私の思いと技術的覚え書き

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アジャスター試験と制度の歴史に思うこと

2008-12-17 | 車と乗り物、販売・整備・板金・保険

 アジャスターの資格制度は、ご存じの通り、見習、初級、3級、2級があって、1級は制度として予定されるが、未だ行われたことがないというものです。

 昔のアジャスター制度の設立以前の調査人時代には、鑑定人という資格(保険料率算定会資格)というのがあって、数少ない鑑定人(その後、旧鑑定人等と呼ばれた)が存在したのでした。この鑑定人の資格は、大変難しい狭き門であった様に聞いております。そんな訳で、各損保は増加する自動車保険に対応すべく調査人を採用する時代となって来たのでした。

 そんな鑑定人の時代、自研センターも未だ設立以前のことでしたが、鑑定人の養成・教育施設として、岩崎自動車(東京幡ヶ谷)さんが存在していたのでした。この岩崎自動車さんは、現在でも存在する様ですが、当時は、ここに鑑定人や調査人達が集い、自らの技術の研鑽に励んでいたのでした。

 1975年(昭和50年)に、アジャスター制度が創設されると共に自研センターが設立されたのでした。アジャスターでも知らない方が多いと思いますので記しますが、そもそもこの自研センターという機関は、損保業界大手のT社の独自の調査人研修センターとして企画設立が進められていたのでした。しかし、当業界らしい護送船団としての動きの中で、損保業界と共同事業として、自研センターの設立とアジャスター制度の創設という動きとなったのでした。ところで、現在でも自研センターの敷地や建物等総ての所有権はT社が持ち、借地借家料を、自研センターはT社に支払ってるのです。

 自研センター設立時に既に調査人であった者は、会社別に自研センター研修を受講したものだといいます。そして、アジャスター試験を3級から初受検することになったのでした。なお、旧鑑定人は2級からの初受検という得点が与えられたのです。

 さて、アジャスター試験の変遷について記してみます。私は昭和59年のアジャスター登録ですが、この年辺りまでは、アジャスター試験は年2回行われていたと思います。また、試験内容は、筆記試験と見積試験の2分類は変わりませんが、当時の見積試験は2つに分かれていました。つまり、現在と同様の添削方式の設問と、一切の全見積を手書きするという設問の2つでした。また、現在は、見積試験の対象車種が3車種位に制限されていますが、当時は一切の車種の公表はなかったものでした。但し、現在より販売車種が少なかったという違いはあったのだと思います。

 ところで、不承な私ですが、3級および2級試験共、何ら問題もなく通って来ましたが、正直いって2級試験の受験時には参ったという思い出があります。その理由は、私は当時本社に所属し、2級受検対象者に研修を行っていたのですから、自信過剰な私はよもや落ちるとは思いもしませんでしたが、得点で他の社内受験者に負けたら困ったもんだという思いが生じていたのでした。そんな気苦労をしましたが、僅か2点位だったと思いますが、社内得点でトップとなりほっとしたことを思い出します。

 最後に、アジャスター資格への私の思いを記します。このアジャスター資格というのは、所詮は業界内の自主資格であるのだということです。つまり整備士等の国家が定める公的な資格ではないのだという所に残念な思いを持つのです。なお、整備士であろうが、医師や弁護士でもそうですが、資格と実力は別のものです。だから、2級に合格したから最高だなんて思いは下らないものだと思います。しかし、下らない資格ではあっても、そこで飯を食う者は、最上位を目指すのは当然であって、その努力を行わない者は、プロ失格だと断じるのです。




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