ブログ:アマナタで、猪瀨直樹氏と事故鑑定林洋氏の応酬のこと
ブログ:アマカナタ(記者不詳だが、文系インテリ、反権力、反権威思想が根底にある5、60代の人物と想定)
以下文面は判り難い部分を若干加筆)して転載するものだ。
ブログ:アマカナタ ソースURL:https://www.amakanata.com/2012/12/blog-post_18.html
-------------------------------------------------------------
2012年12月18日火曜日
猪瀬直樹の人気は今がピーク
東京都知事選当選決定直後の、猪瀬直樹の会見の様子がネットにアップされていました。
都知事選史上最高得票数を得て当選したというのに、随分と浮かない顔でインタビューに答えていたのが印象的です。
当 4,338,936 猪瀬 直樹 無新
968,960 宇都宮健児 無新
621,278 松沢 成文 無新
179,180 笹川 堯 諸新
129,406 中松 義郎 無新
81,885 吉田 重信 無新
47,829 トクマ 諸新
38,855 マック赤坂 諸新
36,114 五十嵐政一 無新
=確定得票=
選挙戦の疲労がピークに達しているからだ、というのが大方の感想でしょう。
しかし私には、猪瀬氏が自分の人気のピークが今であることを薄々感じていたからであるように思えて、なりませんでした。
今回の選挙には、石原都政の総括という意味合いが込められています。
史上最多得票は、石原都政への賛同・感謝と、他の候補者への不信感が重なったためでしょう。石原氏の影であった猪瀬氏自身の魅力ではない、というのが私の分析です。
そもそも猪瀬氏には、人を惹きつける魅力があるのでしょうか。
彼の言動を長年見てきましたが、目上の人間には大変丁寧な態度をとるのに、目下の人間、弱い立場の人間には、大変不遜な態度を取るのが彼の特徴です。
このような人間は本来、大衆の支持を得られるはずがありません。
それなのに、彼がここまでの地位を築きあげてきたのは、ノンフィクション作家としての業績、実力に加え、自分が表に立たずに上の立場の人間を補強する、脇役に徹してきたからです。
社会的立場の高い人々に可愛がられ、引き上げられて、今の地位を築きましたが、下の人間から支えられたからではありません。
まず、ノンフィクション作家としての実績について。
彼は明治大学の博士課程を終了後、36歳で『天皇の影法師』を出版して文壇デビューします。
その執筆スタイルは、丹念な取材と大量の資料をもとにして、私たちの先入観とは異なる歴史の「実像」を顕にするというものです。
その実力は、1987に『ミカドの肖像』で第18回第18回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した折り紙つきです。
たしかに、あれだけの資料を読み込む、彼の能力には並々ならぬものがあります。
主に土地と権力に焦点を絞った数々の著作をものにしており、行政に携わりながらも、今も執筆活動の手を緩めません。
スタミナがあり、暗記力と整理力に長けていて、なおかつどのような論理展開をすれば大衆に興味を持ってもらえるかを熟知している人物であるのは、間違いありません。
ところが彼は、有能な人間に時々いる、能力の劣った人間に批判されることに我慢できない手合いのようです。
放射能の心配をする主婦のTwitter上の発言に対して、
とツイートしたり、マンガの性表現規制を行おうとする姿勢が批判されたことに対して、
とツイートしたりしています。
彼にはこの手の蔑視発言が、とても多いという特徴があります。
放射能に恐怖を感じて発言した主婦は、確かに知識不足でしょうし、彼の主張を批判したアニメ好きの青年の多くが、社会的に評価の低い生活を送っているのも事実なのでしょう。
彼のことだから、猪瀬氏に批判的な発言を繰り返す彼らのプロフィールを読んだ上で、彼らが最も傷つきそうな言葉を投げかけたのではないかと思われます。
しかし、私は思うのです。
その発言の妥当性を批判するのではなく、批判者の背景である社会的地位、弱い立場を揶揄し、レッテル貼りを行なうのは、論理で勝てずに差別で相手を貶める、大変卑怯で汚い行為ではないかと。
そんな、社会的地位が弱い人間には強気な彼ですが、目上の立場の人間には一転、徹底してへりくだります。
テレビで石原慎太郎に接する態度を観た時に、あまりの腰巾着ぶりに驚きました。
ある種の人間には、それがたまらなく心地よいのでしょう。
社会的地位の高い人間にとって、普段から腰の低い人間に自分へ丁寧な態度をとられることよりも、普段傲慢で、かつ能力の高い人間に、自分の前で追従を繰り広げられることほど、自分の社会的地位を実感することはありません。
猪瀬氏はそこが分かっていたのでしょう。だから、目上の人間に可愛がられ、引き立てられ、その地位を上げていきました。
彼は、自分自身のポジションをよく知っています。
情報を数多く手に入れ、状況を判断し、人間関係を熟知した上で、そこに自分をどうはめこむかを考えていく……それが彼の遊泳策です。
だからこそ、今回の得票数が自分の人気のためではないことを一番知っているでしょうし、この得票数が与える影響に気を揉んでいるはずです。
今までは副都知事という立場でしたから、全ての批判は石原慎太郎に向けられていました。
※ちなみに、石原慎太郎の政治姿勢には厳しい視線が多く、私の身近にも、彼のことを嫌っている人が多いです。アンチも多かったことが、猪瀬氏を下回る得票数しか得られなかったのでしょう。しかし、それは石原氏の行政能力が猪瀬氏を下回ったことを意味しません。私は、石原氏の政治運営の手腕は大変高いと考えています。
彼が都政につく前の東京は、治安が悪化、『池袋ウエストゲートパーク』で描かれたように、チーマーやカラーギャングが跋扈して、悲惨な状況となっていました。しかし、彼を首班とする新宿浄化作戦のお陰で、東京の治安は劇的に改善されました。昔、ヤクザやチンピラが跋扈していた都下の実情は、今では記憶の外へ去りかけているようですが。
ところが、これからは、猪瀬氏が批判の矢面に立ちます。
これまで彼に興味を持っていなかった人々も、彼一人を見るようになるので、上記のような彼の性格に、おいおい気がついてくるでしょう。
そして、人気はどんどん落ちていきます。
人気が下がるに連れて、人々の心は離反していきます。
それを彼は、これから一人で耐えていかねばなりません。
その時、彼をかばってくれる目上の人間はいないでしょう。
なにしろ、老人の嫉妬は怖い。
石原慎太郎を上回る得票数を、彼が得てしまったという事実により、石原元都知事から嫉妬されることは間違いありませんからね。
それが、今回の史上最多得票を得たことの意味です。
さて、明日は猪瀬氏のノンフィクション作家としての能力に疑義を呈した『偽りのノンフィクション作家 猪瀬直樹の肖像』についての紹介記事を書きます。
-------------------------------------------------------------
2012年12月19日水曜日
猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ①
昨日予告していたとおり、今は絶版となっている『偽りのノンフィクション作家 猪瀬直樹の肖像』(以下『偽りのノンフィクション作家 猪瀨直樹 林洋著』)の内容をご紹介しましょう。
長くなりましたので、いくつかに分割します。
「チーム」という聞きなれない出版社から刊行されたこの本は、現在中古本市場で3,000円(2022年現在¥6千円越える)以上の価値がついています。
もともと1,300円の本が2倍以上の値段となっているのには、それ相当の理由があります。
今や都知事となった猪瀬氏。
彼が文藝春秋社から出版した『交通事故鑑定人S氏の事件簿』(以下『交通事故……』)を絶版に追い込み、ノンフィクション作家としての資質に「ノー」をつきつけた、匕首のような作品だからです。
その帯には、白地に黒で、このように挑戦的な言葉が踊ります。
拝啓 文藝春秋社 社長様
猪瀬直樹著『交通事故鑑定人S氏の事件簿』文藝春秋社刊)は、徹頭徹尾の欠陥ノンフィクションですので、リコール広告を出し、読者に代金をお返しして全数回収してください。
交通事故鑑定人 林洋
アマゾンレビューではすべての評者が☆5つをつけています(2012年19日現在)。
それだけ『偽りの……』の内容は凄まじいのです。
そもそものきっかけは、猪瀬氏が『交通事故……』の元となる記事を、1987年に雑誌に発表したことに始まります。
「交通事故鑑定人」とは、中立的立場から交通事故の「真相」を明らかにするプロのことをいいます。
1987年当時の日本には、損害保険会社や企業に属さない中立的立場の交通事故鑑定人は、10人ほどしかいない、貴重な存在でした。
猪瀬直樹はこの交通事故鑑定人の一人、S氏に1986年に取材をして、彼の推理、仕事ぶりに感銘を受け、ドキュメンタリー記事を1987年に雑誌に発表します。
S氏は交通事故鑑定の世界では不遇をかこっていた人物のようですが、猪瀬氏のお陰で一躍時の人となったものの、その年に不運にも亡くなってしまいました。
S氏の最後の薫陶を受けた猪瀬氏にとって、
「自分がS氏に代わって、交通事故鑑定業界に風穴を開けてやる!」
という、気負いのようなものを、そのとき、感じたのかもしれません。
ちなみにS氏とは、自動車事故工学解析研究所の所長であった鈴鹿武のことですので、これ以降は、鈴鹿氏と記述することにしましょう。
その7年後、1994年にこの一連のドキュメンタリーが、文藝春秋社から『交通事故鑑定人S氏の事件簿』にまとめられて出版されたのでした。
この書籍によって猪瀬氏は、交通事故鑑定にも一廉の見識をもつ、専門家の1人と目されるようになりまして、そこから彼の攻勢が始まります。
交通事故鑑定の権威者であった江守一郎・成蹊大学名誉教授の批判を1994年、週刊文春9月8日号から始めたのです。江守氏の鑑定が杜撰なのではないか、という疑義を呈したのです。
その反響は大きく、10月6日号で、さらに江守氏に追撃の手を加えるのですが、その中で彼が言及したのが、『偽りの……』の作者である林洋氏なのでした。江守氏を批判するついでのように林氏に痛烈な侮辱を投げかけたのです。
