最近はカーレースを見ることも少なくなりましたが、かつての偉大なレーシング・ドライバー達の何名かの名前を聞く時、心ときめくものを感じます。考えてみれば、クルマの運転なんて、両手でハンドルを切り、足でブレーキを踏むという単純なものではあります。しかし、いざレースとなり、そこで好タイムでの周回を続け優勝し続けることのできるドライビング・センスを持つドライバーは極めて僅かな者しかいないのです。だから、後年に渡るまで偉大なドライバーとして記憶に留められるのでしょう。以下は私の独断として記憶に残るドライバー達です。
・ローゼマイヤー
ベルント・ローゼマイヤー(Bernd Rosemeyer)は、第2次対戦直前までを活躍したドライバーです。当時のドイツ帝国、ヒトラーの国家高揚策で支援援助を受け、ポルシェ博士が開発したアウトウニオン(Auto
Union)・Pワーゲン(A~Dタイプあり)を駆り、数々のレースで好成績の実績を作ったと伝えられています。アウトウニオン・Pワーゲンはミドシップ搭載のV16エンジンというモンスターマシンであり、ミド故に急変し易いトリッキーな特性を見事に乗りこなせたのは、ローゼマイヤーあったればこそと云われています。なお、ローゼマイヤーの最後は、新設したばかりのアウトバーン上で行われたPワーゲンのモデファイ車での最高速テスト中、時速430km/hを記録した直後に、横風の影響からの大事故による非業の死を遂げているそうです。
・ファンジオ
ファン・マヌエル・ファンジオ(Juan Manuel Fangio)は、第2次対戦直後から活躍したドライバーです。F1グランプリにおいて、5回のワールドチャンピオンに輝いているが、これは2003年にミハエル・シューマッハに破られるまで、46年間も史上最多記録を誇っていたそうです。彼がF1グランプリで主に駆っていたクルマは、メルセデスベンツW196、L8・2500cc、290ps/8,700rpm、デスモドロミック(強制開閉式)バルブ、シリンダー直接噴射、FR駆動など、当時のグランプリマシンとしては高度な機能を持っていました。これは、後年市販され絶版車となった300SLにも技術的影響は与えたものと思えます。
・ニキ・ラウダ
アンドレアス・ニコラス・“ニキ”・ラウダ(Andreas Nikolaus "Niki" Lauda)ですが、過去3度のワールドチャンピオンとなった元F1ドライバーです。彼の輝かしい戦跡と共に高名にさせたのは、1976年のドイツ・ニュルブルクリンクのグランプリでの事故のことでしょう。同レースの高速コーナーでの事故により、火炎に包まれ瀕死の重傷を負うも、顔の火傷の跡も生々しいまま6戦後のグランプリに復帰するという人間離れした姿、そのレースに掛ける情熱は知る者を引きつけます。そんな彼も、引退前は普及しだしたグランド・エフェクトカーにおける、高速コーナーにおける極端な速度向上については、危険すぎると警鐘の言葉を述べていたことを記憶します。
・アイルトン・セナ
アイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva)は、過去F1グランプリにおいて過去3度のワールドチャンピオンに輝いています。当時のホンダの第2次F1活動中であり、日本国内がF1熱が著しく高まった時期でした。そして、マクラーレン・ホンダの戦闘力も十分高く、それを十分操る優秀なドライバーでもあったことから、彼を記憶している日本人は今でも多いものと想像します。ブラジル人の彼に決して陰気さはないですが、少年ぽいあどけなさの中に何処か陰りを潜めた雰囲気は、人気を生んだ一つの理由かなと思います。そんな彼も、1994年サンマリノグランプリの高速コーナーでの酷いクラッシュで帰らぬ人となったのでした。今でも、YouTubeなどで、スズカでNSXを駆る彼の姿を見ることができます。彼に限らずプロレーサーはステアリングを切るタイミングと早さは凄いですが、戻すタイミングと早さはもっと凄いなど思います。私達のような凡庸なドライバーならコーナーで車体のドリフトアングルが数十度付かないと当て舵(逆ハン)が当てられず、結局極端なドリフトアングルと修正舵の繰り返しでスピンに至るでしょう。でも、プロは僅かなドリフトアングルで当て舵を当て、ドリフトを制御しつつ、限界的な4輪ドリフトでコーナー後半を加速して行きます。そして、セナで忘れられないのは、コーナーリング中のスロットルを振るえる様に素早く煽る動作です。
