僕の感性

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明大校歌誕生エピソード

2019-01-18 19:05:57 | ことば
明大校歌の児玉花外の原詩

一 健児の風に打なびけ 実力養成の旗じるし
  校の桜と散り行く学徒
  明治 明治! 学の誇は我等が明治!

二 権利自由の揺籃は 茲にはじまり今も尚
  強き力に動かす社会
  明治 明治! 学の誇は我等が明治!

三 白雲湧ける駿河台 立ちて時代の暁の鐘
  正義平和を撞き出す世界
  明治 明治! 学の誇は我等が明治!
四 青春神田の真中に 中原の鹿夢ならず
  はぐくむ文化の雛をも見よや
  明治 明治! 学の誇は我等が明治!

五 文明の湖開拓の 明治維新の栄担ふ
  更に未来の国家の事業
  明治 明治! 学の誇は我等が明治!

六 赤壁の名か若き血か 流るゝ雄弁勝鬨の
  お茶の水に新月高し
  明治 明治! 学の誇は我等が明治!


秋に行われる隅田川の大学対抗ボートレースに応援歌を望む声が上がった。早稲田のようにみんなで歌える校歌がほしい。そこで立ち上がったのが当時商学部一年の武田孟(のち明大総長)、牛尾哲造(のち日刊スポーツ新聞社専務)、越智七五三吉の三人。

彼らは、木下友三郎学長に訴え、大学側の承諾を得て校歌作成に取りかかる。作詞は誰にするか。笹川臨風教授の紹介で与謝野鉄幹と児玉花外が候補にあがった。鉄幹は不在、その足で花外を訪問して快諾を得る。

児玉花外は『社会主義詩集』で出版禁止を食らった熱血詩人。駿河台近辺を散策し構想を練って作詩にこぎつけた。
 
作曲はドイツ帰りの新進作曲家・山田耕筰に白羽の矢をたてた。山田は何度も断ったが、牛尾哲造の再三再四の訪問を受け
その情熱に負け承諾したのである。

山田は花外の詩を見て、作曲しにくいから野口雨情か西條八十に見てもらうようにと武田に伝える。

学生たちは再び児玉花外宅を訪問、山田の意志を伝えると、花外は承諾。そうして、当時はまだ白面の詩人だった西條八十に依頼する。

八十は花外の詩の心をくみ取り、現在歌われている決定稿が完成したのである。

いまどの歌集を見ても作詞者に西條八十の名はない。八十は、明大の学生たちの心意気やそれまでのいきさつを配慮したのか、自分の名前を出すことにこだわらなかった。

しかし山田耕筰はその詩にも満足せず、最終的に三木露風の加筆を得て完成したのである。

児玉花外が入院した際、身寄りの少ない花外の為募金を募り、その募金を持って
明大応援団が病院を訪れ、マンドリン倶楽部の演奏で校歌を歌った。その名曲に思わず児玉は涙したという。

明治の校歌には、校歌誕生の最大の功労者、牛尾哲造氏の努力に敬意を払い、文化の潮(うしお)みちびきてと書かれている。

そして児玉花外の原稿が校歌そのものにならなかったにせよ、その言葉の一つ一つの魂が現在の校歌に受け継がれている。



明治大学校歌   作詞 児玉花外 作曲 山田耕筰

白雲なびく駿河台 眉秀でたる若人が 撞くや時代の暁の鐘
文化の潮みちびきて 遂げし維新の栄になふ 明治その名ぞ吾等が母校
明治その名ぞ吾等が母校

権利自由の揺籃の 歴史は古く今もなほ 強き光に輝けり
独立自治の旗翳し 高き理想の道を行く 我等が健児の意気をば知るや
我等が健児の意気をば知るや

霊峰不二を仰ぎつつ 刻苦研鑚他念なき 我等に燃ゆる希望あり
いでや東亜の一角に 時代の夢を破るべく 正義の鐘を打ちて鳴らさむ
正義の鐘を打ちて鳴らさむ