これには伏線がありました。猪瀬氏の尊敬する鈴鹿氏の鑑定を、林氏が生前に2度叩き潰しており、鈴鹿氏はそれを恨みながら死んでいったのです。猪瀬氏にとっては、恩師の恨みを7年ごしで討ったつもりだったのかもしれません。
~猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ②に続く~
-------------------------------------------------------------
猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ②
新都知事となった猪瀬直樹氏が、かつて1987年に雑誌に発表し、1994年に刊行した『交通事故鑑定人S氏の事件簿』(以下、『交通事故……』)。
猪瀬氏は、この本の出版を契機に、交通事故鑑定に詳しい人物としてメディアで発信を始めます。
1987年に週刊文春10月6日号で、江守一郎という交通事故鑑定の権威に挑戦状を叩きつけました。
江守氏を斬り、返す刀で切りつけたのが、もう一人の交通事故鑑定の権威、林洋でした。
林氏については、
★ 交通事故鑑定人 林洋のページ
★ 魂の仕事人 交通事故鑑定人 林洋氏 その一
★ 魂の仕事人 交通事故鑑定人 林洋氏 そのニ
★ 魂の仕事人 交通事故鑑定人 林洋氏 その三
をお読みになったほうが、より人物像を理解できるでしょう。
林氏と猪瀬氏の応酬の流れについて説明します。
A 猪瀬氏が林氏を週刊文春誌上で批判(1994.10)
↓
B 林氏が猪瀬氏と出版社に厳重抗議
↓
C 文藝春秋社編集部が林氏に話し合いを提案、林氏は懐柔されるつもりはない、とこれを拒否
↓
D 林氏、『交通事故……』所収の全5事例全ての誤りを指摘した小冊子30冊を作って各方面に配布したが、ほぼ黙殺される
↓
E 林氏の弾尽きたと判断したのか、猪瀬が第二弾の批判(1995.10)
↓
F 林氏、雑誌「宝島30」にて詳細に、猪瀬本の過ちを指摘(1995.11)
↓
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
↓
H 林氏、上記小冊子を元に下に掲載した本を上梓(1996.3)
この流れにそって、どのような応酬が二人の間にあったのかを、くわしくみていきます。
A 猪瀬氏が林氏を週刊文春誌上で批判(1994.10)
週刊文春誌上で猪瀬氏は、次のように林氏を批判します。
……拙著『交通事故鑑定人S氏の事件簿』に登場するような、徹底的に現場にこだわる鑑定人は少ないのだ。
たとえば朝日新聞の「ひと」欄(89年3月26日)に「自動車事故の鑑定でホームズと呼ばれる林洋さん」が登場したことがあった。記事には「昨年は八十五回、法廷に」「開業以来四年間に取り扱った事故は二千五百件」とある。さらに林鑑定人自身が「迅速に、内容ごとに定価を決めてやっているので、全国の鑑定の、たぶん半分が私のシェア。月平均の鑑定料収入七百万円」と豪語している。「ひと」欄の記者は、五十七歳(当時)のこの人物の発言にいかがわしい臭いを感じなかったのだろうか。裏も取らずに自慢話を載せてしまう感覚は理解しがたい。年八十五回法廷に立つ、ということは三日に一回の割合で裁判所を回ることになり、しかもその間、一年に六百件、つまり一日に二件の割合で鑑定書を仕上げたことになる。物理的にあり得ない。もしほんとうなら、記者は逆に追及すべきだ
こういうでたらめな人物が、最高裁のデータでは江守鑑定人の三十件に次ぐ、第二位の九件の鑑定を裁判所に依頼されてやっている。まことに憂うべき事態ではないか。
一見、もっともな指摘です。ところが、のっけからこの記事は間違っていたようです。
裏も取らずに自慢話を載せてしまう感覚は理解しがたい。
と朝日新聞記者を批判するふりをして、林氏の実績に疑義を投げかけていますが、こんなことは当時の公的な記録を調べればすぐに分かることです。
林氏はすぐさま、昭和53年当時の裁判所出廷記録、鑑定依頼・発行依頼の原簿の写しを猪瀬氏に送ったところ、猪瀬氏はぐうの音も出なかったそうです。
次に、鑑定書の多さについて。
林氏はこう反論しています。
……次に私の「鑑定書多発の罪」の告発であるが、(中略)これは、朝日新聞に記事が出た平成元年(1989)の当時は、まだ、むち打ち症関連の裁判が多かったためである。(中略)平成元年当時、私の鑑定書発行件数が多かったのは、むち打ち症疑義事案の保険会社対受傷主張者間の話合いのための、つまり、裁判以前の和解交渉段階の「簡易鑑定」が多かったためである。また、裁判所出廷回数が多かったのは、むち打ち症関係の債務不存在確認請求訴訟の証人尋問呼び出しが多かったためである。現在の証人尋問出廷のペースは年間四十回前後である。
まあ、これだけでは、簡易鑑定にかかる労力、当時の裁判の実情などがわからないので、どちらが正しいのか、なんとも言えません。
~猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ③に続く~
-------------------------------------------------------------
猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ③
A 作家・猪瀬直樹が交通事故鑑定人・林洋を週刊文春誌上で批判(1994.10)
↓
B 林氏が猪瀬氏と出版社に厳重抗議
↓
C 文藝春秋社編集部が林氏に話し合いを提案、林氏は懐柔されるつもりはない、とこれを拒否
↓
D 林氏、『交通事故……』所収の全5事例全ての誤りを指摘した小冊子30冊を作って各方面に配布したが、ほぼ黙殺される
↓
E 林氏の弾尽きたと判断したのか、猪瀬が第二弾の批判(1995.10)
↓
F 林氏、雑誌「宝島30」にて詳細に、猪瀬本の過ちを指摘(1995.11)
↓
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
↓
H 林氏、上記小冊子を元に下に掲載した本を上梓(1996.3)
B 林氏が猪瀬氏と出版社に厳重抗議
昨日は、Aについて説明しました。
猪瀬氏は林氏の鑑定数が大変多いことを挙げて、異常な数だ、だから杜撰だろう、という推定を述べています。
ただし、
・どう杜撰なのか、証拠をまったく挙げない。
・「数が多いから杜撰だろう」という印象を述べるだけ。
という問題点がありました。
その上猪瀬氏は、林氏の自己申告する仕事量自体、嘘ではないかという疑いを文章にさらっと差し込んで、林氏の根本を否定しますが、そんな、当時の事故資料を調べれば簡単に分かるようなことを、まったく確認せずに濡れ衣を着せていたことが分かりました。
私、高名な職業作家が、ある人物の業績を批判する際は、証拠をもとに行うものだと思っていました。
ところが猪瀬氏、何の証拠もなく、印象、インスピレーションだけで、そもそも江守氏批判という論文趣旨とは関係のない人物を、イメージの傍証のために突然公共の場に引きずり出して、自分の有利な社会的立場を利用してエビデンス無しに面罵を加える、ということを平気で行うのです。
ちょっと驚きますよね。
結局、この2人の応酬の過程で、猪瀬氏は最初から最後まで、林氏の仕事がほんとうに杜撰なのかを具体的に示すことは「何一つ」できないのです。
C 文藝春秋社編集部が林氏に話し合いを提案、林氏は懐柔されるつもりはない、とこれを拒否
もちろん、林氏は猪瀬氏と出版社に、抗議の手紙を出します。
ところが、猪瀬氏はこれを黙殺、出版社からは、
拝啓 十月十日にお送りいただいたお手紙、さっそく拝見いたしました。私が察しますに、林様と猪瀬氏との間で、多少の見解の相違があるのではないかと思われます。つきましては、一度お二人に直接会っていただき(私も担当編集者として同席いたします。)各々のお考えについて、心ゆくまでお話いただいてはいかがでしょうか。後日あらためて当方より連絡させていただきます。よろしくご検討ください。
敬具 平成六年十月二十四日
という手紙が届きます。
誌上討論をよびかけるのでもなく、単なる酒席の場を設けて、懐柔しようという、出版社が訴訟を起こされるのを未然に防ぐためによくやる手口です。
むろん、林氏はこれを拒絶します。
そして、訴訟を検討するのですが、林氏、
(待てよ)
と思い返します。
(向こうがその気ならば、猪瀬の作家としての仕事がどれだけ杜撰なのか、プロの交通事故鑑定人として徹底的に公開の場で戦ってやろう)
よほど技量に自信がなければ考えられない不利な方法をあえて取るのです。
『修羅の門』というマンガでは、主人公の陸奥九十九が、自分が伝承する陸奥圓明流が最強であることを証明するために相手の得意とする分野で戦います。
それを思いだしました。
くりぃむしちゅーの上田なら、
「ブハハハwwwそこは名誉毀損訴訟で一気に終わらせちまえよwww」
と笑うところですが。
~猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ④に続く~
-------------------------------------------------------------
猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ④
「猪瀬直樹・東京都知事候補の支援者たちが堂々と選挙違反!」より
「新都知事・猪瀬直樹氏について、あなたはどの程度御存知ですか?」
最近、折にふれて友人知人に尋ねるようにしています。そして、最多得票を得たというのに、新都知事のことを誰もがほとんど知らないことに驚きました。猪瀬氏はこれまで、小泉純一郎や石原慎太郎のようなカリスマの手足として活躍してきました。それ故に、日中の月のように、彼に注目が集まることがなかったせいでしょう。
果たして、猪瀬氏は指導者として適切な人物なのでしょうか?
誰もがすぐに挙げるのは、思い込みが強く、頑固、といったところです。……これは、指導者として一見、必要な資質です。
ただ、その強固な価値観に合致しない相手が自分よりも劣っていると、かさにかかって難癖をつけ、怒鳴りつけるような人物だったとしたら?
弱い立場の人間を威圧することで、自分の社会的地位を確認するタイプの人物だとしたら?
もっと言えば、理屈の通らない弱者イジメが好きな嗜虐的性格の持ち主だとしたら?
