図書館から借り出した「栄光への5000キロ」をかなり端折って読み終えた。
この本は、後に石原プロでも映画化され、当時非常に脚光を浴びたそうだが、現代のニッサン自動車を取り巻く環境からは考えられない正にニッサン自動車黄金時代の事象を表す物語りだ。
本の執筆者は「笠原剛三」氏で、東大機械科を卒業して、軍関係の研究開発に5年ほど従事、その後に敗戦を迎えて、S21年にニッサン自動車の実験部に配属されたという人物だ。
ニッサンが国際ラリーにファクトリーとして出場を決めたのは、1966年頃のことだった様だ。未だ、日本車の海外輸出はほとんどなされておらず、果たして日本車の実力がどれほどのものかかが、当時のニッサン本社でも検討される時代にあったそうだ。その頃、世界的には国際カーとしてはVWビートルなどが注目されており、多くがドイツから米国へ輸出がなされていたそうだ。そんな中、VWビートルを仕入れて、社内で徹底的な性能比較を行ってはどうかという意見も出たらしい。これに対し笠原氏は、それも悪くはないが、同一環境、同一条件の競技に出場することで、もっと現実に密着したデータが得られる。ついては、国際ラリーに出場を目指すべきだと提言したという。
ということで、当時のニッサンではブルーバードの311およびセドリックの2台をエントリーさせることにしたという。未だ、ニッサン自体の企業規模も小さく、莫大な予算を組む訳にも行かず、社内で設計開発および製造部などから4名を選手として選任し、当初のエントリーを開始したという。
目指した国際ラリーは、モンテカルロラリーとサファリラリーの2つだが、この本では成績も残せたサファリラリーのことに重きを置いて執筆されている。
エントリー初年は、ブルーバード311だが、前輪も未だ平行板バネリジットアクスルの時代だ。初エントリーでは大した成績も残せなかったが、セドリックがかなり着順は後位ながら完走をを果たしたという。
2年目からは、フルモデルチェンジした410ブルーバードで、エンジン排気量も1300ccにアップし、前輪も独立懸架サスペンションとなった。サファリ特有のノウハウも掴みつつ、クラス優勝を果たすことが出来たという。
この様な感じでちょうど10年間の海外ラリー出場を続けた訳だが、その間にブルバードも510にモデルチェンジして出場。対向するフォードが平均速度をあえて上げるためのコース変更を画策したことを知り、平行してGTクラスにフェアレディ240Z(S30)を投入となった。この様にして、サファリ出場の10年の最終には、サファリについては、最終的に総合優勝を連続2回、クラス優勝もほぼ常にという成績を残すことになった。
この本で知るサファリラリーは、その年により雨量の変化などにより、平均速度などが大きく変わるが、おおむね平均速度は100km/hということは、ほとんど150km/h近くで飛ばさなければならない。条件さえ良ければ200km/h近くのフルスロットルという場面もしばしばある。このラリーはエントリー数がおおむね80台だとして、完走するのが20台以下と、正にカーブレイクラリーと呼ばれるにふさわしいものだ。
本の記述の中に幾つか面白い箇所があったので、以下に記して見る。
荒れた小石の混じる道を走行中にブレーキが抜けてペダルが床に付く状態になった。つまり何処かからブレーキフルードが抜けている訳だが、後輪をジャッキアップして直ぐに判明したという。つまり、後輪のリジットアクスルがまるでメッキを掛けた様にピカピカ光っているのだが、そのアクスルの前側を平行に配管したブレーキパイプが穴だらけになっていたという。以後、出場車の、後輪のブレーキ配管をリジットアクスル後方に変更したという。
ジョギンダシン(インド人で後に三菱ランサーで総合優勝している)のフェアレディ240Zがトップを爆走中、エンジンが焼き付きを起こしストップしたという。もう優勝は諦めざるを得ないが、路肩でエンジンを降ろし、全メタルをその場で交換し、約2時間で再走行させたという。2時間の遅れは取り戻せなかったが、それでも総合5位となった。
入賞すると、各部の検査が行われる。例えばエンジンでいえば、シリンダー内径やストローク、クランクシャフト外径などを分解して計測し、規則違反がないかを調べる。また、ミッションやデフの歯数を数え、ギヤ比にエントリーの届けから変更されていないかを検査するという。この際、ニッサンでは、笠原氏ともう一人だけがファクトリーの正規要員で、跡は現地ディーラーのメカだったこともあり、検査に際する要員が足らず、大変苦労したとの記述があった。なお、デフのギヤ比はフィラーキャップから、目印を付けておいて、リングギヤを1周させて歯数を数える方法が許可されたので、それで行った。トランスミッションは、そうは行かなかったが、幸いニッサンは下部のオイルパンを外せば、ミッション内部の全ギヤの歯数が数えられるのでOKとなった。
最後に、これはこの本に明確に記されていた訳ではないが、なんとなく著者の思いとして伝わって来たこととして記したい。約10年のサファリ出場を通して、ニッサンはほぼ総合優勝を常に勝ち取れる戦闘力にある車両製造が可能であることが世界に認められた。予算の都合もあるが、このままサファリをニッサンが独走し続けることが、果たして良いことなのか。つまり、あまりに格差が露わになりすぎて、他国の嫉妬を生み出すことが、果たしてニッサンに取って良いことばかりではないだろうという謙虚な思いが芽生えたのだと思う。
