東北、北海道はまだまだ先のことでしょうが、関東以南では桜が咲き出しており、なかなか頃良い季節となってきました。とはいえ、今週末で今月末ですし年度末でもあります。車検場も30日〆でしょうし、到底そんな気持ちどころじゃない、おまけに道路も混んでと、焦燥感を募らせて業務に就いているお方も多いと想像しています。
当方は、今日は先般電柱に衝突して飛散したコンクリート粉での被害事故の修理見積を昼飯後から作っていて15時頃には完成し、早速取り扱い保険会社へFAXしたところです。このコーナーを見ている方の中にも、見積業務を行う方も存ずるのではないかと、関連したことについて、ちょっと私の思考を記してみます。
まず、思うのが、整備工場およびBP工場共にですが、保険会社を毛嫌いする方を希に見掛けますが大きな勘違いしている方だと思って眺めています。まず、整備工場およびBP工場における事故損傷車に関わる売上の7割が保険会社の支払金で補われているという統計を知っておいて下さい。これは対物事故で過失割合があって割合分しか支払いされないとか、車両免責金があってとかあるのでしょうが、それらは関係なく全体としての統計値(一部推定も加味されると思うが)としては7割を保険会社が払っているということです。つまり、ここで伝えたいのは、保険会社は事故車(それ以外の偶然かつ外来の故障も含む)の良いお客さんだという視点が大事なことだと思います。世の中の仕業は理と情によって支配されると種々の本に記しています。皆さんのお客さんで、幾ら理を尽くしても、納得できない金がないというお客さんがいると思います。しかし、保険会社はある意味で情は関係ないのです。理さえ尽くして納得してもらえさえすれば、金がないからとは言わない、至って優良なお客さんなのです。
ここでは、見積技法とかまでの話は出来かねますが、何れにしても見積というのは10人十色といいましょうか、見る者それぞれの見解があり、相違が生じるのが当然のことです。これを、さも理路整然のごとく同じにしようとするのが保険会社なのかもしれません。これは保険という理念が持つ、公平にとか妥当にとかいう思想と一見すると一致しています。しかし、果たしてその様な行動を保険会社が取って来たかと眺めれば、大きなところ強い力を持った者に多く払い、物言わぬ小さいところ弱者には低い金額を通している様に見えるのは私ばかりでしょうか。
あまり長文は嫌われる(もう嫌ってる方も多数かも)ので、最後に保険会社と接する私のスタンスを書き留めてみます。それは、先に記した見解の相違は当然生じるのだが、私はもっと進め「あえて見解の相違を理の中で許容されるであろう最大値まで広げよう」と思考するのです。
当方は、今日は先般電柱に衝突して飛散したコンクリート粉での被害事故の修理見積を昼飯後から作っていて15時頃には完成し、早速取り扱い保険会社へFAXしたところです。このコーナーを見ている方の中にも、見積業務を行う方も存ずるのではないかと、関連したことについて、ちょっと私の思考を記してみます。
まず、思うのが、整備工場およびBP工場共にですが、保険会社を毛嫌いする方を希に見掛けますが大きな勘違いしている方だと思って眺めています。まず、整備工場およびBP工場における事故損傷車に関わる売上の7割が保険会社の支払金で補われているという統計を知っておいて下さい。これは対物事故で過失割合があって割合分しか支払いされないとか、車両免責金があってとかあるのでしょうが、それらは関係なく全体としての統計値(一部推定も加味されると思うが)としては7割を保険会社が払っているということです。つまり、ここで伝えたいのは、保険会社は事故車(それ以外の偶然かつ外来の故障も含む)の良いお客さんだという視点が大事なことだと思います。世の中の仕業は理と情によって支配されると種々の本に記しています。皆さんのお客さんで、幾ら理を尽くしても、納得できない金がないというお客さんがいると思います。しかし、保険会社はある意味で情は関係ないのです。理さえ尽くして納得してもらえさえすれば、金がないからとは言わない、至って優良なお客さんなのです。
ここでは、見積技法とかまでの話は出来かねますが、何れにしても見積というのは10人十色といいましょうか、見る者それぞれの見解があり、相違が生じるのが当然のことです。これを、さも理路整然のごとく同じにしようとするのが保険会社なのかもしれません。これは保険という理念が持つ、公平にとか妥当にとかいう思想と一見すると一致しています。しかし、果たしてその様な行動を保険会社が取って来たかと眺めれば、大きなところ強い力を持った者に多く払い、物言わぬ小さいところ弱者には低い金額を通している様に見えるのは私ばかりでしょうか。
あまり長文は嫌われる(もう嫌ってる方も多数かも)ので、最後に保険会社と接する私のスタンスを書き留めてみます。それは、先に記した見解の相違は当然生じるのだが、私はもっと進め「あえて見解の相違を理の中で許容されるであろう最大値まで広げよう」と思考するのです。