決して指導者としてふさわしいとは言えません。
もちろん、威圧的でも優秀な人間はいます。例えばスティーブ・ジョブズとか。ただ、彼は間違いがあれば即座にそれを認め、謝罪はしなくとも、すぐに何らかの対応を行うという美徳がありました。だからこそ、優秀な指導者として亡くなった後でも敬愛されています。その上、彼自身が複雑な生い立ちで、なおかつ大きな挫折を味わってきたため、弱者に対して優しい目を向けることを忘れませんでしたし、自分の欠点を正直に開示し続けてきました。
ところが猪瀬氏の昨今の言動からは、自分の欠点を覆い隠し、それを指摘されると見当違いのことを言ってはぐらかし、論理的に説明をすることではなく、威圧的に命令し、怒鳴りつけて物事を進めていくという人物であることが透けてみえます。
そんな彼が今から約20年前、権力を持たない弱い人間だと思って噛み付いたものの、一癖も二癖もある有能な人物が相手だったため、しっぺ返しをくらったことがありました。その時の彼の態度、行動を紹介することで、彼の人間としての原理原則をあぶりだす……これがここ数日のブログの目的です。
A 作家・猪瀬直樹が交通事故鑑定人・林洋を週刊文春誌上で批判(1994.10)
↓
B 林氏が猪瀬氏と出版社に厳重抗議
↓
C 文藝春秋社編集部が林氏に話し合いを提案、林氏は懐柔されるつもりはない、とこれを拒否
↓
D 林氏、『交通事故……』所収の全5事例全ての誤りを指摘した小冊子30冊を作って各方面に配布したが、ほぼ黙殺される
↓
E 林氏の弾尽きたと判断したのか、猪瀬が第二弾の批判(1995.10)
↓
F 林氏、雑誌「宝島30」にて詳細に、猪瀬本の過ちを指摘(1995.11)
↓
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
↓
H 林氏、上記小冊子を元に下に掲載した本を上梓(1996.3)
D 林氏、猪瀬直樹著『交通事故鑑定人S氏の事件簿』所収の全5鑑定全ての誤りを指摘した小冊子30冊を作って各方面に配布したが、ほぼ黙殺される
林氏は『偽証鑑定』という小冊子を作って、猪瀬氏が紹介した鈴鹿氏の5鑑定が、どのように誤っているかを指摘する冊子を作りました。
そもそも猪瀬氏は、林氏の鑑定数が異常に多く、自身が信頼する鈴鹿氏の鑑定が少ないことをもって、林氏の仕事ぶりを杜撰だと決めつけたのですが、事実は逆なのです。
裁判では、交通事故時の記録と、それをもとにした鑑定が、裁判資料として利用されます。証人尋問時には反対尋問によって裁判官の目の前で徹底的に批判されます。三審制のもと、あるときは検事に、あるときは弁護士によって徹底的に検証されるため、それに耐えうるものでなくてはなりません。曖昧な鑑定、論理性の低い鑑定はすぐ、その矛盾を突かれるので怖くて利用できません。
ところが鈴鹿氏の鑑定は、インスピレーションや思いつきによるものが多く、科学的検証に耐えうるものではなく、仕事がこなくななったのです。逆に林氏の鑑定結果は大変論理的整合性に優れていたために、依頼を受ける鑑定数が多くなったのです。それがこの両者の差なのです。
実際のところ、林氏は鈴鹿氏の交通事故鑑定を2件叩き潰しているのだとか。
結局、鈴鹿氏は仕事がないので、勝ち目の薄い仕事を受けざるを得なくなり、
……まともな鑑定人は依頼を断るような事案が、もっぱら最後の受け手であるエセ鑑定人の許に届くことになる。また仕事が減っているから、後先を考えずに何でも引き受けてしまう。こうしてエセ鑑定人の悪循環が続くことになる(『偽りのノンフィクション作家猪瀬直樹の肖像』P126)
のでした。
そんな鈴鹿氏の晩年の交通事故鑑定を集めたのが『交通事故……』なのですから、いい加減なことばかりが書かれていたのも、当然だったのかもしれません。
内容については『偽りの……』をご覧になっていただきたいところです。大変精緻な検証が続くので、興味のある方は本を手にとって直接お読み頂いたほうが早いと思うので、詳細はここには書きません。
このブログに、そこを事細かに記しても、あまり面白く無いかもしれませんから。詳しくは後で一例だけ述べることにして、今は先に進みます。
とりあえず、この小冊子がほとんど黙殺されたことだけは確かです。
評論家の佐高信が『エコノミスト』が林氏の小冊子を「現場の怒りを体現して鋭い」と書き、『週刊新潮』が1995年9月14日号に少し触れただけで終わったのですから。
E 林氏の弾尽きたと判断したのか、猪瀬が第二弾の批判(1995.10)
猪瀬氏は林氏がそれ以上、何もできないということを見越した上で、「週刊文春」1995年10月26日号にて、林氏の小冊子について、次のように反論を載せました。
交通事故の鑑定人を主人公にした単行本を出したところ、最近になって、奇妙な人物が現れて、「嘘と誤解を世間に間違った認識を与える悪書」だから回収しろ、と声高に叫ぶのである。(中略)いったい、なにを根拠に、どのような資料にもとづいて、このような判断が可能なのだろうか。ほんとうに驚いてしまう。なにしろ、交通事故鑑定は、まず交通事故鑑定人が現場に行く事が先決で、手間の掛かる仕事だからである。(中略)僕を批判するためにS氏(鈴鹿氏)の鑑定まで偽証だと言ってのけるのである。これでますます僕は確信を持った。なにしろ二次資料から鑑定するほどの"やり手"ということを。(中略)S氏は、ある事件解決のため、現場を再現しようと精密な模型を作ったことがあった。おかげでそれほど広くない借家の一間はその模型で占領されてしまった。(中略)ようやく模型が完成したとき、S氏は「わかった」と言った。それから「もう壊してよい」と付け加えた……。僕は晩年のS氏と対話を繰り返し、法廷にも通い、弁護士とも話し合い、また現場にも訪れて目撃者や被告人などに取材した。その結果、S氏の完全主義の仕事哲学に共鳴したのである。
林氏制作の小冊子には、林氏による詳細な図解入りの反論が載せられていましたが、
猪瀬氏はそれに具体的な反論を一切行いません。
ひたすら印象操作だけでことをすませようとします。
~猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ⑤に続く~
-------------------------------------------------------------
猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ⑤
「猪瀬直樹・東京都知事候補の支援者たちが堂々と選挙違反!」より
A 作家・猪瀬直樹が交通事故鑑定人・林洋を週刊文春誌上で批判(1994.10)
↓
B 林氏が猪瀬氏と出版社に厳重抗議
↓
C 文藝春秋社編集部が林氏に話し合いを提案、林氏は懐柔されるつもりはない、とこれを拒否
↓
D 林氏、『交通事故……』所収の全5事例全ての誤りを指摘した小冊子30冊を作って各方面に配布したが、ほぼ黙殺される
↓
E 林氏の弾尽きたと判断したのか、猪瀬が第二弾の批判(1995.10)
↓
F 林氏、雑誌「宝島30」にて詳細に、猪瀬本の過ちを指摘(1995.11)
↓
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
↓
H 林氏、上記小冊子を元に下に掲載した本を上梓(1996.3)
F 林氏、雑誌「宝島30」にて詳細に、猪瀬本の過ちを指摘(1995.11)
林氏の主張は黙殺されてしまいそうに見えましたが、猪瀬氏が林氏の反論に反応したために、逆に業界の注目を浴びてしまったようです。
「雉も鳴かずば撃たれまい」
といいますが、まさに猪瀬氏、墓穴を掘ってしまいます。
『偽証鑑定』を書き上げ、マスコミ各社に送付したにも関わらず、反論の場を提供しようという出版社はなく、半分諦めていた私のところに『宝島30』の編集長から連絡があった。
昔は猪瀬のようなメディアの寵児に反論するためには、ひたすら出版社などのお声がかかるのを待つしか方法がありませんでした。
それが今なら簡単に自分のサイトで反論し、そこに説得力があるのならば、すぐにTwitterで拡散していくのが今の世の中。当時、林氏はご苦労されたようです。隔世の感があります。
それはともかく『宝島30』の誌面を提供された林氏、『偽証鑑定』に書いた内容のうち、2鑑定をさらに掘り下げて、検証を行ったのです。その影響は小さくなかったようです。
林氏にとって、猪瀬氏や彼が師事する鈴鹿氏の考え方は到底我慢できるものではありませんでした。
・最低限の知識のない人間が現場にきても、意味ある情報を把握することが出来ない。
・事故の直後にノウハウを持った警察官によって行われる実況見分や、事故調査会社の調査報告書から意味ある情報を手に入れることのほうが大切。
という信念を持っている林氏にとっては、闇雲に事故現場を歩き出して珍説をひねくり出す鈴鹿氏も、交通事故や自動車の構造上の仕組み、物理法則について知識を持たずに専門外から口を挟む猪瀬氏も、我慢ができない存在だったのです。
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
林氏、猪瀬氏、それと猪瀬氏側には交通事故の専門家なる二瓶弁護士がつきそい、1995年11月17日に宝島編集部で討論が行われました。
このときの討論の題材となったのは、猪瀬氏が鈴鹿氏の名鑑定として第一話に挙げた「左折事故の恐怖」でした。
これ、説明が難しいので……。続きは明日にしましょう(汗
~猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ⑥に続く~
猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ⑥
「猪瀬直樹・東京都知事候補の支援者たちが堂々と選挙違反!」より
A 作家・猪瀬直樹が交通事故鑑定人・林洋を週刊文春誌上で批判(1994.10)
↓
B 林氏が猪瀬氏と出版社に厳重抗議
↓
C 文藝春秋社編集部が林氏に話し合いを提案、林氏は懐柔されるつもりはない、とこれを拒否
↓
D 林氏、『交通事故……』所収の全5事例全ての誤りを指摘した小冊子30冊を作って各方面に配布したが、ほぼ黙殺される
↓
E 林氏の弾尽きたと判断したのか、猪瀬が第二弾の批判(1995.10)
↓
F 林氏、雑誌「宝島30」にて詳細に、猪瀬本の過ちを指摘(1995.11)
↓
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
↓
H 林氏、上記小冊子を元に下に掲載した本を上梓(1996.3)
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
