司馬遼太郎と池波正太郎に思う(共に生誕100年の年)
表題の両名だが、既に鬼畜に入られて久しいが、共通することで、どちらも1923年(大正12年)生まれ、つまり、今年は両名の生誕100年となる。そんな意味もこめて、私の感じる両小説家に感じることを記してみたい。
実のところ、この両小説家の作品は、その総てとまではいえないと思うが、私の過去の年代別に集中的に読んでいた時期がある。それは、およそ30代~40代中頃までが司馬遼太郎作品を、それ以降から現在までを池波正太郎作品を読んで来たということがある。
何れにしてもこの両名、日本の小説家として高名であることは確かなことであろうが、日本の中で政治家、起業家、マスメディアの多くなど、どちらかと云えば権力者側に立つ人物は、司馬遼太郎作品を褒める事例が多くある様に感じる。これ何故かと考えるとき、私の経験でもそうだったのだが、司馬作品を読み続けると、小説なのだが、司馬史観という言葉があるが、あたかも実歴史であったという錯覚が生じて来ることがある様に感じる。
一方、池波正太郎作品も江戸時代辺りをバックグラウンドとして書いた小説が多いのだが、鬼平犯科帳、剣客商売、仕掛け人・藤枝梅安の3本はシリーズ化されているが、TVドラマ化や見たことないがコミック化もなされており、庶民人気としては大きなものがある。
それと、私自身が実績して来たことだが、多くの各小説の評者などが共通して述べるていることだが、池波作品の特に先に上げた3シリーズについては、何度も何度も読み返してしまうという特性を持つことがある。筋もなにもかも判っている小説を2度も3度も読み返して、何が面白いのかと、その魅力を知らぬ者は思うだろうが、これDVD映画でも作品に寄っては類似のことがあるのではないだろうか。あの作品の、このシーンを繰り返し見てしまう感覚、それに近い娯楽性を持つのが、池波作品ではないだろうか。
この感覚は、司馬作品にはまったくなかったもので、池波作品の文調とか構成が生み出している魅力の様だ。小説など物語を読む時、人は頭の中で、そのシーンをおぼろげながらも映像化していると思えるが、池波流の文体とか文調や構成が、その映像化もしくはイメージ化を容易にさせているのかも知れない。
このことは、最近はAI技術で顔認識だとかパターン認識という技術が発達してきているのだが、その逆でソースというかメタデータから、脳内でパターンを生成していると云うことなのかもしれない。しかも、そのパターンは、読者にとって小気味良いパターンであって、そのパターンの想起を望んでいる。これが、繰り返し読んで、面白さが絶えない魅力なのかもしれない。つまり、池波流の、文体とか文調は、小気味良いパターン生成を容易に生み出し易いエッセンス(コンピューター的にはアルゴリズム)を羅列しているのかもしれない。
表題の両名だが、既に鬼畜に入られて久しいが、共通することで、どちらも1923年(大正12年)生まれ、つまり、今年は両名の生誕100年となる。そんな意味もこめて、私の感じる両小説家に感じることを記してみたい。
実のところ、この両小説家の作品は、その総てとまではいえないと思うが、私の過去の年代別に集中的に読んでいた時期がある。それは、およそ30代~40代中頃までが司馬遼太郎作品を、それ以降から現在までを池波正太郎作品を読んで来たということがある。
何れにしてもこの両名、日本の小説家として高名であることは確かなことであろうが、日本の中で政治家、起業家、マスメディアの多くなど、どちらかと云えば権力者側に立つ人物は、司馬遼太郎作品を褒める事例が多くある様に感じる。これ何故かと考えるとき、私の経験でもそうだったのだが、司馬作品を読み続けると、小説なのだが、司馬史観という言葉があるが、あたかも実歴史であったという錯覚が生じて来ることがある様に感じる。
一方、池波正太郎作品も江戸時代辺りをバックグラウンドとして書いた小説が多いのだが、鬼平犯科帳、剣客商売、仕掛け人・藤枝梅安の3本はシリーズ化されているが、TVドラマ化や見たことないがコミック化もなされており、庶民人気としては大きなものがある。
それと、私自身が実績して来たことだが、多くの各小説の評者などが共通して述べるていることだが、池波作品の特に先に上げた3シリーズについては、何度も何度も読み返してしまうという特性を持つことがある。筋もなにもかも判っている小説を2度も3度も読み返して、何が面白いのかと、その魅力を知らぬ者は思うだろうが、これDVD映画でも作品に寄っては類似のことがあるのではないだろうか。あの作品の、このシーンを繰り返し見てしまう感覚、それに近い娯楽性を持つのが、池波作品ではないだろうか。
この感覚は、司馬作品にはまったくなかったもので、池波作品の文調とか構成が生み出している魅力の様だ。小説など物語を読む時、人は頭の中で、そのシーンをおぼろげながらも映像化していると思えるが、池波流の文体とか文調や構成が、その映像化もしくはイメージ化を容易にさせているのかも知れない。
このことは、最近はAI技術で顔認識だとかパターン認識という技術が発達してきているのだが、その逆でソースというかメタデータから、脳内でパターンを生成していると云うことなのかもしれない。しかも、そのパターンは、読者にとって小気味良いパターンであって、そのパターンの想起を望んでいる。これが、繰り返し読んで、面白さが絶えない魅力なのかもしれない。つまり、池波流の、文体とか文調は、小気味良いパターン生成を容易に生み出し易いエッセンス(コンピューター的にはアルゴリズム)を羅列しているのかもしれない。