公文書の重要性 福田康夫元首相が「高市発言」を痛烈批判!
公文書というものが重要で、そもそも法制上はどうかは別として、国民主権を前提にしている以上、公文書は国民共有資産と云ってもよいだろう。
ここでは、文藝春秋が記している内容を読み深く同意する。
福田元首相が述べる公文書は「国家の証し」と云うが、国家の記録であり歴史を証明するものだと感じる。戦後、日本の公文書は厳格な保存規定がなく、ある場合は恣意的に破棄されて来た例がありそうに思える。そして、別ブログで記したいが、裁判記録は一般的な行政公文書の扱いではないが、扱いはともかくやたら破棄して良い訳ないのは、先の公文書と同じく国民共有の資産だろう。
福田元首相は、理知的な素性を感じる如く、公文書が捏造されたと主張する高市氏の発言を軽々に云うなの如く批判している。公文書を捏造するのは明確な犯罪であるが、そのことを意識しない行政員などおよそいないだろう。
公文書は正しく管理保存され、なるべく公開の原則の前提で、国民の知る権利に従い閲覧できなければならないだろう。ただし、このことは、情報公開法に定めがあるが、プライバシーと諸外国との関係などもあり、直ちに公開できないということも理解できるところだ。しかし、戦後、日本の公文書が米国で保管され、閲覧可能だったことを知るとき、日本はデモクラシー国家として、まだまだ遅れているという感を持つ。
2028年には新しい国立公文書館が完成する予定と云うが、情報公開法を整備して、歴史を変転を示す公文書など、年限を限って公開していく姿勢が求められる様に思える。
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福田康夫元首相が「高市発言」を痛烈批判!
「文藝春秋」編集部 2023/7/9
source : 文藝春秋 2023年8月号
今、公文書を軽視する風潮がひろがっている。
「まったくの捏造」――今年3月、高市早苗経済安全保障担当大臣が国会の質疑で、総務省の公文書をこのように批判して波紋を呼んだ。
この公文書は、高市氏が総務大臣だった安倍晋三首相の時代に総務省が作成したものだが、官邸が特定の民放番組を問題視し、総務省と解釈を巡る協議を重ねた経緯を詳しく記録していた。文書自体は単なる「記録」であり、あとから捏造された可能性は考えにくい。
にもかかわらず、高市氏は「これが捏造でないなら議員辞職する」とまで強弁し、国会は大荒れとなった。
公文書が軽視されたのは、これが初めてではない。
昨年10月には、日本中を震撼させた「神戸連続児童殺傷事件」(1997年)の記録を神戸家庭裁判所が廃棄していたことが発覚。この他にも重要な事件の裁判記録が多数廃棄されており、最高裁が異例の謝罪に追い込まれた。
また、安倍晋三政権下では「森友学園問題」や「加計問題」、さらには「桜を見る会」をめぐっても、公文書の改ざんや破棄がおこなわれていたことが発覚している。
こうした事態を受けて、福田康夫元首相が「文藝春秋」に登場し、退任後初めてまとめて公文書軽視の風潮を批判した。福田氏は「公文書は『国家の証し』そのものである」としたうえで、近年の政治家の「権力の用い方」に大きな問題があると指摘し、警鐘を鳴らしている。
公文書は「国家の証し」そのもの
福田政権(2007年~2008年)の頃、福田氏は公文書管理の強化に力を注ぎ、法整備に尽力してきた。そんな福田氏は今回の高市発言を以下のように厳しく批判した。
〈まず最初に強調しておきたいのは、公文書は「国家の証し」そのものである、ということです。わが日本国がどのように成り立ち、国家の仕組みや制度がどんなふうに出来上がってきたのかを証明する大切な証拠なのです。私は若い頃、アメリカの公文書館が膨大な文書を保管し、きちんと公開していることを目の当たりにし、大きな衝撃を受けました。民主主義国家の底力を見た思いがしました。そこで、私が官房長官と総理大臣の頃、公文書管理法の制定に道筋をつけたのです。
ところが近年、公文書を政治家が「捏造」と決めつけるとか、官僚が改ざんをするといった、とんでもない事件が立て続けに起きた。(中略)これは「権力の行使」に大きな問題があると考えられます。さらには「政治主導」に起因する問題もあります。〉
「権力の使い方」が問題だ
それにしても、なぜ公文書は大切なのか? 福田氏は「公文書は日本国の証し」だとして、熱を込めてこう語る。