の続きです。
この時の討論の題材となったのが『交通事故鑑定人S氏の事件簿』の第三章第一話のタンクローリーの当て逃げ事故でしたので、この事故について簡単に説明します。第三話である小学校教頭の当て逃げ事故についても取り上げられていますが、冗長になるため、ここでは割愛します。ご興味のある方は、下記の本を購入ください。
事件の概要はこうです。
タンクローリーの運転手が交差点を左折しようとしていたとき、自転車に載っていた電力会社社員をひいてしまいました。この会社員は死亡、運転手が罪に問われますが、運転手の勤める運送会社が鈴鹿鑑定人に鑑定を依頼して「運転手には過失責任がない」ことを証明した、というものです。
この事件の目撃者である交番の巡査が、
「被害者は自分の立っていた交番から、横断歩道を自転車に乗って反対側へ渡ろうとしていたときに、タンクローリーがやってきた。被害者が右足で踏ん張ったために自転車がひっくりかえり、そこにタンクローリーがぶつかって被害者も跳ね飛ばされて亡くなった」
と証言しています。
運転手の言い分はこうです。
「横断者に気づかず、横断歩道を渡ったところでガチャガチャという音がしたので車を停めて確認したところ、右前後輪に自転車がからまっていた」
被害者はタンクローリーの右2、3メートル後方にうつ伏せに倒れて即死状態だったそうです。
さて、鈴鹿氏はどのように推理したのでしょうか。
タンクローリーのタイヤに踏まれて折れ曲がった自転車に、鈴鹿氏は注目します。
Aの右側支柱(下図の見えている側)には、タンクローリーのフロントバンパーの塗料痕がついていました。
もしも自転車が警察官の証言する通りに交番側からやってきたのならば、Aの部分の左側支柱に、タンクローリーのバンパーの塗料痕がついていなければならないのに、それがないのはおかしい。
そして、BとCの2ヶ所には裏側にタイヤで踏まれた痕があります。
このようなことが起こる理由は、タンクローリーのフロントバンパーによってまず自転車にぶつかり、Aの部分がひかれた後、さらにタンクローリーの左後輪で自転車のBとCの部分が押しつぶされた、ということです。
猪瀬氏はこう結論づけました。
自転車に刻印された二条のタイヤ痕は、タンクローリーが左折するときの内輪差によって生じたものだった。(中略)そして被害者の自転車に残された二条のタイヤ痕をあてはめれば、左折による巻き込み事故であることが証明できる。(中略)N弁護士に語らせよう。『被害者はまずタンクローリーのバンパーにぶつかり、それから車輪に巻き込まれました。歩道にあった工事のための高さ三メートルの鉄柵によって、U運転手には被害者が横断しはじめるところは見えませんでした。それでバンパーにぶつかってしまったのです』(中略)U運転手にとって、H被害者の自転車は死角に入っていて見えなかったということになった(『交通事故……』P126~128)
――鉄柵。
もしも、被害者がタンクローリーの左側から走ってきたのだとすると、タンクローリーの左側にあった鉄柵が、視界を妨げていたということが証明されます。運転手のせいではなく、工事のための三メートルの鉄柵が、運転手の視野を妨げていたのであり、運転手の責任ではなくなります。
結局、運転手は実刑を免れました。
ところが、討論以前に、猪瀬氏は交通事故における「テクニカルターム(専門用語)」が全然分かっていませんでした。
「内輪差による巻き込み事故」
とは、バンパーにぶつかり、前輪でひかれた後に、後輪でひかれること、ではありません。
大型トラックのように大きな自動車が、交差点を曲がる時には、前輪を避けても、後輪はそれよりももっと内側の軌道を描きます。
車体側面にぶつかった被害者が、自動車の床下に押し倒され、巻き込まれるようにして後輪にひかれることが「内輪差による巻き込み事故」といわれるものです。
よって、この事故は自転車が右側から走行したにせよ、左側から走行したにせよ、「全面押し倒し事故」(『偽りの……』P205)と呼ばれるものです。決して「内輪差による巻き込み事故」ではありません。それは、「宝島30」の編集者が警察庁広報課に確認して、厳然としたテクニカルタームであることが判明しています。
さらに、タンクローリー左方から自転車がやってきて、その荷台後輪(Aの部分)がぶつかったとしたら、自転車がタンクローリーの全面にすっぽりと入っていたというこであり、そこまで自転車が視界に入っていながら「横断者に気づかず」、ひいた後もわからない、ということは考えられません。
その上、自転車もはねられた人も、タンクローリーの右側に倒れているのです。それが何故なのか、猪瀬氏はまったく説明しておりませんし、鈴鹿氏もこれについて言及していないのです。
さらに、討論で明らかになったことは、自転車が引かれたのは、タンクローリーの右の車輪だったと鈴鹿氏が証言していたことです。それだと、内輪差などはなんの関係もありませんよね?
次回がラストです。いやぁ、長かった。
~猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ⑦に続く~
-------------------------------------------------------------
猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ⑦
「猪瀬直樹・東京都知事候補の支援者たちが堂々と選挙違反!」より
A 作家・猪瀬直樹が交通事故鑑定人・林洋を週刊文春誌上で批判(1994.10)
↓
B 林氏が猪瀬氏と出版社に厳重抗議
↓
C 文藝春秋社編集部が林氏に話し合いを提案、林氏は懐柔されるつもりはない、とこれを拒否
↓
D 林氏、『交通事故……』所収の全5事例全ての誤りを指摘した小冊子30冊を作って各方面に配布したが、ほぼ黙殺される
↓
E 林氏の弾尽きたと判断したのか、猪瀬が第二弾の批判(1995.10)
↓
F 林氏、雑誌「宝島30」にて詳細に、猪瀬本の過ちを指摘(1995.11)
↓
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
↓
H 林氏、上記小冊子を元に下に掲載した本を上梓(1996.3)
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
の続きです。
林氏が指摘することに対して、猪瀬氏と彼が連れてきた二瓶弁護士の反論はお粗末なものでした。
テクニカルタームが間違っていたことに対して、
「あのね、ここには『左折による巻き込み事故』とは書いてあるけれど、『内輪差による事故』とは書いてないでしょ」(猪瀬)
「それは単なる言葉の問題だよ」(二瓶)
という反論にならない反論を行います。
「自転車に刻印された二条のタイヤ痕は、タンクローリーが左折するときの内輪差によって生じたものだった」
と書いていたのは、猪瀬さん、あなたですから!! 残念!!
専門用語の使い方が間違っていれば、そうだと認めればいいのに。
宝島編集部は討論の前に、猪瀬氏のもとを訪れ「自転車は左の前前輪と前後輪でひかれたと説明された」そうです。それを討論の場で確かめられた猪瀬氏は「それは内輪差の説明をするため」だったという意味の分からない言い訳をします。
さらには、死角がどのように動くかについて林氏が、
「二瓶氏の言うとおりだとすると、たしかに交差点の手前でタンクローリーが停車していれば、斜線の部分は見えませんよ」
「しかし車が左折するために前進を始めると徐々にこの死角は狭くなって、手前の横断歩道を越えた時点でなくなるんです。仮に自転車がタンクローリーの左手から来たとしても、運転手は衝突前に充分視認できた。死角の事故なんかじゃまったくありません」
という、もっともな反論を行います。そりゃ、目の前に自転車がきても、分からない運転手は普通いません。
それに対して二瓶弁護士は、
「死角の事故なんて一切言っていない」
という苦し紛れの反論をします。
林氏が、本にそう書かれている、「じゃあ、嘘が書いているということになるね」と畳み掛けたところ、猪瀬氏「嘘とはなんですか、嘘とは」と答えるので精一杯。
二瓶弁護士も
「だからこれはS鑑定に対する私の感想というか、裁判で主張したことを猪瀬さんに伝えたものなんですよ」
という苦し紛れの助け舟を出すだけでした。
結局猪瀬氏はどう結論づけたのか。
「タンクローリーが右の車輪で自転車をひいたことは明らかである」ので、前輪と前前輪との間の内輪差によって、自転車に二箇所傷がついたということを「内輪差」という言葉で説明しただけ、という趣旨にすり替えたのです(「宝島30」)。
私も、このように毎日ブログを書いておりますと、大量の文章が積み重なっていくために、前後矛盾するようなことが出て参ります。そこを、ブログを読んだ人に指摘されることがありますが、その時には指摘されたことを感謝して、訂正に応じるようにしています。
ところが猪瀬氏は、反論自体を丁寧に精査するのではなく、相手との力関係を推し量って、発言権の弱い人間だと怒鳴りつけることで主張を通そうとし、相手が強いとこうやって言葉をすり替えることで、ことを済ませようとするのです。
上杉隆というジャーナリストがおりまして、この手の言い訳をよく行います。
ジャーナリストには、この手合いが多いのでしょうか……。
次第に林氏に反論できなくなった猪瀬氏は、
「あなたは鈴鹿氏の鑑定を直接みずして、自分の本だけを元に判断している、よっていい加減だ」
という、ドキュメンタリー作家としてどうなんだろう? 自分の本に対してプライドはないのか? と首を傾げる発言でなんとか誤魔化そうとして、この討論は終わりました。
……でもね、猪瀬さん。 さきに林氏の鑑定を一つも読まずに林氏を批判したのは、あなたなんですけれどね。
H 林氏、下掲載の書籍を上梓(1996.3)
林氏は一連の応酬をまとめて書籍にしていますが、ここにはその他の、猪瀬氏の犯したミスがいくつも網羅されています。
鈴鹿氏が鑑定をした裁判の結果が出た翌日に運輸省が大型トラックが巻き込み事故を起こさないような対策を取るように指示した、これは鈴鹿氏の功績だ、とかいう主張は噴飯物。運輸省が一裁判の翌日に、省令を出すようなことがあるはずもなく、半年前に決まっていたことを鈴鹿氏の功績に無理やり結びつけてみせるのです。
猪瀬氏の様々な牽強付会ぶりを喝破しているので面白いですよ。
林氏は、猪瀬氏が全共闘運動でアカデミズムを超えられると錯覚したものの、実力、考察が足りないために、権威によりかからねばアカデミズムを引き倒せないというコンプレックスを抱え続けているのではないか、という佐高信の分析を引用しています。
