私の思いと技術的覚え書き

歴史小説、映画、乗り物系全般、事故の分析好きのエンジニアの放言ブログです。

なぜリーダーは失敗を認められないのか Episode 1/2

2011-05-08 | コラム
 掲題の本のことについては、先日記したところですが、興味ある10例ほどの大企業経営者達の、余りにもバカバカしく呆れる様な現実のエピソードが例示されています。この内、私が興味を感じたエピソード2例があります。今回は1例目としてフォード社での実例を記してみます。
 フォード社の創業者、ヘンリー・フォード(一世)は、革新的な生産技術などによって、安価で庶民が買える Model-T を生みだしました。これにより、米国に広く車社会を実現することができたのでした。
 フォード Model-T は、19年間という長きに渡り、ほぼ仕様の変更なく作り続けられ、その総販売台数は1,545万台余におよぶ大ヒット作となったと云います。
 ちなみに、この1,545万台という台数は市場第2位であり、第1位は日本のカローラとなるそうです。しかし、時代が相当に異なり、フォードは正に米国のモーターリゼーションを創業したのでした。ですから Model-T が登場した時点においては、正に革新的な名車と呼べるクルマであり、広く社会に拡散・浸透していったのでした。
 しかし、モーターリゼーションが進行するに従い、人々が指向する次のクルマは、当初の Model-T とは異なって行ったのでした。その一つが、ボデーカラーです。Model-T は、当時の塗料などの制限もあったのだと想像されますが、乾燥の早い塗色として黒しかなかったそうです。人々は、その嗜好などにより、他の色を求め始めていたのです。そして、ボデースタイルや装備など、もっと優雅で豪華なものを嗜好し始めていたのでした。
 このユーザー指向の変化を捕まえたのが、GMであり、Model-T より多少割高でも、その様な、好みの色やボデースタイル、装備などを求め、Model-T の販売量は頭打ちになると共に、さらに市場は拡大して行ったのでした。
 このことは、ヘンリー・フォードが自らの社長室の窓から、通りを走るクルマを見れば一目瞭然のことだったことです。その様な中、社の前途を憂いヘンリー・フォードに意見具申した幹部は、解雇されてしまったのでした。
 この様に、他所から見れば誰でも判る現実を、時として否認してしまう、つまりハダカの大様状態になるのが人間の愚かなところだと感じます。
 この話を読んだ時、思いだされたのがレベルとしては低いかも知れませんが、ホンダ技研の空冷エンジンから水冷エンジンへの切り替えへの出来事のことです。
 本田社長は、根っからの技術者であり、「水冷も熱交換器を通して、最終的は空冷なんだ。だから、空冷の方が理想なんだ!」の様な意味あいを述べて、部下の意見を聞こうとはしなかったそうです。その様な中、技術研究所の若い技術者達の情熱ある具申を受け、本田社長と対峙したのが盟友たる副社長の藤沢武夫氏だったのです。藤沢氏は本田氏に対し、具申を受け、水冷が正しい道と理解したことに加え、こう述べたそうです。「あなたは本田技研の社長としての道を取るのですか、それとも技術者としての道を取るのですか?」と。
 この本田技研のエピソードは、日本の最後発で最小の自動車メーカーが、現在第3位メーカーにまで至っている訳(実質は日産はルノーに買収済みですから2位といえます)ですが、空冷のまま突き進んでいたら、どうなったかを示すものと思います。しかし、それも盟友としての信頼関係があったればこそ、本田社長が受け入れた出来事と思えます。



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