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河野洋平の良識を再評価する

2021-11-23 | コラム
河野洋平の良識を再評価する
 河野洋平(あの目立ちたがり屋たる太郎の父)というと、必要以上に韓国、中国などアジア諸国に土下座外交をし、明らかに侵略行為をしたという「河野談話」を記した政治家という印象から、国賊的な見方をなされる場合が多い。

 しかし、この記事を読むと、あの8年も続いた右寄り政治の安倍晋三氏の憲法改正は、自民結党以来の党是は間違いだと明確に否定するところは、流石に良識というものを持つ政治家という感を抱くものだ。

 安倍晋三氏に限らず、戦前の日本が大東亜共栄圏なる好走を持ち、あたかも善意だけで、アジア諸国の幸福を追求していたかの様な言説を誠しやかに訴え、大日本帝国肯定論を述べる論者は多い訳だが、そこまでの善意が日本にあったかとなると誠に疑問だ。

 敗戦後、米国の一方的な断罪が下された訳で、それは実態として今でも米国隷下の日本と云う支配体制が継続されており、そこには極めて不快の念を持つところだが、安倍晋三氏の様に、憲法改正を訴えるのは必ずしも否定はしないが、その中身を見ると、国民主権を制限し国家統制を強める改正内容が盛り込まれれている内容を知ると、一概に賛成できようもないと思う次第だ。

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安倍前首相の「改憲は立党以来の党是」は完全に間違い
11/23(火) 9:12配信 ニュースソクラ
 河野洋平さんと知り合ったのは、河野さんが自民党を離党して「新自由クラブ」をつくったときだから、40年以上になる。河野さんを紹介してくれたのは、故人になってしまったが劇団四季の浅利慶太さんだった。浅利さんは四季を日本一のミュージカル劇団にした人だが、政界にも多くの人脈があった。

 その浅利さんが、「間違いなくこれからの日本のリーダーになる人だ」と引き合わせてくれた。私は初対面で魅せられた。以来、新自由クラブの人たちと交流を重ね、政治の裏側も覗かせてもらった。

 後年、自民党に復党した河野さんと浅利さんと会食した際、浅利さんが「元木君と僕とで河野さんを総理にする会を立ち上げよう」といい出した。たった2人だけの会だったが、河野さんの活躍を陰ながら応援した。

 宮沢総理誕生の立役者の一人、従軍慰安婦問題についての河野談話、自社さ連立政権をつくり村山政権を誕生させるなど、後世に残る功績を残し、衆議院議長を務め、政界を引退した。

 今回、戦後政治史の中で、ご自身が関わった重要な時期の話を聞かせていただけないかと申し入れ、快く受けていただいた。

 河野さんが話されたことは、どれも重要であることはもちろんのこと、これからも日本人が決して忘れてはいけないことばかりである。若い人たちにこそ読んでもらいたいと思う。

     

元木 1975年に自民党の新しい綱領づくりに携わりますね。当選3回で、新綱領の草案をつくるという大役を任せられますが、大変だったと思います。

河野 丁度自民党の結党20周年の年だったんです。それで何かやろうということになった。三木武夫内閣のときですね。松野頼三政調会長に呼ばれて、自民党の綱領を改正するから、そのたたき台を起草する小委員会の座長になれといわれたんです。

 その前に石田博英さん(元労働大臣)が中央公論(1963年)に論文を発表して、このままいくと自民党の支持基盤が段々減っていく。つまり、ホワイトカラーが増えてきて、一次産業から二次産業にどんどん変わっていくから、このままの自民党の政策綱領では支持基盤が増えないので、政権交代、社会党政権が誕生するかもしれない。

 だからもっと支持基盤を増やすために、政策綱領を見直さなくてはいけないと石田さんが書かれていたことも背景にあったんです。

 それで、松野政調会長が綱領の改正をやろうといい出したのですが、石田さんとか松野さんとか、当時とすれば進歩的でリベラルな政治家もいたんですが、自民党はそうでない人たちがマジョリティだったからね。

 石田さんに僕は可愛がられていて、石田委員会という勉強会があって、それに僕も参加していていたから、新しい政策の議論なんかを僕も聞いていたんですね。

 そんなことが下地にあって、石田論文をたたき台にして新しい政策綱領を作ろうとなったんです。

元木:そのときは綱領のどこをどう変えろという具体的な指示はあったんですか?