猪瀬氏には、権威へ挑戦しようとするスタンスで大衆を惹きつけるものの、そのために別の権威に頼らなければ自己を主張できない知識不足がと自身の欠如があるのでしょう。
その弱さを糊塗するために、より弱い者を叩いて自分を強く見せよう、という傾向があるように思えてなりません。そして、昨今の発言をみていくと、その傾向は強まりこそすれ、改めようとする気配に乏しいように感じられます。
猪瀬氏にこれから注目していく上で、この傾向を一つの指標として考察するのも、面白いかもしれません。
……ようやく終わった。明日からは別のテーマです。
-------------------------------------------------------------
#猪瀨直樹氏と事故鑑定林洋氏の応酬
ブログ:アマカナタ(記者不詳だが、文系インテリ、反権力、反権威思想が根底にある5、60代の人物と想定)
以下文面は判り難い部分を若干加筆)して転載するものだ。
ブログ:アマカナタ ソースURL:https://www.amakanata.com/2012/12/blog-post_18.html
-------------------------------------------------------------
2012年12月18日火曜日
猪瀬直樹の人気は今がピーク
東京都知事選当選決定直後の、猪瀬直樹の会見の様子がネットにアップされていました。
都知事選史上最高得票数を得て当選したというのに、随分と浮かない顔でインタビューに答えていたのが印象的です。
当 4,338,936 猪瀬 直樹 無新
968,960 宇都宮健児 無新
621,278 松沢 成文 無新
179,180 笹川 堯 諸新
129,406 中松 義郎 無新
81,885 吉田 重信 無新
47,829 トクマ 諸新
38,855 マック赤坂 諸新
36,114 五十嵐政一 無新
=確定得票=
選挙戦の疲労がピークに達しているからだ、というのが大方の感想でしょう。
しかし私には、猪瀬氏が自分の人気のピークが今であることを薄々感じていたからであるように思えて、なりませんでした。
今回の選挙には、石原都政の総括という意味合いが込められています。
史上最多得票は、石原都政への賛同・感謝と、他の候補者への不信感が重なったためでしょう。石原氏の影であった猪瀬氏自身の魅力ではない、というのが私の分析です。
そもそも猪瀬氏には、人を惹きつける魅力があるのでしょうか。
彼の言動を長年見てきましたが、目上の人間には大変丁寧な態度をとるのに、目下の人間、弱い立場の人間には、大変不遜な態度を取るのが彼の特徴です。
このような人間は本来、大衆の支持を得られるはずがありません。
それなのに、彼がここまでの地位を築きあげてきたのは、ノンフィクション作家としての業績、実力に加え、自分が表に立たずに上の立場の人間を補強する、脇役に徹してきたからです。
社会的立場の高い人々に可愛がられ、引き上げられて、今の地位を築きましたが、下の人間から支えられたからではありません。
まず、ノンフィクション作家としての実績について。
彼は明治大学の博士課程を終了後、36歳で『天皇の影法師』を出版して文壇デビューします。
その執筆スタイルは、丹念な取材と大量の資料をもとにして、私たちの先入観とは異なる歴史の「実像」を顕にするというものです。
その実力は、1987に『ミカドの肖像』で第18回第18回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した折り紙つきです。
たしかに、あれだけの資料を読み込む、彼の能力には並々ならぬものがあります。
主に土地と権力に焦点を絞った数々の著作をものにしており、行政に携わりながらも、今も執筆活動の手を緩めません。
スタミナがあり、暗記力と整理力に長けていて、なおかつどのような論理展開をすれば大衆に興味を持ってもらえるかを熟知している人物であるのは、間違いありません。
ところが彼は、有能な人間に時々いる、能力の劣った人間に批判されることに我慢できない手合いのようです。
放射能の心配をする主婦のTwitter上の発言に対して、
とツイートしたり、マンガの性表現規制を行おうとする姿勢が批判されたことに対して、
とツイートしたりしています。
彼にはこの手の蔑視発言が、とても多いという特徴があります。
放射能に恐怖を感じて発言した主婦は、確かに知識不足でしょうし、彼の主張を批判したアニメ好きの青年の多くが、社会的に評価の低い生活を送っているのも事実なのでしょう。
彼のことだから、猪瀬氏に批判的な発言を繰り返す彼らのプロフィールを読んだ上で、彼らが最も傷つきそうな言葉を投げかけたのではないかと思われます。
しかし、私は思うのです。
その発言の妥当性を批判するのではなく、批判者の背景である社会的地位、弱い立場を揶揄し、レッテル貼りを行なうのは、論理で勝てずに差別で相手を貶める、大変卑怯で汚い行為ではないかと。
そんな、社会的地位が弱い人間には強気な彼ですが、目上の立場の人間には一転、徹底してへりくだります。
テレビで石原慎太郎に接する態度を観た時に、あまりの腰巾着ぶりに驚きました。
ある種の人間には、それがたまらなく心地よいのでしょう。
社会的地位の高い人間にとって、普段から腰の低い人間に自分へ丁寧な態度をとられることよりも、普段傲慢で、かつ能力の高い人間に、自分の前で追従を繰り広げられることほど、自分の社会的地位を実感することはありません。
猪瀬氏はそこが分かっていたのでしょう。だから、目上の人間に可愛がられ、引き立てられ、その地位を上げていきました。
彼は、自分自身のポジションをよく知っています。
情報を数多く手に入れ、状況を判断し、人間関係を熟知した上で、そこに自分をどうはめこむかを考えていく……それが彼の遊泳策です。
だからこそ、今回の得票数が自分の人気のためではないことを一番知っているでしょうし、この得票数が与える影響に気を揉んでいるはずです。
今までは副都知事という立場でしたから、全ての批判は石原慎太郎に向けられていました。
※ちなみに、石原慎太郎の政治姿勢には厳しい視線が多く、私の身近にも、彼のことを嫌っている人が多いです。アンチも多かったことが、猪瀬氏を下回る得票数しか得られなかったのでしょう。しかし、それは石原氏の行政能力が猪瀬氏を下回ったことを意味しません。私は、石原氏の政治運営の手腕は大変高いと考えています。
彼が都政につく前の東京は、治安が悪化、『池袋ウエストゲートパーク』で描かれたように、チーマーやカラーギャングが跋扈して、悲惨な状況となっていました。しかし、彼を首班とする新宿浄化作戦のお陰で、東京の治安は劇的に改善されました。昔、ヤクザやチンピラが跋扈していた都下の実情は、今では記憶の外へ去りかけているようですが。
ところが、これからは、猪瀬氏が批判の矢面に立ちます。
これまで彼に興味を持っていなかった人々も、彼一人を見るようになるので、上記のような彼の性格に、おいおい気がついてくるでしょう。
そして、人気はどんどん落ちていきます。
人気が下がるに連れて、人々の心は離反していきます。
それを彼は、これから一人で耐えていかねばなりません。
その時、彼をかばってくれる目上の人間はいないでしょう。
なにしろ、老人の嫉妬は怖い。
石原慎太郎を上回る得票数を、彼が得てしまったという事実により、石原元都知事から嫉妬されることは間違いありませんからね。
それが、今回の史上最多得票を得たことの意味です。
さて、明日は猪瀬氏のノンフィクション作家としての能力に疑義を呈した『偽りのノンフィクション作家 猪瀬直樹の肖像』についての紹介記事を書きます。
-------------------------------------------------------------
2012年12月19日水曜日
猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ①
昨日予告していたとおり、今は絶版となっている『偽りのノンフィクション作家 猪瀬直樹の肖像』(以下『偽りのノンフィクション作家 猪瀨直樹 林洋著』)の内容をご紹介しましょう。
長くなりましたので、いくつかに分割します。
「チーム」という聞きなれない出版社から刊行されたこの本は、現在中古本市場で3,000円(2022年現在¥6千円越える)以上の価値がついています。
もともと1,300円の本が2倍以上の値段となっているのには、それ相当の理由があります。
今や都知事となった猪瀬氏。
彼が文藝春秋社から出版した『交通事故鑑定人S氏の事件簿』(以下『交通事故……』)を絶版に追い込み、ノンフィクション作家としての資質に「ノー」をつきつけた、匕首のような作品だからです。
その帯には、白地に黒で、このように挑戦的な言葉が踊ります。
拝啓 文藝春秋社 社長様
猪瀬直樹著『交通事故鑑定人S氏の事件簿』文藝春秋社刊)は、徹頭徹尾の欠陥ノンフィクションですので、リコール広告を出し、読者に代金をお返しして全数回収してください。
交通事故鑑定人 林洋
アマゾンレビューではすべての評者が☆5つをつけています(2012年19日現在)。
それだけ『偽りの……』の内容は凄まじいのです。
そもそものきっかけは、猪瀬氏が『交通事故……』の元となる記事を、1987年に雑誌に発表したことに始まります。
「交通事故鑑定人」とは、中立的立場から交通事故の「真相」を明らかにするプロのことをいいます。
1987年当時の日本には、損害保険会社や企業に属さない中立的立場の交通事故鑑定人は、10人ほどしかいない、貴重な存在でした。
猪瀬直樹はこの交通事故鑑定人の一人、S氏に1986年に取材をして、彼の推理、仕事ぶりに感銘を受け、ドキュメンタリー記事を1987年に雑誌に発表します。
S氏は交通事故鑑定の世界では不遇をかこっていた人物のようですが、猪瀬氏のお陰で一躍時の人となったものの、その年に不運にも亡くなってしまいました。
S氏の最後の薫陶を受けた猪瀬氏にとって、
「自分がS氏に代わって、交通事故鑑定業界に風穴を開けてやる!」
という、気負いのようなものを、そのとき、感じたのかもしれません。
ちなみにS氏とは、自動車事故工学解析研究所の所長であった鈴鹿武のことですので、これ以降は、鈴鹿氏と記述することにしましょう。
その7年後、1994年にこの一連のドキュメンタリーが、文藝春秋社から『交通事故鑑定人S氏の事件簿』にまとめられて出版されたのでした。
この書籍によって猪瀬氏は、交通事故鑑定にも一廉の見識をもつ、専門家の1人と目されるようになりまして、そこから彼の攻勢が始まります。
交通事故鑑定の権威者であった江守一郎・成蹊大学名誉教授の批判を1994年、週刊文春9月8日号から始めたのです。江守氏の鑑定が杜撰なのではないか、という疑義を呈したのです。
