私の思いと技術的覚え書き

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チェルノブイリと福島

2016-03-09 | コラム
 間もなく(11日)、福島原発事故(東電福島第一)から丸5年を経過する。そして、次月(4月26日)には、チェルノブイリ原発事故から31年目を迎える。31年前を振り返ると、原発学者の言う(原始的ともいうべき)黒鉛炉であったからとか、杜撰な管理体制であったとの評価に、我が国は安心なんて気をなだめ、独裁国家のことだからと考えていた。しかし、この地震立国といわれる地で、予想されない未曾有の大津波だというが、本当に脆くも原子炉4機中の3機までが炉心溶融を起こすというチェルノブイリを越える核事故が生じた。

 この福島の5年を振り返って見ると、呆れ、怯え、嘆かざるを得ない。それは、民主主義国家として、頭の中で描いてきた姿と掛け離れた世界だ。政府、自治体、そして(一部を除いて)大手の報道機関が、不作為や積極的な情報公開の姿勢が欠落しているなど、真実をなるべく過小評価させることに奔走している姿が垣間見えてきた。そして、被災地民も、ことある毎に「我が地は安全だ」、「風評被害だ」と、自ら評価を下げるべき方向に運動しているのだ。

 それらの一つとして20msv(ミリシーベルト)問題がある。これは法律の年間被曝線量は1msvと決められていたのだが、今回の原発事故で(やむおえずというところなのだろうが)、一般国民の納得を得ぬまま、原発被災地は20msvを摘要してしまっている。記憶のことで間違いかもしれないが、20msvとは原発作業者など、業に関わる者のやむない数値であったはず。実際1msvのまま適用したら、もっともっと非難地域が拡大して、自治体が崩壊するとか問題は続出するのだろが、道徳的にも生命の尊重が最優先されるべきは当然で、別の次元の話とも思える。

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