〈そもそも公文書を改ざんしようという発想自体が言語道断です。なぜ公文書を残すことに懸命になっているかといえば、これが日本国の証しだから。「これこれこうした議論を経て、こんな法体系を積み上げて、今のこの社会ができているんですよ」というプロセスを示すものであり、国際社会に向けて「日本はこうやってきた」と説明するための証拠品なんです。その証拠を改ざんしたり捨てるなんて、とんでもない。〉
そして、安倍政権下で頻発した公文書改ざんの背景には、権力者の自覚の欠落があると指摘する。
〈私は、要は「権力の使い方」の問題だと思うんです。各省庁の幹部や大臣は権力者ですし、その大臣を束ねる総理大臣の権力は非常に大きいものになる。
問題は、その権力者が「自分は大きな権力を持っている」と自覚しているかどうかです。権力というものは、使い方を間違えると、国家という城の石垣である公文書を壊したり置き換えたり、とんでもないインチキが始まってしまう。
例えば2021年、国土交通省の建設工事受注動態統計の数字を担当官が業者に無断で勝手に数字を書き換えていた不正が発覚しました。厚生労働省の毎月勤労統計などでも不正がありました。よその国に「統計がいい加減だ」とケチをつける人がいますが、日本はそんなこと言えますか。実に恥ずかしいことです。〉
「官邸主導」の罪
さらに福田氏は、小泉純一郎政権から進んだ「官邸主導人事」が官僚の行動を歪めたともいう。
〈内閣人事局ができたことにより、官邸が官僚の人事権を握り、官僚が萎縮して何も言えなくなったとの批判があります。この構想は福田内閣の頃から議論が始まり、私も責任がないとは言えません。ただ、こんなに評判の悪い仕組みができあがるとは、当時は夢にも思っていなかったし、甘く考えていた。そこは忸怩たるものがあります。(中略)
こうなった以上、政治家はもう、権力をフルに使うことは止めなければいけない。権力行使は、正しい政治のために必要最低限度にとどめるべきなのです。かつては役人の交代が早過ぎると思っていたが、せいぜい2年で交代すべき。長く要職に就く者がいると、そこに新しい権力構造ができてしまう。政策自体も歪んでくる。〉
2028年には新しい国立公文書館が完成する予定だ。そこに福田氏はこんな期待を込めている。
〈だからこうした不祥事を機に、国民の間に「もっと記録を重視しよう」という機運が高まれば、政治家が記録を残す動機につながります。公文書改革はまだ完成していない。オン・ザ・ウェイなんです。〉
――福田康夫元首相のほか、初代公文書管理担当大臣の上川陽子氏、公文書に関する政府有識者会議のメンバーを歴任した老川祥一氏、国立公文書館館長の鎌田薫氏、元国立公文書館館長の加藤丈夫氏が参加した「公文書を守れ!」は、7月10日発売の「文藝春秋」8月号に全15ページにわたって掲載されている(「文藝春秋 電子版」では7月9日に公開)。
公文書というものが重要で、そもそも法制上はどうかは別として、国民主権を前提にしている以上、公文書は国民共有資産と云ってもよいだろう。
ここでは、文藝春秋が記している内容を読み深く同意する。
福田元首相が述べる公文書は「国家の証し」と云うが、国家の記録であり歴史を証明するものだと感じる。戦後、日本の公文書は厳格な保存規定がなく、ある場合は恣意的に破棄されて来た例がありそうに思える。そして、別ブログで記したいが、裁判記録は一般的な行政公文書の扱いではないが、扱いはともかくやたら破棄して良い訳ないのは、先の公文書と同じく国民共有の資産だろう。
福田元首相は、理知的な素性を感じる如く、公文書が捏造されたと主張する高市氏の発言を軽々に云うなの如く批判している。公文書を捏造するのは明確な犯罪であるが、そのことを意識しない行政員などおよそいないだろう。
公文書は正しく管理保存され、なるべく公開の原則の前提で、国民の知る権利に従い閲覧できなければならないだろう。ただし、このことは、情報公開法に定めがあるが、プライバシーと諸外国との関係などもあり、直ちに公開できないということも理解できるところだ。しかし、戦後、日本の公文書が米国で保管され、閲覧可能だったことを知るとき、日本はデモクラシー国家として、まだまだ遅れているという感を持つ。
2028年には新しい国立公文書館が完成する予定と云うが、情報公開法を整備して、歴史を変転を示す公文書など、年限を限って公開していく姿勢が求められる様に思える。
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福田康夫元首相が「高市発言」を痛烈批判!
