官僚の暴走は止めようがないのか その2
ツイッターの書き込みで目に付くものとして、おそらく比較的若い方なんだろうと思うが、戦争が始まり徴兵が始まっても絶体断る、そんなもの行かんからというものが目立つのだが、防衛戦争にせよいざ戦争が始まった際に、当然現行自衛隊員だけでは兵員は足りなくなる。しかも、その自衛隊員ですら、戦争が始まったら除隊を願うつもりでいる者は潜在的に相当数いると聞くことがある。国のために、死んでも日本を守りぬくなんて立派な意志を持つ者もいるのだろうが、所詮人間とはそういうものだ。
しかし、その時の権力者はそこが大きく異なる。戦前もそうだが、国体護持(端的云えば祭り上げた天皇下の国を守るという思想)を御旗に、全マスメディア、地方自治体など政府や行政官僚を巻き込んで、祖国防衛とかいう掛け声で、速やかに国家非常事態宣言と共に年齢層を区切って、ある程度若い者から徴兵制度が開始されるのは間違いないだろう。これも、真の意味で侵略を受けた防衛戦争なら止むないところもあるのだろうが・・・。
ただし、先の戦争の開戦もそうだが、あまりに外交努力を欠落しつつ、国際連盟脱退という軽はずみと云える孤立化をし、その後日独伊三国同盟を結べば、そりゃもう世界のオピニオンを握る米国の思う壺だ。その後は、米国権力者の思うまま焚き付けられ先制攻撃を仕掛けられ、もって米国民をして防衛戦争をせにゃならんと意気を上げさせたという考えられない愚挙を繰り返したのが日本だ。その先制攻撃の決断も、官僚達10名弱で決めているのが現実の歴史だと云うから恐ろしいものだ。
さて、下記の記事は旧日本軍の死者は230万程(民間人含めると330万)だそうだが、驚くべきことにその死者の多くは戦争後半となる1944年以降に急増しているのは、既に敗戦色が高まった故だが、戦闘で死んでいるのではなく、病死とか餓死で死んだ者が多いと云うところが日本軍の際立つ特徴だと記している。つまり、軍エリートを集めた大本営司令部では、卓上思考だけで、現地の事情だとか補給など一切考慮もせず、命令だけ発していたということだろう。あげくの果ては、兵員の命など、ゴミ同然の思考で、恒常的な特攻作成を繰り返すという狂気を行う。そういう大本営指揮官だとか現地指揮官でも、それなりに目立つ者は戦犯として処分はなされたが、ほとんど多くの大本営参謀などは、そのまま一時公職を離れたと云え、朝鮮戦争が始まると米国の態度は一変し、国家官僚とかに返り咲き、天寿をまっとうして来たと云うのだがら気が滅入ってくる。南方への派兵で、餓死や病死し、玉砕した一般兵士の遺骨収集など、十分果たしもしないまま、靖国神社に奉納したからいいだろうと云うのが、時の権力者の偽らざる本音だろう。
しかし、歴代首相で云うと、中曽根政権以降は、正に米国隷下の日本を恥ずかしげもなく示す様になり、それが急進的加速したのが、安倍政権の始まる10年前からだ。今、岸田首相が次々多くの善良かつ良識ある日本国民を驚かしてる、軍事費倍増とか、敵基地先制攻撃に関わるトマホーク200発とか、イージスアショア(陸上)がポシャり、これの海上型新イージス艦(大和でさえ舷側幅30mの設計を幅40mの極幅鈍重イージスを計画するアホさ)とか、福島原発事故の処理もぜんぜん済んでいないにも関わらず原発60年超使用の認可とか新原発も認める方向とか言い出している。岸田総理については、ただただバイデン大統領の褒めてもらうことだけしか考えていないのだろうが、彼の頭にあるすべては、安倍元総理とそこにはべり付いた官僚の言い出した事柄ばかりだ。正に、日本は亡国への道への舵を切ったと云えるだろう。
※写真は旧日本兵の哀れな姿だ。現地兵士は、こういう状況にいながら、国内大本営では、国民は配給制度で、十分な生活もままならない中、高級官僚達は、まったくそんな生活には縁遠い生活をして来たのだろう。このことは今も大して変わりはしない。円高、物価高で賃金は世界でも日本だけが置いてきぼりの中、麻生太郎などは毎夜銀座のクラブで過ごしているというというのだから、基本は変わっちゃいないことが判るだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/4e/6e8031620255cdaa33cfe39da9149c8d.jpg)
---------------------------------------------------------------
日本軍兵士の多くは餓死や自決、ときには「処置」も――死者からわかる戦争の実像 #戦争の記憶
Yahoo!ニュース オリジナル 特集 2022/7/31(日) 16:53配信
