《きょうだいへの贈り物》
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「なぜ、いっしょの学校にいけんと?」
そう聞いたのは、栞音さんの姉。
入学したころ、やさしかった上級生の記憶がある子にとって、自分が上級生になったら一年生の面倒をみるのは当たり前のこと。
きょうだいに「障害」があると別?
そんな考えは、子どもの中からは生まれない。
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「一年生になったら、ぼくもスクールバスに乗って行けるね」
うれしそうに言ったのは、康治の弟。
年下のきょうだいは、障害があってもなくても、兄姉と同じように小学生になることを、追いかけて成長する。
きょうだいが「分けられる」なんて夢にも思わない。
だから自分も「養護学校に行く」が、ふつうのことになる。
「地域の小学校」より、きょうだいと一緒が先行する。それも共に育つきょうだいの自然。
だけど分ける教育はそれを認めることができない。
「あなたは、障害がないから、違うのよ」
「ちがわないよ。だって、ぼくはおとうとだよ。」
そこで、「分けられる」のは、障害児じゃない。
きょうだいも、ふつう学級の子どもも、すべての子どもが分けられる。
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きょうだいの安全なつながりには上も下もない。
「毎朝、面倒見るのは大変じゃない? 友だちとも話せないし」と聞かれた兄がいう。
「別に、友だちとは学校で話すし。お母さんは弟がいると大変なの?」
同じ家の妹は、「ダウン症の書家」という新聞の見出しに、「『ダウン症の』が余分だね」とつぶやく。
この兄と妹のあいだのゆうきくんがどれほどしあわせか。
いっしょが当たり前のきょうだいは、「なぜ、ふつう学級?」という言葉を持たない。
「いっしょ」にいられないときだけ、「なぜ?」と尋ねる。
「なぜ、分けるの? 同じきょうだいなのに」
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きょうだいの「つながりの安全」は、分けないことから始まる。
きょうだい児の「ケア」という言葉があるけれど。
共に回復する道は、基本のつながりを「分けない」ことだと思う。
「なぜ、ふつう学級?」という問いがなくなる日、「どうして、むかしはきょうだいが分けられていたの?」という問いがうまれるだろう。