最近読んだ本で、「閉ざされた言語空間」(江藤淳:著)があります。この本は、先の大戦の敗戦後、占領国である米国(GHQ)が我が国に取った占領政策の中のおける種々の検閲の問題を検証し、そのことの影響が現在における我が国へも相変わらず続いているということを記し表しているという内容です。この本で知った「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」という名称の意味ですが、著者によれば「戦争についての罪悪感を日本人に植え付けるための宣伝計画」ということです。特に検閲については、戦勝国にとって都合の悪い言論を封じるものですが、検閲自体や、そのことをしているということ自体を秘匿するという徹底したものでした。その中で、日本の各種言論メディアは、有形無形の自己規制の思想が生まれ、それが現在でも続いているのではないのかというのが、著者の主張なのだと感じます。確かに、多くの日本人が持つ、特に先の大戦までにおける昭和初期における過剰なまでの自虐史観等、感じられることであります。
ところで、この本と「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」のことを知り、奇妙な既視感(デジャ‐ビュと云われるもの)を感じたのは何故でしょうか。アジャスター制度が生まれ34年、それまでの調査人制度や鑑定人制度を含め、モーターリゼーションの発達と合わせ自動車保険が興世して来た40数年を通じて、何らか類似する思想があったのでは等と云うのは考え過ぎのことなのでしょうか。