結構に昔、「気配りのすすめ」という本があり読んだ記憶が微かにありますが、細かい内容は忘れました。(NHKアナの鈴木健二著)ところで、総ての人間関係において気配りが大切なことは云うまでもないことです。この気配りによって、人間関係が円滑に繋がって行くものであり、友人関係や男女関係、ビジネスパーソンとの関係も、上手く行くものです。ここ一番の気配りが受け手に大きな感動を生み出し、極めて大きな信頼関係を生み出す端緒となる場合もあるのです。
この気配りですが、相手の立場になってものごとを考えて見るという、思いやりの心が大切であるのは間違いありません。これを忘れたり無視したり思い至らなかった結果として、受け手に理不尽なという思いや怒りの感情を生じさせ、思わぬ反発を受ける場合があることは、私ばかりではなく皆様にも経験があることなのではないでしょうか。
ところで、この相手の立場になって考えて見るという思いやりの心ですが、簡単なことの様ですが、意外にできない場合も多いものです。これは、自分が常識だと思っていることであっても、受け手に取って常識でないことも多くあるでしょう。また、その際の受け手の心理状況等も考えなければならないのは当然です。大怪我を負い今そこに生命の危機が生じている親族に対し、過失割合の話しを行うことが如何に不適切なことであるのかは誰でも判ることです。しかし、程度は違えど、類似の問題を生じさせている局面が結構にあるのです。例えば、人身負傷のことを何ら気遣わず修理費費用や過失割合の問題を持ち出したり、工場の意向を一切と問うことなしに自己見積を提示したりということは、案外気づかずに行ってしまう場合があります。
もう一つの大切なこととして、気配りや相手を思いやる心を持つためには、自らの心に適度な余裕がなければならないということです。大切な要件や、利害関係が相反する打合せ等の場合は、ある程度緊張してことに臨み相手の反応の一言にも気を配る必要がありますが、緊張し過ぎたり他の仕事のこと等で心に余裕がないと、その様な目配りや配慮が出来ないと云うことです。これは、スポーツであれ大舞台であれ同様のことで、緊張し過ぎで硬くなってしまっては、決して良い結果を生み出すことは出来ません。
追記
私共の接する相手は、希な例外を除いて私共に気配りなんかはしてくれません。しかし、この様なことに怒っていては、まともな交渉にはなりません。どんなに理不尽な気配り無視の投げ掛けであっても、冷静に気配りした応答を返し、以後の交渉を正常化させて行きたいものです。
なお、この気配りは常に制御されたものでありたいと念じます。私も含め意地悪い方の中には、故意に相手の立場を無視して問題を投げ掛ける場合があります。私自身がこの様な対応を受けた場合、以後のその方への対応は2つに分かれます。一つは、反発して思いっ切り気配り無視の対応を投げ返すものです。そして、もう一つは、必要以上に気配りをした対応をデモンストレーションして、相手に負い目を生じさせ、以後の相手からの気配り無視を生じさせない様にしていまうというものです。
追記2
本年7月29日に勃発した事件(私自身の問題)ですが、私に気配りが不足していたということはあるのでしょう。しかし、ものごとに何らかの問題があれば、それへの意見を提議することは許されることであるはずです。組織が何ら意見を受け付けないものだとすれば、その様な組織体は腐蝕が進行していく宿命と感じます。
それと、私自身の過去24年間の組織での活動から思うのですが、何らかの問題を生じた場合、それなりに力量ある人物が表れ、話し合いによる解決がなされて来ました。しかし、昨年11月の私への暴言事件以来、その様な話し合いという機会はほとんどなく、組織が一方的に決めつける対応を受け続け、今回の事件に至っていますが大変残念なことと感じます。