私の思いと技術的覚え書き

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DVD映画 グラン・トリノを見て思う

2019-06-16 | 車と乗り物、販売・整備・板金・保険
 このグラン・トリノという映画、私が重要マークするイーストウッド監督兼主演作品で名前はフォードの70年代のクルマ名だとは知り気になりつつも、グラン・トリノ自体が関心ないこともあり、その内見たい映画として保留していた作品だった。

 クルマ好きを自負する私だが、だいたい70年代初旬の米車といえば、フォードならムスタング、GMポンテならトランザム辺りが頭に浮かぶ。これらは、多数の映画にも登場し、今でも魅力あるクルマなのだが、グラン・トリノ自体が全然パッとしないというか、どういうクルマかも判らないということもあったこともあるだろう。

 まあ、しかし題名にグラン・トリノと付けられても、クルマ自体が主題の映画ではないし、想像するにイーストウッドとしては、70年代のある程度2ドアのスペシャルティ感あるクルマなら何でも良かったんではなかったのかとも想像した次第だ。

 見てない方のために、物語の粗筋をさらと記すと、映画の冒頭は妻の葬式のシーンから始まる。そして主人公のウォルト・コワルスキー(ポーランド系移民と設定・イースウッド配役)は朝鮮戦争に従軍、フォードで自動車組み立て工として勤め上げリタイヤした身である。自らの子女とも、今一しっくりした関係でなく、一人住まいをしている。それが、隣家に住む中華?(正確にはラオスのモン族という少数民族で弾圧を受け米国への逃避民)のタオはじめ家族と交流を持つ様になる。ところが中華系の悪たれ小僧の集団がタオにちょっかい掛けたのを端緒となり、諍いはエスカレーションしつつ、最終曲面に至る。ウォルトは単身丸腰で、悪たれ小僧の住み家に乗り込み、悪られ小僧多数の銃口の前で、平然とたばこをくわえてライターを出すと宣言しポケットに手を入れ抜き出した瞬間、悪たれ小僧共の一斉射撃に死に果てる。悪たれ小僧共を、丸腰の者を撃ち殺した重罪として長期務所送りにしてやろうというのがウォルトの復讐作戦だったのだ。

 これを見て頭に浮かんだ言葉は、「仇討ち」とか「敵討ち」とか「復讐」という行為のことだ。現代世界では、世界中でこれら行為は法律で禁止されている。それは、国家秩序の維持という理由に他ならないだろう。江戸時代までは、一定の要件はあるが、国家権力というか警察組織が整っていないこともあり「仇討ち」が公的に許される場合があったのだ。それら仇討ちに関わる悲愁など、愛読書の池波正太郎他も記した作品があるし、他でも幾らもあるのだろう。しかし、法律には一切の明文はないが、国家が関与する復讐は現在でも凄まじいものが現実であり、民衆がそれを支持したとなれば、戦争に至るというのが現実の歴史であるし、幾ら綺麗事を並べ立てても今後も変わることはないだろう。しかし、戦争することが良いなんてこれぽっちも思わないが、侵略もしくは陵辱を今正に受けようとするとき、反撃できるかどうか。そして、そもそも相手にその様な邪悪な思考の片鱗さえ生起させぬ巧みで制御された牽制活動と絶対防衛する覚悟とができるかどうかが独立国家たるものだろう。その点で、現状の我が国は独立国家かという、繰り返しの疑念を生じ続けるのだ。



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