・ローゼマイヤー
ベルント・ローゼマイヤー(Bernd Rosemeyer)は、第2次対戦直前までを活躍したドライバーです。当時のドイツ帝国、ヒトラーの国家高揚策で支援援助を受け、ポルシェ博士が開発したアウトウニオン(Auto
Union)・Pワーゲン(A~Dタイプあり)を駆り、数々のレースで好成績の実績を作ったと伝えられています。アウトウニオン・Pワーゲンはミドシップ搭載のV16エンジンというモンスターマシンであり、ミド故に急変し易いトリッキーな特性を見事に乗りこなせたのは、ローゼマイヤーあったればこそと云われています。なお、ローゼマイヤーの最後は、新設したばかりのアウトバーン上で行われたPワーゲンのモデファイ車での最高速テスト中、時速430km/hを記録した直後に、横風の影響からの大事故による非業の死を遂げているそうです。
・ファンジオ
ファン・マヌエル・ファンジオ(Juan Manuel Fangio)は、第2次対戦直後から活躍したドライバーです。F1グランプリにおいて、5回のワールドチャンピオンに輝いているが、これは2003年にミハエル・シューマッハに破られるまで、46年間も史上最多記録を誇っていたそうです。彼がF1グランプリで主に駆っていたクルマは、メルセデスベンツW196、L8・2500cc、290ps/8,700rpm、デスモドロミック(強制開閉式)バルブ、シリンダー直接噴射、FR駆動など、当時のグランプリマシンとしては高度な機能を持っていました。これは、後年市販され絶版車となった300SLにも技術的影響は与えたものと思えます。
・ニキ・ラウダ
アンドレアス・ニコラス・“ニキ”・ラウダ(Andreas Nikolaus "Niki" Lauda)ですが、過去3度のワールドチャンピオンとなった元F1ドライバーです。彼の輝かしい戦跡と共に高名にさせたのは、1976年のドイツ・ニュルブルクリンクのグランプリでの事故のことでしょう。同レースの高速コーナーでの事故により、火炎に包まれ瀕死の重傷を負うも、顔の火傷の跡も生々しいまま6戦後のグランプリに復帰するという人間離れした姿、そのレースに掛ける情熱は知る者を引きつけます。そんな彼も、引退前は普及しだしたグランド・エフェクトカーにおける、高速コーナーにおける極端な速度向上については、危険すぎると警鐘の言葉を述べていたことを記憶します。
・アイルトン・セナ
アイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva)は、過去F1グランプリにおいて過去3度のワールドチャンピオンに輝いています。当時のホンダの第2次F1活動中であり、日本国内がF1熱が著しく高まった時期でした。そして、マクラーレン・ホンダの戦闘力も十分高く、それを十分操る優秀なドライバーでもあったことから、彼を記憶している日本人は今でも多いものと想像します。ブラジル人の彼に決して陰気さはないですが、少年ぽいあどけなさの中に何処か陰りを潜めた雰囲気は、人気を生んだ一つの理由かなと思います。そんな彼も、1994年サンマリノグランプリの高速コーナーでの酷いクラッシュで帰らぬ人となったのでした。今でも、YouTubeなどで、スズカでNSXを駆る彼の姿を見ることができます。彼に限らずプロレーサーはステアリングを切るタイミングと早さは凄いですが、戻すタイミングと早さはもっと凄いなど思います。私達のような凡庸なドライバーならコーナーで車体のドリフトアングルが数十度付かないと当て舵(逆ハン)が当てられず、結局極端なドリフトアングルと修正舵の繰り返しでスピンに至るでしょう。でも、プロは僅かなドリフトアングルで当て舵を当て、ドリフトを制御しつつ、限界的な4輪ドリフトでコーナー後半を加速して行きます。そして、セナで忘れられないのは、コーナーリング中のスロットルを振るえる様に素早く煽る動作です。