私の思いと技術的覚え書き

歴史小説、映画、乗り物系全般、事故の分析好きのエンジニアの放言ブログです。

姑息と云うこと

2010-04-23 | コラム
 私は30数年の社会人生活を送る中、”姑息”という思いを持つことが度々ありました。そんな都度、姑息を感じた相手を、嫌悪すると共に哀れみ醒めた目で一瞥し以後の付き合いをなるべく持たない様にしてきました。

 姑息という言葉は、ものごとをその場しのぎだけで取り繕い対応することの意ですが、私が感じる姑息とはちょっと拡大となりますが、意見の相違する相手に対し直接対峙せずに裏から手を回したり、影に隠れて騙し討ちをする様な者のことです。

 この私の感じる姑息な奴ですが、第三者から見て明かな弱者が強者に対してある意味ゲリラ的な戦術として行うのであれば許せるところを感じます。しかし、明かな強者が己の身の安住だけを謀って姑息なことをしでかすのには許せないとの思いを強く持ちます。この様な場面で時代劇で云えば「卑怯者!」と一喝しバッサリと切って捨てたら、さぞや気も晴れるのでしょうが現実はそうはいきません。ですから、その様な思いを生じさせた相手とは、以後の付き合いを断つこととしております。

 ところで、現代社会は流行的に、そして念仏の様にコンプライアンスという言葉が唱えられていますが、その割りに姑息な奴が増えている様に感じらてなりません。これは、コンプライアンスとして、法律や企業が定めたルールには反しないが、人の道つまり道徳には無頓着な奴が増えているということなのでしょうか。残念な時代の流れと感じてしまいます。

 それでは、如何に姑息でないためには、そして他者に卑怯者呼ばわりされないためにはどうすれば良いのでしょうか。これは武士道に通じるものだと思いますが、正々堂々ということに努めることが大事なことだと念じ注意しているのです。



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