河野:なかったね。とにかく全部君が考えてやってくれ、最後に俺に持って来てくれればいいからとだけ。松野さんにそう言われても、最初は「到底できません。3年生議員の分際で叱られるから勘弁してください」と断ったんです。

 すると松野さんが「もとはお前の親父たちが作ったんだから、お前がやってもちっとも構わん」といわれてね。固辞していたんだけど、多少は自分の頭の中にも、その石田委員会のことがあるものだから、自信はなかったけど、党是として非核三原則を掲げたい、改憲についての表現をやわらげようという考えがあったものだから、引き受けてしまったんだ。

 それでも気になるから、小委員会を開催する前に、松野さんと宮沢喜一さんのところに、「ご注意があれば聞かせてください」と行ったの。

 いろいろ言われたんだけど、憲法についてはどうすればいいでしょうかと聞いたら、宮沢さんは「触るな触るな」と。

 松野さんは、「どうしてもやる気なら、皆と話したらいい」というから、「ちなみに松野先生ならどうしますか」と聞いたら、「まあ、今の憲法は国民に定着しているから変える必要はないと思うが、やるとしたら、『いまの憲法でいいですか』と再確認する国民投票をやればいい。俺はそんなことでいいと思っている」というんだ。

 だけど、そういったら大騒ぎになるから、なるべく触るまいと思って、小委員会に臨んだんです。

 僕はそこで、石田委員会の中でいわれていた非核三原則、これは自民党の内閣総理大臣(1967年12月11日に佐藤栄作総理が衆議院予算委員会で答弁)が国会でいったのだから、入れてもおかしくはないと思ったんです。

 そこで非核三原則を盛り込んだんです。非核三原則と平和主義は前のほうにして、憲法には触らない、一切書かなかった。

元木 正式メンバーには異論なく了承されたそうですね。

河野 政綱改正起草委員会にこの案を提出しようとしたんだけれど、この内容を聞き込んだ青嵐会(石原慎太郎衆院議員〈当時〉が命名した衆参両院の若手議員31名からなるグループ。結成時に石原氏の提案で会員名簿に血判状を捺した。趣意書には「自主独立の憲法を制定する」とある)の人たちが大変な剣幕で乗り込んできて、すごく怒られた。何回出しても全然ダメで、委員会のたびに青嵐会から、「お前がそもそも自民党にいるのが間違ってる。お前みたいなのは出ていけ」と大声で罵詈雑言を浴びせられた。

元木 ひどい話ですね。

河野 そこで僕は、辞表を松野政調会長に提出して、その私案を自民党の全議員たちに送付したんです。

 タカ派で知られていた瀬戸山三男さんから「君の意見は妥当だ。支持する」という手紙をもらって嬉しかったけど、まあ、その時に、自ら変われない自民党への幻滅を感じたし、俺はここに居場所はないなと感じたね。

元木 その後、田中角栄前総理のロッキード事件が起きたりしたこともあって、自民党を離党して新自由クラブをつくることになります。今の話を聞いていて思ったのですが、安倍晋三前総理が在任中に、「改憲というのは自民党立党当時からの党是だ」と何度も口にしましたが、あれは明らかに間違いですね。

河野 あれは間違ってる。どういうわけかよくわからないけれども、立党以来一貫した党是、党是と安倍さんはよくいったが、憲法問題については、立党20年の時に僕の案はぐじゃぐじゃになってしまって、議論しようといってもお茶を濁されて、そのままになってしまった。
 
 それで、私が総裁になった時期に、もう一回、綱領の直しをやろうと考えて、見直しの委員長を後藤田正晴さん(元副総理)に頼んだんです。

 後藤田さんが引き受けてくれて、自民党の基本問題を議論するという調査会ができた。後藤田という人は上手にやってくれて、新綱領に憲法については広く議論をするとだけ入れたんです。

 私が総裁で、後藤田さんは議員総会でその報告もして、認められているから、そこで自民党の綱領が変わったんです。それが、その後また変えたんですよ。それはしょうがないけど、立党以来というのは間違っている。

 つまり自由民主党という政党は、自由党と民主党が保守合同で一つになった党なんです。吉田茂は自由党で護憲政党だったし、鳩山民主党は改憲政党。というのは、鳩山民主党というのはGHQから公職追放された人たちが主力だったから。

元木 そうですね。鳩山さんを始め、岸信介、河野一郎、三木武吉、石橋湛山という人たちでしたからね。

河野 終戦直後に、戦前の議員はほとんど追放されたんだ。それが1951年のサンフランシスコ講和条約直前に追放が解除されて、1952年の総選挙で政界復帰を果たした人たちが鳩山さんを担いだ。戦後の1950年にできたのが吉田自由党で、アメリカが作った憲法でいいじゃないかという考えだった。

 鳩山民主党は戦前を懐かしむ人たちで、「この憲法はおかしい」といっていた。僕のオヤジ(河野一郎元農林大臣)もそっちにいたんだけど(笑)。

 その二つの政党を一つにしているから、改憲派もいたけど、護憲派も相当いたから改憲政党になるはずがない。
   ◇   ◇   ◇
 今回から週刊現代の名物編集長だった元木昌彦氏に現代を切り取るインタビューの連載をお願いしました。
■元木 昌彦(ジャーナリスト)
早大商卒、1970年講談社。90年FRIDAY編集長、92-97年週刊現代編集長として創刊以来最大部数に。『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(2020年4月現代書館)など多数。


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