世の不景気感もあり、若者のクルマ離れが喧伝されつつも、今や日本には8千万台近いクルマの保有台数がある訳です。しかし、今後は人口の減少も進んで行くのでしょうし、不景気も簡単には解消することもなく、大都会程、クルマの所有を止める人々も増えて行くのでしょう。
一方、1台のクルマを買い換えずに、長く乗り続けるという人々も増えてくるのだと思います。実際、自販連等の平均使用年数統計を見ても、近年その平均使用年数は増加を続けています。
しかし、クルマという製品は、およそ2万点とも3万点とも云われる多数の部品の集合体ですし、何れにしても消耗品としての機械ですから、その耐久性等に限界はあります。長く乗れば乗る程、故障の発生率も高まって来ますし、10年も乗った国産大衆車で、オートマチックトランスミッションが壊れ、直すのに30万円要するとなれば、それなら買い換えると考えるのが普通の考え方でしょう。
それとか、6・7年乗り続けて、例えさもない故障でも、それが数回も続くと、こんな信頼性のないクルマじゃ心配で乗っていられないから、新車に買い替えようと考える人も結構いるのではないかと思います。
さて、故障なり事故なりによって、クルマが走行出来なくなったり、何らかの不具合が生じた際に、一般ユーザーが修理を整備工場や板金工場に持ち込む訳ですが、このクルマの修理という商品を購入する難しさということを感じざるを得ません。
これは、医者とか弁護士等の技能職にも云えることですが、単にその費用と得られる効果に、決して相関関係がありはしないということでもあるのだと感じます。つまり高い修理費を払ったからと行って、必ずしも高い修理効果が得られる訳でないということです。
具体例として、アイドリングが安定しないでエンストすると云ったエンジントラブルが生じたとします。その原因は、スロットルボデーのカーボン付着であって、それを清掃すれば直る問題というものだとしましょう。しかし、工場によっては、プラグを交換し、高価なECUまでを合わせて交換し、スロットルボデーの異常という原因に辿り着く訳です。そして、ユーザーには、それら試行錯誤で取替た部品と工賃の妥当性が説明され、払わざるを得なくなってしまうという訳です。
30年位昔の話ですが、私がディーラーのサービスメカニックとして活動していた頃の出来事を思い出します。それは、偶々新車販売してから僅かな期間でアイドリングでエンストしてしまうというトラブルを、同系列の別営業所に入庫して修理が進められた際のことでした。入庫後、一週間を経てもトラブルが直らず、ユーザーからのクレームを受けた当時の所長は、私に見に行ってこいとの指令が与えられたのでした。
その営業所を訪問した私は、今までに行われた作業を聞き、驚きました。キャブレターを交換し、スパークプラグやハイテンションコードを取替し、インテークマニホールドを取替し、直らないからシリンダーヘッドを変えて見ようとしていたのでした。
そんな経緯を聞いた上でのこともあると思いますが、私はこの再現性が100%ある「アイドルが出来ない」というトラブルは、キャブのスロー系にあると確信しました。そこで、ランオン(イグニッションを切ってもエンジンが回り続ける現象)防止用のスローカット電磁バルブの、ハーネス側コネクタ端子付近の断線を見つけたのでした。この間は、15分程度のものだったと思います。
当時から、ディーラーメカニックのことを「エンジニア」ならぬ「チェンジア」と揶揄されていましたが、部品を替えることでしか修理が出来ないという者が余りにも多すぎることから、生まれた揶揄であったと思っています。
世は流れ、今や各ECUやユニット部品、非分解部品も増加し、ますますその様な流れを加速させていると思います。
ところで、一般整備のことを記して来ましたが、板金塗装、つまりボデーリペアについては、その様な問題がもっともっと強いと感じられます。ボデーリペアとは、単に部品を取替さえすれば最高の修理品質なのかというと、それは別のことであるからです。この部品を取替るということを追求していくと、ボデー全体を取替ことが最高という話にまで行き着いてしまいます。
何れにしても、メカニカルな整備における部品交換と、ボデー整備における部品交換では、その意味あいが相当に異なると思います。それは、メカニカル部品は完成品としてのモノですが、ボデー部品については、バンパー等の極一部を除いて塗装もされていない半完成品としてのモノだということです。ですから、安易な部品交換は、塗装範囲を増やし、取替という痕跡により中古車査定での減価を生み出し、ユーザーが負担するコストも増加させてしまうと感じます。
しかし、改めて思うことは、商品の価値が見え難いクルマの修理(特にボデーリペア)の購入は、本当に難しいものだと感じられます。