江戸時代に定められた社会のヒエラルキーとして、士農工商があります。しかし、実態としてのヒエラルキーは、商士工農だったことが、歴史小説やドラマ等で描かれまていす。このことは、ドラマ1シーンとして、豪商が代官に対し「お代官様、これにてお願いします」と袖の下となる金子を差し出し、受け取った悪代官が「越後屋おぬしも悪よのう」という場面に代表されることでも伺えます。
さて、現代における商とは、銀行や保険会社や証券会社、そして超大規模商店等となるのでしょう。そして、士とは官僚や政治家ということになります。
工は、工業もしくは何らかの製造業を指しますが、大規模な企業程に、商としての要素を強めていることに気が付きます。例えば、国産車の世界で、トヨタと日産の2つの会社を比べて見れば、そのことが如実に判ります。初代カローラの大ヒットにより、トヨタは躍進するのですが、その当時から80点主義等と云うことが喧伝されていました。それは「多用なユーザーの希望を総て叶えることは不可能だし、購買意欲を呼び込むためにはコスト(販売価格)を意識せざるを得ず、多くのユーザーの嗜好にもあうために80点を目指したのだ」という様な思想であったのだと思います。爾来、販売のトヨタ、技術の日産等と云われつつ、日産はトヨタに企業業績を引き離され続け、とうとうルノー等と云う自らより小さな国外メーカーに経営権を売り渡さざるを得ない事態となったのでした。
この様な、現代社会のヒエラルキーとして、米国での場合を考えて見ますと、商士農工かなと想像します。商士の関係は日本と同様ですが、農工の関係は日本と逆になっています。これは、アメリカは、日本以上にモノを作り出すことを捨て去ったからであり、農としては大幅に商を取り込んだカーギル等のグレイン・メジャーが存在することから思う訳です。
ところで、自らの立場を含め私の愛する職人との関係として記して見ます。私は保険会社に関係しますが、アジャスターとはクルマの修理費用を検証する、いわば技術専門屋であり、その指向の根幹はクルマの整備工場と同様なものだと思います。そんな、アジャスターから主に町工場を眺めた時、お客さんを意識しない工場が、未だ多いなと感じざるを得ません。これは、小規模で零細な町工場程、その気風が強い様に感じられます。
板金塗装工場に入庫する事故車の70%近くは、何らか保険会社に関係すると云われている訳ですが、保険会社をお客と思わない工場が、最近は少なくなりましたが未だ多いものです。
修理工場も含め小売り自営業の方々は、金持ちのユーザーが金を支払う段になると如何にケチであるかを実感していると思います。その様なケチな金持ちは、幾ら情熱を持って料金の正当性を説明しようとも認めやしません。それに比べれば、保険会社はまず金を持っていますし、その正当性さえ納得させれば、払うし払わざるを得ないのです。
以上、下らない思いを記して来ましたが、町工場はもう少し商人にならなければ生き残っていけないと感じます。但し、私は商人が嫌いですし、同じ様に商人が嫌いな町工場の職人方々も多いものだと思います。そんな、愚直な職人が私の一番愛する方々だと思うし、その様な職人に少しでも報いたいと思う訳です。
追記
これは私の愛知県在住(単身赴任)時代でのことですが、尾張地域のある修理工場を訪問した際のことです。
工場前に5台位の駐車スペースが区切られていたるのですが、その一番入り口の最も入れやすい位置のスペースが緑色に目立つ様に塗り分けられ、しかも「アジャスター様駐車場」と白い大文字で記されていました。私は「これはやばい工場だなあ」(笑)と思いつつ、駐車スペースの一番入れ難い位置にクルマを止め、その工場を訪問したのでした。