべきでしょうか?汚いと切り取ることは幾らでも可能としてもです。パーソナルスペースは自然に備わっています。菌やウイルスは見えないだけでたくさんい過ぎるのであって、観念的な潔癖主義者なるものが存在するとすれば、上手く社会で生きていけるはずもないでしょう。
 なお社会的距離をとることがコロナ対策として有効でないとは言ってませんので(必要になる場面はあるでしょう)、悪しからず。何でも言ってないことを勝手に決めつけるのは良くないことです。マイクロ飛沫の問題もありますし、普通のマスクで防げないとすれば、距離は必要と思われます(普通は医療用マスクもなく、防護服のような完全武装ではありません)。また新型コロナウイルスはウイルスそのものが飛ぶ空気感染でないことは医学的に大きな意味があると思います。まぁだからと言ってコロナ後の新常態で社会的距離は無いだろうと蛮勇振るってないとも言えませんが。専門家が綺麗に説明してくれるといいのですが、専門家とてそう簡単に分からない世界だから専門家が成立している訳で。誰も分からないで何も言わないで守りに入ってはどうにもならないのは明らかなのであって、たたき台として役に立てばと、こういう文章を書いてみた次第です。とは言え言葉狩りや自粛警察の類はお帰りくださいね。