この本は、後に石原プロでも映画化され、当時非常に脚光を浴びたそうだが、現代のニッサン自動車を取り巻く環境からは考えられない正にニッサン自動車黄金時代の事象を表す物語りだ。
本の執筆者は「笠原剛三」氏で、東大機械科を卒業して、軍関係の研究開発に5年ほど従事、その後に敗戦を迎えて、S21年にニッサン自動車の実験部に配属されたという人物だ。
ニッサンが国際ラリーにファクトリーとして出場を決めたのは、1966年頃のことだった様だ。未だ、日本車の海外輸出はほとんどなされておらず、果たして日本車の実力がどれほどのものかかが、当時のニッサン本社でも検討される時代にあったそうだ。その頃、世界的には国際カーとしてはVWビートルなどが注目されており、多くがドイツから米国へ輸出がなされていたそうだ。そんな中、VWビートルを仕入れて、社内で徹底的な性能比較を行ってはどうかという意見も出たらしい。これに対し笠原氏は、それも悪くはないが、同一環境、同一条件の競技に出場することで、もっと現実に密着したデータが得られる。ついては、国際ラリーに出場を目指すべきだと提言したという。
ということで、当時のニッサンではブルーバードの311およびセドリックの2台をエントリーさせることにしたという。未だ、ニッサン自体の企業規模も小さく、莫大な予算を組む訳にも行かず、社内で設計開発および製造部などから4名を選手として選任し、当初のエントリーを開始したという。
目指した国際ラリーは、モンテカルロラリーとサファリラリーの2つだが、この本では成績も残せたサファリラリーのことに重きを置いて執筆されている。
エントリー初年は、ブルーバード311だが、前輪も未だ平行板バネリジットアクスルの時代だ。初エントリーでは大した成績も残せなかったが、セドリックがかなり着順は後位ながら完走をを果たしたという。
2年目からは、フルモデルチェンジした410ブルーバードで、エンジン排気量も1300ccにアップし、前輪も独立懸架サスペンションとなった。サファリ特有のノウハウも掴みつつ、クラス優勝を果たすことが出来たという。
この様な感じでちょうど10年間の海外ラリー出場を続けた訳だが、その間にブルバードも510にモデルチェンジして出場。対向するフォードが平均速度をあえて上げるためのコース変更を画策したことを知り、平行してGTクラスにフェアレディ240Z(S30)を投入となった。この様にして、サファリ出場の10年の最終には、サファリについては、最終的に総合優勝を連続2回、クラス優勝もほぼ常にという成績を残すことになった。
この本で知るサファリラリーは、その年により雨量の変化などにより、平均速度などが大きく変わるが、おおむね平均速度は100km/hということは、ほとんど150km/h近くで飛ばさなければならない。条件さえ良ければ200km/h近くのフルスロットルという場面もしばしばある。このラリーはエントリー数がおおむね80台だとして、完走するのが20台以下と、正にカーブレイクラリーと呼ばれるにふさわしいものだ。
本の記述の中に幾つか面白い箇所があったので、以下に記して見る。
荒れた小石の混じる道を走行中にブレーキが抜けてペダルが床に付く状態になった。つまり何処かからブレーキフルードが抜けている訳だが、後輪をジャッキアップして直ぐに判明したという。つまり、後輪のリジットアクスルがまるでメッキを掛けた様にピカピカ光っているのだが、そのアクスルの前側を平行に配管したブレーキパイプが穴だらけになっていたという。以後、出場車の、後輪のブレーキ配管をリジットアクスル後方に変更したという。
ジョギンダシン(インド人で後に三菱ランサーで総合優勝している)のフェアレディ240Zがトップを爆走中、エンジンが焼き付きを起こしストップしたという。もう優勝は諦めざるを得ないが、路肩でエンジンを降ろし、全メタルをその場で交換し、約2時間で再走行させたという。2時間の遅れは取り戻せなかったが、それでも総合5位となった。
入賞すると、各部の検査が行われる。例えばエンジンでいえば、シリンダー内径やストローク、クランクシャフト外径などを分解して計測し、規則違反がないかを調べる。また、ミッションやデフの歯数を数え、ギヤ比にエントリーの届けから変更されていないかを検査するという。この際、ニッサンでは、笠原氏ともう一人だけがファクトリーの正規要員で、跡は現地ディーラーのメカだったこともあり、検査に際する要員が足らず、大変苦労したとの記述があった。なお、デフのギヤ比はフィラーキャップから、目印を付けておいて、リングギヤを1周させて歯数を数える方法が許可されたので、それで行った。トランスミッションは、そうは行かなかったが、幸いニッサンは下部のオイルパンを外せば、ミッション内部の全ギヤの歯数が数えられるのでOKとなった。
最後に、これはこの本に明確に記されていた訳ではないが、なんとなく著者の思いとして伝わって来たこととして記したい。約10年のサファリ出場を通して、ニッサンはほぼ総合優勝を常に勝ち取れる戦闘力にある車両製造が可能であることが世界に認められた。予算の都合もあるが、このままサファリをニッサンが独走し続けることが、果たして良いことなのか。つまり、あまりに格差が露わになりすぎて、他国の嫉妬を生み出すことが、果たしてニッサンに取って良いことばかりではないだろうという謙虚な思いが芽生えたのだと思う。