先の大戦で日本軍の死者は軍人・軍属を合わせて約230万人にのぼる。ソ連は1360万人、ドイツは325万人と多数の死者が出たが、日本軍の死の内実は欧州戦線とは大きく異なる。死者の9割は1944年以降に絞られ、さらにその死の半数ほどが病死、とくに餓死が占めていたことが戦史研究からわかった。日本軍兵士の戦場での実像を研究した吉田裕・一橋大学名誉教授に尋ねた。(ジャーナリスト・森健/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
餓死が多かった日本軍兵士
1937年7月に日中戦争、1941年12月に太平洋戦争がはじまり、1945年8月15日の終戦までの8年間に、日本軍は軍属も含め約230万人がなくなった。
「日本の戦況が急激に悪化したのは、1943年2月のガダルカナル島の撤退からです。前年6月のミッドウェー海戦で主力の機動部隊がやられました。その後、アメリカは空母や戦闘機などを急速に増加させ戦力を上げました。43年9月に決定された絶対国防圏も整備しきれないまま、44年6月、サイパン島が陥落します。もうここで事実上負けていたと言ってもいいでしょう」
吉田裕(よしだ・ゆたか)。一橋大学名誉教授。東京大空襲・戦災資料センター館長。1954年生まれ。83年一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得。96年一橋大学社会学部教授。著書に『昭和天皇の終戦史』『兵士たちの戦後史』ほか。(撮影:森健)
勝てる見込みのない戦争。厳しい局面の戦地に駆り出されていた日本軍兵士はどのような戦場を生き、どのようになくなったのか。吉田氏はそんな日本軍兵士の実情を研究した。
防衛庁(現・防衛省)防衛研修所が編纂した『戦史叢書』(全102巻)をはじめ、連合国側の記録、さらには無名の元兵士たちが綴った数千冊の自伝や手記……。それらを突き合わせていくなかで、死は戦闘以外の要素が強いことが明らかになっていった。
「年次別の戦死者数を公表している岩手県のデータなどから推計すると、軍人・軍属の87.6%は1944年1月以降に亡くなっていました。問題はその死に方です。戦争ですから、多くの人は戦闘で命を落としたと考えるでしょう。でも、日本軍は1944年以降、戦病死者が多く、ある中国の連隊の史料では戦病死者が戦没者に占める割合は73.5%にもなりました。実際に全戦没者で見れば、この数字より多い可能性が高いです。その戦病死の中身も、栄養失調による餓死、あるいは栄養失調の果てにマラリアに感染というケースが多い。餓死の比率は61%や37%などの説があり、確定はしていません。ですが、おおむね半数が餓死者だったと言っていいでしょう」
ツイッターの書き込みで目に付くものとして、おそらく比較的若い方なんだろうと思うが、戦争が始まり徴兵が始まっても絶体断る、そんなもの行かんからというものが目立つのだが、防衛戦争にせよいざ戦争が始まった際に、当然現行自衛隊員だけでは兵員は足りなくなる。しかも、その自衛隊員ですら、戦争が始まったら除隊を願うつもりでいる者は潜在的に相当数いると聞くことがある。国のために、死んでも日本を守りぬくなんて立派な意志を持つ者もいるのだろうが、所詮人間とはそういうものだ。
しかし、その時の権力者はそこが大きく異なる。戦前もそうだが、国体護持(端的云えば祭り上げた天皇下の国を守るという思想)を御旗に、全マスメディア、地方自治体など政府や行政官僚を巻き込んで、祖国防衛とかいう掛け声で、速やかに国家非常事態宣言と共に年齢層を区切って、ある程度若い者から徴兵制度が開始されるのは間違いないだろう。これも、真の意味で侵略を受けた防衛戦争なら止むないところもあるのだろうが・・・。
ただし、先の戦争の開戦もそうだが、あまりに外交努力を欠落しつつ、国際連盟脱退という軽はずみと云える孤立化をし、その後日独伊三国同盟を結べば、そりゃもう世界のオピニオンを握る米国の思う壺だ。その後は、米国権力者の思うまま焚き付けられ先制攻撃を仕掛けられ、もって米国民をして防衛戦争をせにゃならんと意気を上げさせたという考えられない愚挙を繰り返したのが日本だ。その先制攻撃の決断も、官僚達10名弱で決めているのが現実の歴史だと云うから恐ろしいものだ。
さて、下記の記事は旧日本軍の死者は230万程(民間人含めると330万)だそうだが、驚くべきことにその死者の多くは戦争後半となる1944年以降に急増しているのは、既に敗戦色が高まった故だが、戦闘で死んでいるのではなく、病死とか餓死で死んだ者が多いと云うところが日本軍の際立つ特徴だと記している。つまり、軍エリートを集めた大本営司令部では、卓上思考だけで、現地の事情だとか補給など一切考慮もせず、命令だけ発していたということだろう。あげくの果ては、兵員の命など、ゴミ同然の思考で、恒常的な特攻作成を繰り返すという狂気を行う。そういう大本営指揮官だとか現地指揮官でも、それなりに目立つ者は戦犯として処分はなされたが、ほとんど多くの大本営参謀などは、そのまま一時公職を離れたと云え、朝鮮戦争が始まると米国の態度は一変し、国家官僚とかに返り咲き、天寿をまっとうして来たと云うのだがら気が滅入ってくる。南方への派兵で、餓死や病死し、玉砕した一般兵士の遺骨収集など、十分果たしもしないまま、靖国神社に奉納したからいいだろうと云うのが、時の権力者の偽らざる本音だろう。