その反響は大きく、10月6日号で、さらに江守氏に追撃の手を加えるのですが、その中で彼が言及したのが、『偽りの……』の作者である林洋氏なのでした。江守氏を批判するついでのように林氏に痛烈な侮辱を投げかけたのです。
これには伏線がありました。猪瀬氏の尊敬する鈴鹿氏の鑑定を、林氏が生前に2度叩き潰しており、鈴鹿氏はそれを恨みながら死んでいったのです。猪瀬氏にとっては、恩師の恨みを7年ごしで討ったつもりだったのかもしれません。
~猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ②に続く~
-------------------------------------------------------------
猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ②
新都知事となった猪瀬直樹氏が、かつて1987年に雑誌に発表し、1994年に刊行した『交通事故鑑定人S氏の事件簿』(以下、『交通事故……』)。
猪瀬氏は、この本の出版を契機に、交通事故鑑定に詳しい人物としてメディアで発信を始めます。
1987年に週刊文春10月6日号で、江守一郎という交通事故鑑定の権威に挑戦状を叩きつけました。
江守氏を斬り、返す刀で切りつけたのが、もう一人の交通事故鑑定の権威、林洋でした。
林氏については、
★ 交通事故鑑定人 林洋のページ
★ 魂の仕事人 交通事故鑑定人 林洋氏 その一
★ 魂の仕事人 交通事故鑑定人 林洋氏 そのニ
★ 魂の仕事人 交通事故鑑定人 林洋氏 その三
をお読みになったほうが、より人物像を理解できるでしょう。
林氏と猪瀬氏の応酬の流れについて説明します。
A 猪瀬氏が林氏を週刊文春誌上で批判(1994.10)
↓
B 林氏が猪瀬氏と出版社に厳重抗議
↓
C 文藝春秋社編集部が林氏に話し合いを提案、林氏は懐柔されるつもりはない、とこれを拒否
↓
D 林氏、『交通事故……』所収の全5事例全ての誤りを指摘した小冊子30冊を作って各方面に配布したが、ほぼ黙殺される
↓
E 林氏の弾尽きたと判断したのか、猪瀬が第二弾の批判(1995.10)
↓
F 林氏、雑誌「宝島30」にて詳細に、猪瀬本の過ちを指摘(1995.11)
↓
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
↓
H 林氏、上記小冊子を元に下に掲載した本を上梓(1996.3)
この流れにそって、どのような応酬が二人の間にあったのかを、くわしくみていきます。
A 猪瀬氏が林氏を週刊文春誌上で批判(1994.10)
週刊文春誌上で猪瀬氏は、次のように林氏を批判します。
……拙著『交通事故鑑定人S氏の事件簿』に登場するような、徹底的に現場にこだわる鑑定人は少ないのだ。
たとえば朝日新聞の「ひと」欄(89年3月26日)に「自動車事故の鑑定でホームズと呼ばれる林洋さん」が登場したことがあった。記事には「昨年は八十五回、法廷に」「開業以来四年間に取り扱った事故は二千五百件」とある。さらに林鑑定人自身が「迅速に、内容ごとに定価を決めてやっているので、全国の鑑定の、たぶん半分が私のシェア。月平均の鑑定料収入七百万円」と豪語している。「ひと」欄の記者は、五十七歳(当時)のこの人物の発言にいかがわしい臭いを感じなかったのだろうか。裏も取らずに自慢話を載せてしまう感覚は理解しがたい。年八十五回法廷に立つ、ということは三日に一回の割合で裁判所を回ることになり、しかもその間、一年に六百件、つまり一日に二件の割合で鑑定書を仕上げたことになる。物理的にあり得ない。もしほんとうなら、記者は逆に追及すべきだ
こういうでたらめな人物が、最高裁のデータでは江守鑑定人の三十件に次ぐ、第二位の九件の鑑定を裁判所に依頼されてやっている。まことに憂うべき事態ではないか。
一見、もっともな指摘です。ところが、のっけからこの記事は間違っていたようです。
裏も取らずに自慢話を載せてしまう感覚は理解しがたい。
と朝日新聞記者を批判するふりをして、林氏の実績に疑義を投げかけていますが、こんなことは当時の公的な記録を調べればすぐに分かることです。
林氏はすぐさま、昭和53年当時の裁判所出廷記録、鑑定依頼・発行依頼の原簿の写しを猪瀬氏に送ったところ、猪瀬氏はぐうの音も出なかったそうです。
次に、鑑定書の多さについて。
林氏はこう反論しています。
……次に私の「鑑定書多発の罪」の告発であるが、(中略)これは、朝日新聞に記事が出た平成元年(1989)の当時は、まだ、むち打ち症関連の裁判が多かったためである。(中略)平成元年当時、私の鑑定書発行件数が多かったのは、むち打ち症疑義事案の保険会社対受傷主張者間の話合いのための、つまり、裁判以前の和解交渉段階の「簡易鑑定」が多かったためである。また、裁判所出廷回数が多かったのは、むち打ち症関係の債務不存在確認請求訴訟の証人尋問呼び出しが多かったためである。現在の証人尋問出廷のペースは年間四十回前後である。
まあ、これだけでは、簡易鑑定にかかる労力、当時の裁判の実情などがわからないので、どちらが正しいのか、なんとも言えません。
~猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ③に続く~
-------------------------------------------------------------
猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ③
A 作家・猪瀬直樹が交通事故鑑定人・林洋を週刊文春誌上で批判(1994.10)
↓
B 林氏が猪瀬氏と出版社に厳重抗議
↓
C 文藝春秋社編集部が林氏に話し合いを提案、林氏は懐柔されるつもりはない、とこれを拒否
↓
D 林氏、『交通事故……』所収の全5事例全ての誤りを指摘した小冊子30冊を作って各方面に配布したが、ほぼ黙殺される
↓
E 林氏の弾尽きたと判断したのか、猪瀬が第二弾の批判(1995.10)
↓
F 林氏、雑誌「宝島30」にて詳細に、猪瀬本の過ちを指摘(1995.11)
↓
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
↓
H 林氏、上記小冊子を元に下に掲載した本を上梓(1996.3)
B 林氏が猪瀬氏と出版社に厳重抗議
昨日は、Aについて説明しました。
猪瀬氏は林氏の鑑定数が大変多いことを挙げて、異常な数だ、だから杜撰だろう、という推定を述べています。
ただし、
・どう杜撰なのか、証拠をまったく挙げない。
・「数が多いから杜撰だろう」という印象を述べるだけ。
という問題点がありました。
その上猪瀬氏は、林氏の自己申告する仕事量自体、嘘ではないかという疑いを文章にさらっと差し込んで、林氏の根本を否定しますが、そんな、当時の事故資料を調べれば簡単に分かるようなことを、まったく確認せずに濡れ衣を着せていたことが分かりました。
私、高名な職業作家が、ある人物の業績を批判する際は、証拠をもとに行うものだと思っていました。
ところが猪瀬氏、何の証拠もなく、印象、インスピレーションだけで、そもそも江守氏批判という論文趣旨とは関係のない人物を、イメージの傍証のために突然公共の場に引きずり出して、自分の有利な社会的立場を利用してエビデンス無しに面罵を加える、ということを平気で行うのです。
ちょっと驚きますよね。
結局、この2人の応酬の過程で、猪瀬氏は最初から最後まで、林氏の仕事がほんとうに杜撰なのかを具体的に示すことは「何一つ」できないのです。
C 文藝春秋社編集部が林氏に話し合いを提案、林氏は懐柔されるつもりはない、とこれを拒否
もちろん、林氏は猪瀬氏と出版社に、抗議の手紙を出します。
ところが、猪瀬氏はこれを黙殺、出版社からは、
拝啓 十月十日にお送りいただいたお手紙、さっそく拝見いたしました。私が察しますに、林様と猪瀬氏との間で、多少の見解の相違があるのではないかと思われます。つきましては、一度お二人に直接会っていただき(私も担当編集者として同席いたします。)各々のお考えについて、心ゆくまでお話いただいてはいかがでしょうか。後日あらためて当方より連絡させていただきます。よろしくご検討ください。
敬具 平成六年十月二十四日
という手紙が届きます。
誌上討論をよびかけるのでもなく、単なる酒席の場を設けて、懐柔しようという、出版社が訴訟を起こされるのを未然に防ぐためによくやる手口です。
むろん、林氏はこれを拒絶します。
そして、訴訟を検討するのですが、林氏、
(待てよ)
と思い返します。
(向こうがその気ならば、猪瀬の作家としての仕事がどれだけ杜撰なのか、プロの交通事故鑑定人として徹底的に公開の場で戦ってやろう)
よほど技量に自信がなければ考えられない不利な方法をあえて取るのです。
『修羅の門』というマンガでは、主人公の陸奥九十九が、自分が伝承する陸奥圓明流が最強であることを証明するために相手の得意とする分野で戦います。
それを思いだしました。
くりぃむしちゅーの上田なら、
「ブハハハwwwそこは名誉毀損訴訟で一気に終わらせちまえよwww」
と笑うところですが。
~猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ④に続く~
-------------------------------------------------------------
猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ④
「猪瀬直樹・東京都知事候補の支援者たちが堂々と選挙違反!」より
「新都知事・猪瀬直樹氏について、あなたはどの程度御存知ですか?」
最近、折にふれて友人知人に尋ねるようにしています。そして、最多得票を得たというのに、新都知事のことを誰もがほとんど知らないことに驚きました。猪瀬氏はこれまで、小泉純一郎や石原慎太郎のようなカリスマの手足として活躍してきました。それ故に、日中の月のように、彼に注目が集まることがなかったせいでしょう。
果たして、猪瀬氏は指導者として適切な人物なのでしょうか?
誰もがすぐに挙げるのは、思い込みが強く、頑固、といったところです。……これは、指導者として一見、必要な資質です。
ただ、その強固な価値観に合致しない相手が自分よりも劣っていると、かさにかかって難癖をつけ、怒鳴りつけるような人物だったとしたら?
弱い立場の人間を威圧することで、自分の社会的地位を確認するタイプの人物だとしたら?
もっと言えば、理屈の通らない弱者イジメが好きな嗜虐的性格の持ち主だとしたら?
