私の思いと技術的覚え書き

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寺子屋指南 その10 事故解決のリーダーシップは自らにあるという自覚

2021-04-09 | 賠償交渉事例の記録
 本シリーズも第10回目である。今回は、事故解決のリーダーは自らが発揮せねばならないということを記してみたい。

 この事故解決だが、損保により示談交渉は別の担当者がやることになっているからとか、単なる見積協定(見積額を工場と打ち合わせつつ合意すること)でも、問題があるのを、裁量権を越えて勝手に協定はできないと反論を受けるのかもしれない。そこで補足しておきたいのだが、問題点があるのなら、そのことを上位者に報告するのは当然のことだ。その中で、相談もしくは報告するだけで、なるべく早く、そのめんどくさい案件から逃れたい風を持つ調査担当者がいるのかもしれないが、それは私の考えと大きく異なると云うことを云いたいのだ。

 つまり、今や組織体(企業)は数の消化を求めている、もしくは調査担当者が組織体の欠点を、契約者や対する被害者もしくは関係者に訴えられるトラブルの発生に目を付けているのかもしれない。しかし、私に云わせりゃ、協定にしても示談にしても、簡単に解決出来ぬ事案があるところが、その仕事の面白さであり、また解決出来た時の喜びも大きく、特に大きな戦略的思考を持って、調査担当者が自ら仕掛けて行くべきところにこそ、単に理論として知っていれば良いと云うスキルの問題を越えた醍醐味があると考えている。

 そもそも論だが、協定にしても示談も同様だが、対する相手と対立すると、だいたいの場合は相手は、上司を連れて来いとかいう、担当者を弾き飛ばそうとする場合が多いのではないだろうか?

 そんな場合に、よく練れたマネージャーなり上司であれば、調査担当者のメンツや気概を考慮の上で、相談しつつも、どう進めたら最良なのかを決めるということになるのだろう。ところが、昨今知るマネージャーらしき者の対応は、またそんなめんどくさい話しを持ってきてとか、そんな工場も説得できないのかと云わんばかりに調査担当者をののしる場合もあるという。だいたいにおいて、上位における地位というのは、何時も何時も自分が出ていって解決するばかりが能ではない。進め方や説明が不足した調査担当者には改善点を指摘しつつ指導するのは当然だが、気後れした調査担当者を勇気付け、相手に誤るべき問題があるのであれば素直に謝り、上司とも打ち合わせした結果として改めての再交渉を促すというのが本来の姿だろう。そうでないと、その組織における人材を育成は困難となってしまうだろう。

 ここで、マネージャー時代の自己反省を告白しなければならないが、当時の私は、相談を受けて、それならこういう説明をしてみろとかアドバイスする場合も当然あった。しかし、まずはその勝負に勝たなくてはという意識が強すぎ、調査担当者の実力も知った上で、これじゃアカンとばかりに、前面に出で切りまくり過ぎた点があることを、後悔する部分もある。そのくせ、自分がさらに上位の者に相談した場合は、論理でその上司を囲い込み、当方の意見に問題がないことを認めさせてしまう。当然において、上司を前面に出すことは一切許さず、相手には「会社全体で協議を繰り返しましたが・・・」などとの前言で、さらに解決案を再提示するという具合だった。これは、案件解決の主体(リーダー)は、あくまでも自分にあるという強い自覚がなせたことではあると信じている。

 この辺りのことは、最近は希にしか平成生まれの若い方と話す機会はないが、彼らの返事は「判ります」とは云うものの、その後の行動をウォッチする限り、全然判っちゃいないと思わざるを得ない。

 このことは従前何度も記していることだが、江戸時代は250年余も続いた時代だったが、それ以前の戦国時代が去り徳川幕府が平定してから平和な時代が5、60年も続くと、正に時代も変わり、幕府の官僚政治腐敗し始め、生きるか死ぬかを何時も迫られていた武士の気概も薄れてきてしまったとは、大好きな池波正太郎の小説の一節だ。池波小説本は繰り返し読むが、江戸時代を舞台にはしているが、現代を置き換えて嘆いていると私は思い続けている。

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