しかし、歴代首相で云うと、中曽根政権以降は、正に米国隷下の日本を恥ずかしげもなく示す様になり、それが急進的加速したのが、安倍政権の始まる10年前からだ。今、岸田首相が次々多くの善良かつ良識ある日本国民を驚かしてる、軍事費倍増とか、敵基地先制攻撃に関わるトマホーク200発とか、イージスアショア(陸上)がポシャり、これの海上型新イージス艦(大和でさえ舷側幅30mの設計を幅40mの極幅鈍重イージスを計画するアホさ)とか、福島原発事故の処理もぜんぜん済んでいないにも関わらず原発60年超使用の認可とか新原発も認める方向とか言い出している。岸田総理については、ただただバイデン大統領の褒めてもらうことだけしか考えていないのだろうが、彼の頭にあるすべては、安倍元総理とそこにはべり付いた官僚の言い出した事柄ばかりだ。正に、日本は亡国への道への舵を切ったと云えるだろう。
※写真は旧日本兵の哀れな姿だ。現地兵士は、こういう状況にいながら、国内大本営では、国民は配給制度で、十分な生活もままならない中、高級官僚達は、まったくそんな生活には縁遠い生活をして来たのだろう。このことは今も大して変わりはしない。円高、物価高で賃金は世界でも日本だけが置いてきぼりの中、麻生太郎などは毎夜銀座のクラブで過ごしているというというのだから、基本は変わっちゃいないことが判るだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/4e/6e8031620255cdaa33cfe39da9149c8d.jpg)
---------------------------------------------------------------
日本軍兵士の多くは餓死や自決、ときには「処置」も――死者からわかる戦争の実像 #戦争の記憶
Yahoo!ニュース オリジナル 特集 2022/7/31(日) 16:53配信
先の大戦で日本軍の死者は軍人・軍属を合わせて約230万人にのぼる。ソ連は1360万人、ドイツは325万人と多数の死者が出たが、日本軍の死の内実は欧州戦線とは大きく異なる。死者の9割は1944年以降に絞られ、さらにその死の半数ほどが病死、とくに餓死が占めていたことが戦史研究からわかった。日本軍兵士の戦場での実像を研究した吉田裕・一橋大学名誉教授に尋ねた。(ジャーナリスト・森健/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
餓死が多かった日本軍兵士
1937年7月に日中戦争、1941年12月に太平洋戦争がはじまり、1945年8月15日の終戦までの8年間に、日本軍は軍属も含め約230万人がなくなった。
「日本の戦況が急激に悪化したのは、1943年2月のガダルカナル島の撤退からです。前年6月のミッドウェー海戦で主力の機動部隊がやられました。その後、アメリカは空母や戦闘機などを急速に増加させ戦力を上げました。43年9月に決定された絶対国防圏も整備しきれないまま、44年6月、サイパン島が陥落します。もうここで事実上負けていたと言ってもいいでしょう」
吉田裕(よしだ・ゆたか)。一橋大学名誉教授。東京大空襲・戦災資料センター館長。1954年生まれ。83年一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得。96年一橋大学社会学部教授。著書に『昭和天皇の終戦史』『兵士たちの戦後史』ほか。(撮影:森健)
勝てる見込みのない戦争。厳しい局面の戦地に駆り出されていた日本軍兵士はどのような戦場を生き、どのようになくなったのか。吉田氏はそんな日本軍兵士の実情を研究した。
防衛庁(現・防衛省)防衛研修所が編纂した『戦史叢書』(全102巻)をはじめ、連合国側の記録、さらには無名の元兵士たちが綴った数千冊の自伝や手記……。それらを突き合わせていくなかで、死は戦闘以外の要素が強いことが明らかになっていった。
「年次別の戦死者数を公表している岩手県のデータなどから推計すると、軍人・軍属の87.6%は1944年1月以降に亡くなっていました。問題はその死に方です。戦争ですから、多くの人は戦闘で命を落としたと考えるでしょう。でも、日本軍は1944年以降、戦病死者が多く、ある中国の連隊の史料では戦病死者が戦没者に占める割合は73.5%にもなりました。実際に全戦没者で見れば、この数字より多い可能性が高いです。その戦病死の中身も、栄養失調による餓死、あるいは栄養失調の果てにマラリアに感染というケースが多い。餓死の比率は61%や37%などの説があり、確定はしていません。ですが、おおむね半数が餓死者だったと言っていいでしょう」