私の思いと技術的覚え書き

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沼津の近代史 その1 石油コンビナート計画の阻止

2019-01-05 | 沼津そして伊豆周辺
 私の好きな格言に「賢者は歴史に学ぶ、愚者は経験ぶ」という軍政家ビスマルクの言葉がある。今、もしくは未来の方向を判断する場合、歴史に学ぶことを忘れてはならないのでしょう。また、「歴史は繰り返す」とも良く云われますし、私の生きてきた僅かな期間の中でも、その言葉通りの現象は思い当たるところです。

 今、沼津市は「沼津駅を中心とした都市機能をより魅力的に生まれ変わる」として鉄道高架事業が、いよいよ用地買収も8割方終わり、進められようとしています。これには賛成もしくは反対、そして云って見ればどうでも良いという無関心派がいるのだと思います。そんな中の賛成派から聞こえてくる意見として、沼津は過去から何でも反対してきた。だから沼津の発展は遅れ没落したんだという意見が聞かれます。そんなことから、まずは沼津を取り巻く近代史として、今回の石油コンビナート阻止運動を、次回は新幹線沼津駅が実現しなかった問題を記録の意味で取り上げて見たいと思います。なお、この記述は三島市のHPなどより情報を入手し記すものです。

 昭和38年(1963)、工業整備特別地域に国から指定された東駿河湾地区に石油コンビナート建設が計画された。その計画概要としては、以下の様なもので、四日市を上回る規模の石油コンビナート建設がその内容だった。
・三島市中郷地区に富士石油が日産処理能力15万バーレル(1バーレル159リットル)の製油所を作る。
・その製油の供給を受け住友化学が清水町にエチレン年産10万トンをふくむ16品目の石油化学工場を設立する。
・東京電力が富士石油の重油で140万KWの火力発電所を沼津市の牛臥(うしぶせ)海岸埋立地に建設する。
 
 本計画は、38年12月、三島・沼津・清水の二市一町合併促進の連絡協議会の席上、静岡県企画調整部長から突然の様に電撃発表されたのだった。なお、この石油コンビナート計画概要の主な配置は図の通りです。

 先の電撃発表の翌日には三島市で住民による反対運動が起き始めた。沼津市としての反対運動は、牛臥山での火力発電所予定地の下香貫での大気汚染に懸念する声が高まり反対運動が始まる。1964年(昭和39年)2月には連合自治会会長が兼任する形で反対同盟が結成される。特に、御用邸を擁するほどの「天下に誇るべき住環境」を守る意識が強かったと言われる。

 1964年(昭和39年)5月には、三島市の反対運動により富士石油が計画離脱。沼津市の方も火力発電所計画が白紙。ところが、先の片浜愛鷹の工業団地計画に住友化学、富士石油が石油コンビナートを設置するとの動きを見せ、片浜地区でも反対運動が活発化する。

 同年9月16日に沼津市は計画撤回を表明し、更に市議会で反対決議が可決された。これにより、第二次石油コンビナート問題は完全決着した。
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 本計画は、ある意味東京圏に近いこの地にコンビナートを作るべきが、日本経済にとって誠に都合が良いという理由付けから出発した権力者による国策であったと思います。この住民反対運動に対するいくつかの論評を見るが、得てして権力者側は重要な政治戦略として賛成派多数を形成するため、経済的インセンティブを露骨に投入するということであり。一方、地域の豊かさは外部からの経済的誘因に対し一定の耐性を発揮すると分析していた。これを見ると、全国の原発だとか、産廃処理場などが、産業が少ない北陸だとか、福島県沿岸などに集中して立地されてきた理由が判ろうというものです。


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