決して指導者としてふさわしいとは言えません。
もちろん、威圧的でも優秀な人間はいます。例えばスティーブ・ジョブズとか。ただ、彼は間違いがあれば即座にそれを認め、謝罪はしなくとも、すぐに何らかの対応を行うという美徳がありました。だからこそ、優秀な指導者として亡くなった後でも敬愛されています。その上、彼自身が複雑な生い立ちで、なおかつ大きな挫折を味わってきたため、弱者に対して優しい目を向けることを忘れませんでしたし、自分の欠点を正直に開示し続けてきました。
ところが猪瀬氏の昨今の言動からは、自分の欠点を覆い隠し、それを指摘されると見当違いのことを言ってはぐらかし、論理的に説明をすることではなく、威圧的に命令し、怒鳴りつけて物事を進めていくという人物であることが透けてみえます。
そんな彼が今から約20年前、権力を持たない弱い人間だと思って噛み付いたものの、一癖も二癖もある有能な人物が相手だったため、しっぺ返しをくらったことがありました。その時の彼の態度、行動を紹介することで、彼の人間としての原理原則をあぶりだす……これがここ数日のブログの目的です。
A 作家・猪瀬直樹が交通事故鑑定人・林洋を週刊文春誌上で批判(1994.10)
↓
B 林氏が猪瀬氏と出版社に厳重抗議
↓
C 文藝春秋社編集部が林氏に話し合いを提案、林氏は懐柔されるつもりはない、とこれを拒否
↓
D 林氏、『交通事故……』所収の全5事例全ての誤りを指摘した小冊子30冊を作って各方面に配布したが、ほぼ黙殺される
↓
E 林氏の弾尽きたと判断したのか、猪瀬が第二弾の批判(1995.10)
↓
F 林氏、雑誌「宝島30」にて詳細に、猪瀬本の過ちを指摘(1995.11)
↓
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
↓
H 林氏、上記小冊子を元に下に掲載した本を上梓(1996.3)
D 林氏、猪瀬直樹著『交通事故鑑定人S氏の事件簿』所収の全5鑑定全ての誤りを指摘した小冊子30冊を作って各方面に配布したが、ほぼ黙殺される
林氏は『偽証鑑定』という小冊子を作って、猪瀬氏が紹介した鈴鹿氏の5鑑定が、どのように誤っているかを指摘する冊子を作りました。
そもそも猪瀬氏は、林氏の鑑定数が異常に多く、自身が信頼する鈴鹿氏の鑑定が少ないことをもって、林氏の仕事ぶりを杜撰だと決めつけたのですが、事実は逆なのです。
裁判では、交通事故時の記録と、それをもとにした鑑定が、裁判資料として利用されます。証人尋問時には反対尋問によって裁判官の目の前で徹底的に批判されます。三審制のもと、あるときは検事に、あるときは弁護士によって徹底的に検証されるため、それに耐えうるものでなくてはなりません。曖昧な鑑定、論理性の低い鑑定はすぐ、その矛盾を突かれるので怖くて利用できません。
ところが鈴鹿氏の鑑定は、インスピレーションや思いつきによるものが多く、科学的検証に耐えうるものではなく、仕事がこなくななったのです。逆に林氏の鑑定結果は大変論理的整合性に優れていたために、依頼を受ける鑑定数が多くなったのです。それがこの両者の差なのです。
実際のところ、林氏は鈴鹿氏の交通事故鑑定を2件叩き潰しているのだとか。
結局、鈴鹿氏は仕事がないので、勝ち目の薄い仕事を受けざるを得なくなり、
……まともな鑑定人は依頼を断るような事案が、もっぱら最後の受け手であるエセ鑑定人の許に届くことになる。また仕事が減っているから、後先を考えずに何でも引き受けてしまう。こうしてエセ鑑定人の悪循環が続くことになる(『偽りのノンフィクション作家猪瀬直樹の肖像』P126)
のでした。
そんな鈴鹿氏の晩年の交通事故鑑定を集めたのが『交通事故……』なのですから、いい加減なことばかりが書かれていたのも、当然だったのかもしれません。
内容については『偽りの……』をご覧になっていただきたいところです。大変精緻な検証が続くので、興味のある方は本を手にとって直接お読み頂いたほうが早いと思うので、詳細はここには書きません。
このブログに、そこを事細かに記しても、あまり面白く無いかもしれませんから。詳しくは後で一例だけ述べることにして、今は先に進みます。
とりあえず、この小冊子がほとんど黙殺されたことだけは確かです。
評論家の佐高信が『エコノミスト』が林氏の小冊子を「現場の怒りを体現して鋭い」と書き、『週刊新潮』が1995年9月14日号に少し触れただけで終わったのですから。
E 林氏の弾尽きたと判断したのか、猪瀬が第二弾の批判(1995.10)
猪瀬氏は林氏がそれ以上、何もできないということを見越した上で、「週刊文春」1995年10月26日号にて、林氏の小冊子について、次のように反論を載せました。
交通事故の鑑定人を主人公にした単行本を出したところ、最近になって、奇妙な人物が現れて、「嘘と誤解を世間に間違った認識を与える悪書」だから回収しろ、と声高に叫ぶのである。(中略)いったい、なにを根拠に、どのような資料にもとづいて、このような判断が可能なのだろうか。ほんとうに驚いてしまう。なにしろ、交通事故鑑定は、まず交通事故鑑定人が現場に行く事が先決で、手間の掛かる仕事だからである。(中略)僕を批判するためにS氏(鈴鹿氏)の鑑定まで偽証だと言ってのけるのである。これでますます僕は確信を持った。なにしろ二次資料から鑑定するほどの"やり手"ということを。(中略)S氏は、ある事件解決のため、現場を再現しようと精密な模型を作ったことがあった。おかげでそれほど広くない借家の一間はその模型で占領されてしまった。(中略)ようやく模型が完成したとき、S氏は「わかった」と言った。それから「もう壊してよい」と付け加えた……。僕は晩年のS氏と対話を繰り返し、法廷にも通い、弁護士とも話し合い、また現場にも訪れて目撃者や被告人などに取材した。その結果、S氏の完全主義の仕事哲学に共鳴したのである。
林氏制作の小冊子には、林氏による詳細な図解入りの反論が載せられていましたが、
猪瀬氏はそれに具体的な反論を一切行いません。
ひたすら印象操作だけでことをすませようとします。
~猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ⑤に続く~
-------------------------------------------------------------
猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ⑤
「猪瀬直樹・東京都知事候補の支援者たちが堂々と選挙違反!」より
A 作家・猪瀬直樹が交通事故鑑定人・林洋を週刊文春誌上で批判(1994.10)
↓
B 林氏が猪瀬氏と出版社に厳重抗議
↓
C 文藝春秋社編集部が林氏に話し合いを提案、林氏は懐柔されるつもりはない、とこれを拒否
↓
D 林氏、『交通事故……』所収の全5事例全ての誤りを指摘した小冊子30冊を作って各方面に配布したが、ほぼ黙殺される
↓
E 林氏の弾尽きたと判断したのか、猪瀬が第二弾の批判(1995.10)
↓
F 林氏、雑誌「宝島30」にて詳細に、猪瀬本の過ちを指摘(1995.11)
↓
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
↓
H 林氏、上記小冊子を元に下に掲載した本を上梓(1996.3)
F 林氏、雑誌「宝島30」にて詳細に、猪瀬本の過ちを指摘(1995.11)
林氏の主張は黙殺されてしまいそうに見えましたが、猪瀬氏が林氏の反論に反応したために、逆に業界の注目を浴びてしまったようです。
「雉も鳴かずば撃たれまい」
といいますが、まさに猪瀬氏、墓穴を掘ってしまいます。
『偽証鑑定』を書き上げ、マスコミ各社に送付したにも関わらず、反論の場を提供しようという出版社はなく、半分諦めていた私のところに『宝島30』の編集長から連絡があった。
昔は猪瀬のようなメディアの寵児に反論するためには、ひたすら出版社などのお声がかかるのを待つしか方法がありませんでした。
それが今なら簡単に自分のサイトで反論し、そこに説得力があるのならば、すぐにTwitterで拡散していくのが今の世の中。当時、林氏はご苦労されたようです。隔世の感があります。
それはともかく『宝島30』の誌面を提供された林氏、『偽証鑑定』に書いた内容のうち、2鑑定をさらに掘り下げて、検証を行ったのです。その影響は小さくなかったようです。
林氏にとって、猪瀬氏や彼が師事する鈴鹿氏の考え方は到底我慢できるものではありませんでした。
・最低限の知識のない人間が現場にきても、意味ある情報を把握することが出来ない。
・事故の直後にノウハウを持った警察官によって行われる実況見分や、事故調査会社の調査報告書から意味ある情報を手に入れることのほうが大切。
という信念を持っている林氏にとっては、闇雲に事故現場を歩き出して珍説をひねくり出す鈴鹿氏も、交通事故や自動車の構造上の仕組み、物理法則について知識を持たずに専門外から口を挟む猪瀬氏も、我慢ができない存在だったのです。
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
林氏、猪瀬氏、それと猪瀬氏側には交通事故の専門家なる二瓶弁護士がつきそい、1995年11月17日に宝島編集部で討論が行われました。
このときの討論の題材となったのは、猪瀬氏が鈴鹿氏の名鑑定として第一話に挙げた「左折事故の恐怖」でした。
これ、説明が難しいので……。続きは明日にしましょう(汗
~猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ⑥に続く~
猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ⑥
「猪瀬直樹・東京都知事候補の支援者たちが堂々と選挙違反!」より
A 作家・猪瀬直樹が交通事故鑑定人・林洋を週刊文春誌上で批判(1994.10)
↓
B 林氏が猪瀬氏と出版社に厳重抗議
↓
C 文藝春秋社編集部が林氏に話し合いを提案、林氏は懐柔されるつもりはない、とこれを拒否
↓
D 林氏、『交通事故……』所収の全5事例全ての誤りを指摘した小冊子30冊を作って各方面に配布したが、ほぼ黙殺される
↓
E 林氏の弾尽きたと判断したのか、猪瀬が第二弾の批判(1995.10)
↓
F 林氏、雑誌「宝島30」にて詳細に、猪瀬本の過ちを指摘(1995.11)
↓
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
↓
H 林氏、上記小冊子を元に下に掲載した本を上梓(1996.3)
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
の続きです。
この時の討論の題材となったのが『交通事故鑑定人S氏の事件簿』の第三章第一話のタンクローリーの当て逃げ事故でしたので、この事故について簡単に説明します。第三話である小学校教頭の当て逃げ事故についても取り上げられていますが、冗長になるため、ここでは割愛します。ご興味のある方は、下記の本を購入ください。