「文藝春秋」編集部 2023/7/9
source : 文藝春秋 2023年8月号
今、公文書を軽視する風潮がひろがっている。
「まったくの捏造」――今年3月、高市早苗経済安全保障担当大臣が国会の質疑で、総務省の公文書をこのように批判して波紋を呼んだ。
この公文書は、高市氏が総務大臣だった安倍晋三首相の時代に総務省が作成したものだが、官邸が特定の民放番組を問題視し、総務省と解釈を巡る協議を重ねた経緯を詳しく記録していた。文書自体は単なる「記録」であり、あとから捏造された可能性は考えにくい。
にもかかわらず、高市氏は「これが捏造でないなら議員辞職する」とまで強弁し、国会は大荒れとなった。
公文書が軽視されたのは、これが初めてではない。
昨年10月には、日本中を震撼させた「神戸連続児童殺傷事件」(1997年)の記録を神戸家庭裁判所が廃棄していたことが発覚。この他にも重要な事件の裁判記録が多数廃棄されており、最高裁が異例の謝罪に追い込まれた。
また、安倍晋三政権下では「森友学園問題」や「加計問題」、さらには「桜を見る会」をめぐっても、公文書の改ざんや破棄がおこなわれていたことが発覚している。
こうした事態を受けて、福田康夫元首相が「文藝春秋」に登場し、退任後初めてまとめて公文書軽視の風潮を批判した。福田氏は「公文書は『国家の証し』そのものである」としたうえで、近年の政治家の「権力の用い方」に大きな問題があると指摘し、警鐘を鳴らしている。
公文書は「国家の証し」そのもの
福田政権(2007年~2008年)の頃、福田氏は公文書管理の強化に力を注ぎ、法整備に尽力してきた。そんな福田氏は今回の高市発言を以下のように厳しく批判した。
〈まず最初に強調しておきたいのは、公文書は「国家の証し」そのものである、ということです。わが日本国がどのように成り立ち、国家の仕組みや制度がどんなふうに出来上がってきたのかを証明する大切な証拠なのです。私は若い頃、アメリカの公文書館が膨大な文書を保管し、きちんと公開していることを目の当たりにし、大きな衝撃を受けました。民主主義国家の底力を見た思いがしました。そこで、私が官房長官と総理大臣の頃、公文書管理法の制定に道筋をつけたのです。
ところが近年、公文書を政治家が「捏造」と決めつけるとか、官僚が改ざんをするといった、とんでもない事件が立て続けに起きた。(中略)これは「権力の行使」に大きな問題があると考えられます。さらには「政治主導」に起因する問題もあります。〉
「権力の使い方」が問題だ
それにしても、なぜ公文書は大切なのか? 福田氏は「公文書は日本国の証し」だとして、熱を込めてこう語る。
〈そもそも公文書を改ざんしようという発想自体が言語道断です。なぜ公文書を残すことに懸命になっているかといえば、これが日本国の証しだから。「これこれこうした議論を経て、こんな法体系を積み上げて、今のこの社会ができているんですよ」というプロセスを示すものであり、国際社会に向けて「日本はこうやってきた」と説明するための証拠品なんです。その証拠を改ざんしたり捨てるなんて、とんでもない。〉
そして、安倍政権下で頻発した公文書改ざんの背景には、権力者の自覚の欠落があると指摘する。
〈私は、要は「権力の使い方」の問題だと思うんです。各省庁の幹部や大臣は権力者ですし、その大臣を束ねる総理大臣の権力は非常に大きいものになる。
問題は、その権力者が「自分は大きな権力を持っている」と自覚しているかどうかです。権力というものは、使い方を間違えると、国家という城の石垣である公文書を壊したり置き換えたり、とんでもないインチキが始まってしまう。
例えば2021年、国土交通省の建設工事受注動態統計の数字を担当官が業者に無断で勝手に数字を書き換えていた不正が発覚しました。厚生労働省の毎月勤労統計などでも不正がありました。よその国に「統計がいい加減だ」とケチをつける人がいますが、日本はそんなこと言えますか。実に恥ずかしいことです。〉
「官邸主導」の罪
さらに福田氏は、小泉純一郎政権から進んだ「官邸主導人事」が官僚の行動を歪めたともいう。
〈内閣人事局ができたことにより、官邸が官僚の人事権を握り、官僚が萎縮して何も言えなくなったとの批判があります。この構想は福田内閣の頃から議論が始まり、私も責任がないとは言えません。ただ、こんなに評判の悪い仕組みができあがるとは、当時は夢にも思っていなかったし、甘く考えていた。そこは忸怩たるものがあります。(中略)
こうなった以上、政治家はもう、権力をフルに使うことは止めなければいけない。権力行使は、正しい政治のために必要最低限度にとどめるべきなのです。かつては役人の交代が早過ぎると思っていたが、せいぜい2年で交代すべき。長く要職に就く者がいると、そこに新しい権力構造ができてしまう。政策自体も歪んでくる。〉
2028年には新しい国立公文書館が完成する予定だ。そこに福田氏はこんな期待を込めている。
〈だからこうした不祥事を機に、国民の間に「もっと記録を重視しよう」という機運が高まれば、政治家が記録を残す動機につながります。公文書改革はまだ完成していない。オン・ザ・ウェイなんです。〉
――福田康夫元首相のほか、初代公文書管理担当大臣の上川陽子氏、公文書に関する政府有識者会議のメンバーを歴任した老川祥一氏、国立公文書館館長の鎌田薫氏、元国立公文書館館長の加藤丈夫氏が参加した「公文書を守れ!」は、7月10日発売の「文藝春秋」8月号に全15ページにわたって掲載されている(「文藝春秋 電子版」では7月9日に公開)。