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首都高川崎ポルシェ暴走は殺人事件か?

2023-01-14 | 事故と事件
首都高川崎ポルシェ暴走は殺人事件か?
 今朝ヤフーーで見た川崎のポルシェ暴走事故のことだが。聞いたことない作家が、以下転載の如くずらずら記しているが、主旨はこの事故は起こるべきして起きた(未必の故意)だからして、交通事犯というより殺人罪相当で良いのではという意見だ。

 そもそも、交通事犯については業務上過失致死罪とか呼ばれ決して故意犯ではなく、誤って犯した罪だからして、故意犯より軽い量刑が適用(最高刑7年禁錮)されている。そういう中で、飲酒とか極端な高速度での事犯など、事故自体は必ずしも故意犯とまではいえないが、故意性が高い、つまり事故に至る予見性がある得る事案を危険運転として重い量刑(最高15年)が適用される。

 だが、私思うに、このポルシェ暴走の幼児性の自己抑制不能者たる犯人(彦田嘉之・50)が、被害者を殺そうとまでしていたかとなると、それは論理の飛躍というべきだろう。ここで、この犯人が、今次の被害者を何らかの恨みを持ち、最終的はぶつけて殺そうと追い掛けていて、それを果たしたと云うなら殺人罪だろうが、そこまでの殺意自体を持つ訳でないので、殺人罪の適用はあまりに罪刑法定主義の定めと乖離してしまうだろう。

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時速200kmのスポーツカー追突で夫婦死亡 首都高湾岸線の悲劇は本当に「危険運転致死」だったのか? あえて冷静に再考する
Merkmal 1/13(金) 4:31配信 日野百草(ノンフィクション作家)
 時速200kmで他の車6台を妨害したあげくに追突、ふたりの命を奪っても、この国では交通事故なので起訴されるまでの約2年を自由に過ごせるし、殺人罪にも問われない。
 2020年8月、川崎市川崎区の首都高速湾岸線下り線でスポーツカーを暴走させて夫婦ふたりを死亡させた会社役員の男(52歳)が2022年12月、ようやく横浜地検に危険運転致死の罪で起訴された。
 実に事件発生から起訴まで2年4か月、筆者(日野百草、ノンフィクション作家)は「時速200kmで衝突 相手死亡も、真っすぐ走れば「危険運転にあらず」は理不尽だ! 今こそ求められる司法の歩み寄り」(2022年12月25日配信)でも書いたが、危険運転致死はそれほどまでにハードルの高い、慎重に慎重を重ねなければならないのがこの国の司法の現状である。それでも検察が危険運転致死で起訴したことはまっとうな判断であるように思う。しかし、あえて考える。これは「殺人罪」(運転殺人)ではないか、と。
 もちろん感情のみで書いているのではない。
 実際に2018年に大阪府堺市の一般道でバイクに乗った大学生に追い抜かれたことに腹を立て、時速100kmで追突して大学生を「殺害」した警備員の男(40歳・事件当時)は殺人罪で起訴されている。当初は危険運転致死だったが、殺人罪の適用が可能と判断しての「英断」で、大阪地裁堺支部、大阪高裁もこれを支持、ハイビームとクラクションであおり運転をしたあげくに「はい、終わり」と言ったことは「殺意」があると認定した。
 男と弁護士は最高裁まで争うために上告したが2020年あえなく棄却、殺人罪による懲役16年の刑が確定した。まさしく「画期的」な判例となった。
 決め手はドライブレコーダー、この男の犯行の一部始終が残っていた。一昔前ならこれは単なる「過失」と片付けられてしまったかもしれない。いや、現代でも担当検事によっては危険運転致死、下手をすれば過失運転致死もありえた話である。
 結果的に裁判所が追認してくれただけで、それほどまでに自動車運転で「故意」を立証し、それを認定することは難しい。万が一にも無罪になったらと検察が及び腰になるのは一部の司法関係者の「世間ずれ」と法律の不備にも原因がある。

カギとなる「未必の故意」
 今回の事件に戻ると、時速200kmで複数の車を妨害し、あげくに追突でふたりの命を奪う行為は本当に「故意」ではないのだろうか。確かに堺の事件のように「はい、終わり」といった殺意を認定できるような記録はない。しかし男は最大で時速268km出していたと起訴状にある。
 首都高湾岸線の制限速度は時速80km、もはやスピード違反がどうこうというレベルにないが、時速200km以上までアクセルを踏んだのはその男の意思であり、そのスピードで他の車を妨害したのもまた男の意思である。これを「でも、人を殺す意思はなかった」と判断することが正しいのか、「人を殺す認識があった」ではなかろうか。
 だからこその危険運転致死での起訴だが、筆者は今回はドライブレコーダーの証拠や事実を勘案すれば「未必の故意」による殺人罪に問えたのでは、と考える。
 「未必の故意」は端的に言えば「人を殺してしまうかもしれないが構わない」と思う心理状態を指すが、あおり運転(殺人罪適用の判例あり)や飲酒運転(殺人罪適用の判例なし)における殺人罪も明確に「殺してやろうと思った」とでも言わない限りはこの「未必の故意」が論点となる。
 実際、堺の事件で男は殺意を否定、「はい、終わり」は「自分の人生が終わった」と思って言ったと主張した。結局この主張は認められなかったわけだが、ならば過度の暴走および速度による運転とそれによる致死も「未必の故意」では、と思うのだがどうだろうか。また「危険運転致死傷罪」では、
 「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」
(危険運転致死傷)第二条
二 その進行を制御することが困難な高速度で自動車を走行させる行為
三 その進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させる行為
四 人又は車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人又は車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為(本稿関連部分のみ抜粋、2014年施行時点)
 となっていて、さすがに本件は「四」で起訴されたが、自動車による事故だから「危険運転致死傷罪」と最初から考えるのではなく「殺人罪」の適用も検討すべきだったように思う。

殺人罪適用は厳罰主義なのか
 実際、堺の事件では「殺人罪」を適用した。ゆえに画期的だったのだが、制限速度80kmの高速道路で最大時速268kmを出して複数の車を妨害したあげくに追突してふたり殺害というのは、犯人は人の死亡する可能性を十分に認識し、故意にこれを行ったとするのが妥当ではないか。
 もちろん検察としては確実な起訴を選ぶだろうが、堺の事件のように交通事件であっても殺人罪を適用することは決して厳罰主義でもなく、むしろ司法の健全性を示すものだと考える。
 もちろん、現実問題として現行の「法律の壁」と「司法の事情」が複雑に絡むことは承知の上である。また危険運転致死罪は最大で懲役20年までいけるので殺人罪までハードルを上げなくとも危険運転致死罪で十分、という考え方もある。
 しかし繰り返すが、時速200kmで他の車6台を妨害したあげくに追突、ふたりの命を奪っても起訴されるまでの2年以上を自由に過ごし、殺人罪にも問われないというのは理不尽に思う。このケースは危険運転致死すら生ぬるい「殺人」であり「ふたり殺害」ではないか。
 厳罰主義でもなければ類推解釈でもなく、時速200kmで複数台の車を妨害したあげくにふたりを死に至らしめた行為は、本当に危険運転「致死」なのだろうか。いまだにそのありさまが問題視される危険運転致死傷罪、今一度の見直しが必要だろう。日野百草(ノンフィクション作家)


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