私の思いと技術的覚え書き

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川治聖謨という幕末官僚

2019-11-21 | 沼津そして伊豆周辺
 川治聖謨(としあきら)という名は知っていたものの、果たしてどのような人物であるのか感心を抱いたのは、2週ほど前に沼津市戸田にある造船郷土資料博物館を再見学したときからなのです。生まれは豊後国(現大分県)の代官所の役人の息子だといいます。(生年1801/4/25)
 父親と江戸に出てから、下級藩士として出発。江戸幕府は現在の自由民主とか三権分立の概念はなく、勘定吟味役など官僚は、官僚としての職務遂行は当然のこと、その職域も裁判官から外交官そして金融行政までも担当することになるのだから凄い職域を持っていたことを改めて知ります。川治も、昇進に伴い、総合職として、佐渡奉行、奈良奉行、大阪東町奉行などの要職を務めると共に、全国各地の問題発生地などへの出張命令を受けています。それは、仙台、長崎、尾張、下田、戸田などとなるのでしょう。今なら転勤や出張でも、家財の運搬は簡単ですし、航空機や鉄道そして自動車などで、大した労苦もなく済むでしょう。例えば出張なら要件にもよるのでしょうが、最大でも数日から1週間という日程でしょう。ところが、当時の出張は、移動に一週以上を要す地も多く、江戸幕府本部との了解決済も今なら電話やその他電子専用線による通信で瞬時に済む問題が、早飛脚という昼夜中継して走り続ける文書通信で、決済の取付までの1回の応答の連絡に、1つで1週以上を要すなんてこともあった様です。ですから、出張期間も数ヶ月におよぶなんてことは希でもなかった様なのです。従って、有能官僚として頭の切れも要求されるのは当然のこととして、体力や気力という壮健さも相当に要求される中での、地位の向上であったと想像されます。

 さて、幕末はペリーの来航と共にロシアのプチャーチンの来航を受けて開港を迫られます。これに関し川治は、長崎や下田でプチャーチンと開港論争や北方領土の領有権の応酬対応を繰り返した様です。この交渉において、ロシア側でプチャーチンに同行していた秘書官のゴンチャロフは川路の容貌について、「年の頃45歳くらいの、大きな褐色の目をした聡明機敏な面構えの男」と評しています。また、ゴンチャロフは交渉における川路の知的な対応に対し、以下のような賞賛を送っています。「彼は私たち自身を反駁する巧妙な弁論を持って知性を閃かせたものの、なおこの人物を尊敬しないわけには行かなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが、全て良識と、機知と、炯眼と、練達を顕していた。」と。

 プチャーチンが乗ってきたディアナ号が下田で発生した地震と津波で損壊し、修復のため戸田へ回送する途上で富士市沖で難破し、陸路戸田へ辿りついたロシア船員500名と日本人船大工で僅か3ヶ月程でプチャーチンなど一部船員が帰国できる小型船(スクーナー)を作り上げます。この総指揮を執ったのも川治であったということです。

 なお、その新造船製作から数十年の時を経た明治20年、プチャーチンの娘(オリガ・プチャーチン)が戸田村を訪れ、父親から聞いていた戸田村の親切な対応についてお礼を述べたと云えられてますす。また、オリガは亡くなるに際し、戸田村へ幾ばくかの寄進を遺言しており、外務省を通し明治23年に果たされたといいます。また、昭和44年には当時のソ連大使より、造船郷土資料博物館の建造に際し、500万円の寄付を受けたという絵図が残されていました。

 また、先の大戦中にスパイゾルゲとして発覚し絞首刑が日本国で行われたゾルゲですが、ソ連およぶロシア大使が日本へ赴任した際には東京都郊外の多磨霊園にあるゾルゲの墓に参るのが慣行となっているそうです。こうしてみると、ロシアという国は、礼に厚い国民なのだと感じるところです。日本人で、東京裁判というムチャクチャな裁判でA級戦犯と決めつけられた7名が靖国合祀がどうのこうのとか、愛知県三ヶ根山にある殉国七士廟を弔問に訪れる日本人も僅かなものであろうし、未だにA級戦犯は本当に日本を壊滅させた張本人だったとマスゴミに思い込まされている者が多い国の国民としては、恥じるという感情が湧いて来てしまうところです。







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