【書評】 百万円煎餅
この書評だが、本の装丁としては副題として「日本文学100年の名作第5集」と付してある新潮文庫なのだが、年度別に著者を選んだ短篇集の如き本だ。この本を借り出す動機になったのは、「百万円煎餅」(せんべい)という三島由紀夫著(文庫で30ページ弱)の極短編があることを知ったからなのであって、真っ先に読んだのだ。そのストーリー概略は、下記に記す通りだが、正直のところ三島由紀夫作品に執着するところはないし、過去に幾らか読んで来たし、その論評などに意見を感じるのだが、この著者の作品を珍重しようと云う思いはさらさらない。
この短篇集の目次の部分を見ると、1960年が件の「百万円煎餅」なのだが、目に付くところでは1958年に「寝台の舟」(吉行淳之介)とか、1959年に「その木戸を通って」(山本周五郎)などその他、幾名かの名前に聴き覚えある作家が名を連ねており、件の「百万円」の後に読んでいるのだが、読者としての嗜好が大きいのだろうが、読後感としてはやはり山本周五郎の作品が、心に残るものを感じる。吉行のは、やはりなというという感じだろうか。
さて、「百万円煎餅」だが、どちらかと云えば重いテーマを感じる三島作品だが、そうとう以前に最初に読み記憶に残るのは「潮騒」という純愛小説なのだが、これは三島作品でも初期の作品で、映画化もされているので、ご存じの方も多いだろう。この「百万円」も、Net上でそんなジャンルの小説を三島があるのかを知り好奇心から読んだ次第なのだ。
詳細は記さないが、ストーリーとしては、極慎ましい若い夫婦が描かれている。男性は、知的な洒落者というより、ランニングシャツを着る、ホワイトカラーの労働者というよりブルーカラーの典型的な良人として描かれている。そして、そこには男女のささやかな愛情があり、しかも1960年という高度成長期の、テレビ、冷蔵庫、洗濯機などの機器を整える夢を語り合う会話が交わされるのだった。しかも、ローンなどで即座に整えるのではなく、堅実に貯蓄しつつ計画的に整えて行こうという会話が交わされ、至って健全な若い夫婦の姿が描かれる。
そんな二人が、待ち合わせして、中年のおばさんと夕刻落ち合い、案内されるのは場所も不明な、有閑マダムが集う会場だったというところで、物語は一変するというストーリーだ。その会場での様子は一切描写はなされていないが、深夜に近く帰宅しつつある良人たる夫は「イヤな婆アばかりだったな」、「奴ら亭主からくすねた金で遊び放題やってるんだ」などと嘆く。妻は「でも、しょうがないわ。祝儀もそれなりにもらったんだから」ととりなす。夫は「幾ら何だ?」と問うが、妻は「これだけ」とハンドバックから取り出すのは5千円程だ。それまで描写された、映画の料金とかジュースの料金、日頃の売価から、現代の貨幣価値だと優に10倍を超えるだろうと読者には読み取れる。なお、百万円煎餅という原題のいわれは、ストーリーの本質には関係ないので省略する。
これを読み、現代なら性表現というか夫婦でも恋人の間という関係であっても、それを商売化するなんてことは幾らでもありそうに思えるが、その場合の生活は必然として自堕落なものになりそうだ。この小説のストーリー展開における落差感というのは、そういう商売をしながら、未来を夢みて堅実な生活を送っている夫婦が、実はこういう裏商売を行っているという面白さなのだ。
私が云う権利もないし、そもそも云ってもムダだとは思うが、暇さえあればスマホゲームとかパチンコに興じているなら、幾らかはこういう情報で好奇心を生じて本読む行為を生起してもらえればと思う。
この書評だが、本の装丁としては副題として「日本文学100年の名作第5集」と付してある新潮文庫なのだが、年度別に著者を選んだ短篇集の如き本だ。この本を借り出す動機になったのは、「百万円煎餅」(せんべい)という三島由紀夫著(文庫で30ページ弱)の極短編があることを知ったからなのであって、真っ先に読んだのだ。そのストーリー概略は、下記に記す通りだが、正直のところ三島由紀夫作品に執着するところはないし、過去に幾らか読んで来たし、その論評などに意見を感じるのだが、この著者の作品を珍重しようと云う思いはさらさらない。
この短篇集の目次の部分を見ると、1960年が件の「百万円煎餅」なのだが、目に付くところでは1958年に「寝台の舟」(吉行淳之介)とか、1959年に「その木戸を通って」(山本周五郎)などその他、幾名かの名前に聴き覚えある作家が名を連ねており、件の「百万円」の後に読んでいるのだが、読者としての嗜好が大きいのだろうが、読後感としてはやはり山本周五郎の作品が、心に残るものを感じる。吉行のは、やはりなというという感じだろうか。
さて、「百万円煎餅」だが、どちらかと云えば重いテーマを感じる三島作品だが、そうとう以前に最初に読み記憶に残るのは「潮騒」という純愛小説なのだが、これは三島作品でも初期の作品で、映画化もされているので、ご存じの方も多いだろう。この「百万円」も、Net上でそんなジャンルの小説を三島があるのかを知り好奇心から読んだ次第なのだ。
詳細は記さないが、ストーリーとしては、極慎ましい若い夫婦が描かれている。男性は、知的な洒落者というより、ランニングシャツを着る、ホワイトカラーの労働者というよりブルーカラーの典型的な良人として描かれている。そして、そこには男女のささやかな愛情があり、しかも1960年という高度成長期の、テレビ、冷蔵庫、洗濯機などの機器を整える夢を語り合う会話が交わされるのだった。しかも、ローンなどで即座に整えるのではなく、堅実に貯蓄しつつ計画的に整えて行こうという会話が交わされ、至って健全な若い夫婦の姿が描かれる。
そんな二人が、待ち合わせして、中年のおばさんと夕刻落ち合い、案内されるのは場所も不明な、有閑マダムが集う会場だったというところで、物語は一変するというストーリーだ。その会場での様子は一切描写はなされていないが、深夜に近く帰宅しつつある良人たる夫は「イヤな婆アばかりだったな」、「奴ら亭主からくすねた金で遊び放題やってるんだ」などと嘆く。妻は「でも、しょうがないわ。祝儀もそれなりにもらったんだから」ととりなす。夫は「幾ら何だ?」と問うが、妻は「これだけ」とハンドバックから取り出すのは5千円程だ。それまで描写された、映画の料金とかジュースの料金、日頃の売価から、現代の貨幣価値だと優に10倍を超えるだろうと読者には読み取れる。なお、百万円煎餅という原題のいわれは、ストーリーの本質には関係ないので省略する。
これを読み、現代なら性表現というか夫婦でも恋人の間という関係であっても、それを商売化するなんてことは幾らでもありそうに思えるが、その場合の生活は必然として自堕落なものになりそうだ。この小説のストーリー展開における落差感というのは、そういう商売をしながら、未来を夢みて堅実な生活を送っている夫婦が、実はこういう裏商売を行っているという面白さなのだ。
私が云う権利もないし、そもそも云ってもムダだとは思うが、暇さえあればスマホゲームとかパチンコに興じているなら、幾らかはこういう情報で好奇心を生じて本読む行為を生起してもらえればと思う。