事件の概要はこうです。
タンクローリーの運転手が交差点を左折しようとしていたとき、自転車に載っていた電力会社社員をひいてしまいました。この会社員は死亡、運転手が罪に問われますが、運転手の勤める運送会社が鈴鹿鑑定人に鑑定を依頼して「運転手には過失責任がない」ことを証明した、というものです。
この事件の目撃者である交番の巡査が、
「被害者は自分の立っていた交番から、横断歩道を自転車に乗って反対側へ渡ろうとしていたときに、タンクローリーがやってきた。被害者が右足で踏ん張ったために自転車がひっくりかえり、そこにタンクローリーがぶつかって被害者も跳ね飛ばされて亡くなった」
と証言しています。
運転手の言い分はこうです。
「横断者に気づかず、横断歩道を渡ったところでガチャガチャという音がしたので車を停めて確認したところ、右前後輪に自転車がからまっていた」
被害者はタンクローリーの右2、3メートル後方にうつ伏せに倒れて即死状態だったそうです。
さて、鈴鹿氏はどのように推理したのでしょうか。
タンクローリーのタイヤに踏まれて折れ曲がった自転車に、鈴鹿氏は注目します。
Aの右側支柱(下図の見えている側)には、タンクローリーのフロントバンパーの塗料痕がついていました。
もしも自転車が警察官の証言する通りに交番側からやってきたのならば、Aの部分の左側支柱に、タンクローリーのバンパーの塗料痕がついていなければならないのに、それがないのはおかしい。
そして、BとCの2ヶ所には裏側にタイヤで踏まれた痕があります。
このようなことが起こる理由は、タンクローリーのフロントバンパーによってまず自転車にぶつかり、Aの部分がひかれた後、さらにタンクローリーの左後輪で自転車のBとCの部分が押しつぶされた、ということです。
猪瀬氏はこう結論づけました。
自転車に刻印された二条のタイヤ痕は、タンクローリーが左折するときの内輪差によって生じたものだった。(中略)そして被害者の自転車に残された二条のタイヤ痕をあてはめれば、左折による巻き込み事故であることが証明できる。(中略)N弁護士に語らせよう。『被害者はまずタンクローリーのバンパーにぶつかり、それから車輪に巻き込まれました。歩道にあった工事のための高さ三メートルの鉄柵によって、U運転手には被害者が横断しはじめるところは見えませんでした。それでバンパーにぶつかってしまったのです』(中略)U運転手にとって、H被害者の自転車は死角に入っていて見えなかったということになった(『交通事故……』P126~128)
――鉄柵。
もしも、被害者がタンクローリーの左側から走ってきたのだとすると、タンクローリーの左側にあった鉄柵が、視界を妨げていたということが証明されます。運転手のせいではなく、工事のための三メートルの鉄柵が、運転手の視野を妨げていたのであり、運転手の責任ではなくなります。
結局、運転手は実刑を免れました。
ところが、討論以前に、猪瀬氏は交通事故における「テクニカルターム(専門用語)」が全然分かっていませんでした。
「内輪差による巻き込み事故」
とは、バンパーにぶつかり、前輪でひかれた後に、後輪でひかれること、ではありません。
大型トラックのように大きな自動車が、交差点を曲がる時には、前輪を避けても、後輪はそれよりももっと内側の軌道を描きます。
車体側面にぶつかった被害者が、自動車の床下に押し倒され、巻き込まれるようにして後輪にひかれることが「内輪差による巻き込み事故」といわれるものです。
よって、この事故は自転車が右側から走行したにせよ、左側から走行したにせよ、「全面押し倒し事故」(『偽りの……』P205)と呼ばれるものです。決して「内輪差による巻き込み事故」ではありません。それは、「宝島30」の編集者が警察庁広報課に確認して、厳然としたテクニカルタームであることが判明しています。
さらに、タンクローリー左方から自転車がやってきて、その荷台後輪(Aの部分)がぶつかったとしたら、自転車がタンクローリーの全面にすっぽりと入っていたというこであり、そこまで自転車が視界に入っていながら「横断者に気づかず」、ひいた後もわからない、ということは考えられません。
その上、自転車もはねられた人も、タンクローリーの右側に倒れているのです。それが何故なのか、猪瀬氏はまったく説明しておりませんし、鈴鹿氏もこれについて言及していないのです。
さらに、討論で明らかになったことは、自転車が引かれたのは、タンクローリーの右の車輪だったと鈴鹿氏が証言していたことです。それだと、内輪差などはなんの関係もありませんよね?
次回がラストです。いやぁ、長かった。
~猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ⑦に続く~
-------------------------------------------------------------
猪瀬直樹・新都知事のとある一面について ⑦
「猪瀬直樹・東京都知事候補の支援者たちが堂々と選挙違反!」より
A 作家・猪瀬直樹が交通事故鑑定人・林洋を週刊文春誌上で批判(1994.10)
↓
B 林氏が猪瀬氏と出版社に厳重抗議
↓
C 文藝春秋社編集部が林氏に話し合いを提案、林氏は懐柔されるつもりはない、とこれを拒否
↓
D 林氏、『交通事故……』所収の全5事例全ての誤りを指摘した小冊子30冊を作って各方面に配布したが、ほぼ黙殺される
↓
E 林氏の弾尽きたと判断したのか、猪瀬が第二弾の批判(1995.10)
↓
F 林氏、雑誌「宝島30」にて詳細に、猪瀬本の過ちを指摘(1995.11)
↓
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
↓
H 林氏、上記小冊子を元に下に掲載した本を上梓(1996.3)
G 林氏と猪瀬氏、雑誌「宝島30」誌上で討論したが、紛糾して終了(1996.1)
の続きです。
林氏が指摘することに対して、猪瀬氏と彼が連れてきた二瓶弁護士の反論はお粗末なものでした。
テクニカルタームが間違っていたことに対して、
「あのね、ここには『左折による巻き込み事故』とは書いてあるけれど、『内輪差による事故』とは書いてないでしょ」(猪瀬)
「それは単なる言葉の問題だよ」(二瓶)
という反論にならない反論を行います。
「自転車に刻印された二条のタイヤ痕は、タンクローリーが左折するときの内輪差によって生じたものだった」
と書いていたのは、猪瀬さん、あなたですから!! 残念!!
専門用語の使い方が間違っていれば、そうだと認めればいいのに。
宝島編集部は討論の前に、猪瀬氏のもとを訪れ「自転車は左の前前輪と前後輪でひかれたと説明された」そうです。それを討論の場で確かめられた猪瀬氏は「それは内輪差の説明をするため」だったという意味の分からない言い訳をします。
さらには、死角がどのように動くかについて林氏が、
「二瓶氏の言うとおりだとすると、たしかに交差点の手前でタンクローリーが停車していれば、斜線の部分は見えませんよ」
「しかし車が左折するために前進を始めると徐々にこの死角は狭くなって、手前の横断歩道を越えた時点でなくなるんです。仮に自転車がタンクローリーの左手から来たとしても、運転手は衝突前に充分視認できた。死角の事故なんかじゃまったくありません」
という、もっともな反論を行います。そりゃ、目の前に自転車がきても、分からない運転手は普通いません。
それに対して二瓶弁護士は、
「死角の事故なんて一切言っていない」
という苦し紛れの反論をします。
林氏が、本にそう書かれている、「じゃあ、嘘が書いているということになるね」と畳み掛けたところ、猪瀬氏「嘘とはなんですか、嘘とは」と答えるので精一杯。
二瓶弁護士も
「だからこれはS鑑定に対する私の感想というか、裁判で主張したことを猪瀬さんに伝えたものなんですよ」
という苦し紛れの助け舟を出すだけでした。
結局猪瀬氏はどう結論づけたのか。
「タンクローリーが右の車輪で自転車をひいたことは明らかである」ので、前輪と前前輪との間の内輪差によって、自転車に二箇所傷がついたということを「内輪差」という言葉で説明しただけ、という趣旨にすり替えたのです(「宝島30」)。
私も、このように毎日ブログを書いておりますと、大量の文章が積み重なっていくために、前後矛盾するようなことが出て参ります。そこを、ブログを読んだ人に指摘されることがありますが、その時には指摘されたことを感謝して、訂正に応じるようにしています。
ところが猪瀬氏は、反論自体を丁寧に精査するのではなく、相手との力関係を推し量って、発言権の弱い人間だと怒鳴りつけることで主張を通そうとし、相手が強いとこうやって言葉をすり替えることで、ことを済ませようとするのです。
上杉隆というジャーナリストがおりまして、この手の言い訳をよく行います。
ジャーナリストには、この手合いが多いのでしょうか……。
次第に林氏に反論できなくなった猪瀬氏は、
「あなたは鈴鹿氏の鑑定を直接みずして、自分の本だけを元に判断している、よっていい加減だ」
という、ドキュメンタリー作家としてどうなんだろう? 自分の本に対してプライドはないのか? と首を傾げる発言でなんとか誤魔化そうとして、この討論は終わりました。
……でもね、猪瀬さん。 さきに林氏の鑑定を一つも読まずに林氏を批判したのは、あなたなんですけれどね。
H 林氏、下掲載の書籍を上梓(1996.3)
林氏は一連の応酬をまとめて書籍にしていますが、ここにはその他の、猪瀬氏の犯したミスがいくつも網羅されています。
鈴鹿氏が鑑定をした裁判の結果が出た翌日に運輸省が大型トラックが巻き込み事故を起こさないような対策を取るように指示した、これは鈴鹿氏の功績だ、とかいう主張は噴飯物。運輸省が一裁判の翌日に、省令を出すようなことがあるはずもなく、半年前に決まっていたことを鈴鹿氏の功績に無理やり結びつけてみせるのです。
猪瀬氏の様々な牽強付会ぶりを喝破しているので面白いですよ。
林氏は、猪瀬氏が全共闘運動でアカデミズムを超えられると錯覚したものの、実力、考察が足りないために、権威によりかからねばアカデミズムを引き倒せないというコンプレックスを抱え続けているのではないか、という佐高信の分析を引用しています。
猪瀬氏には、権威へ挑戦しようとするスタンスで大衆を惹きつけるものの、そのために別の権威に頼らなければ自己を主張できない知識不足がと自身の欠如があるのでしょう。
その弱さを糊塗するために、より弱い者を叩いて自分を強く見せよう、という傾向があるように思えてなりません。そして、昨今の発言をみていくと、その傾向は強まりこそすれ、改めようとする気配に乏しいように感じられます。
猪瀬氏にこれから注目していく上で、この傾向を一つの指標として考察するのも、面白いかもしれません。
……ようやく終わった。明日からは別のテーマです。
-------------------------------------------------------------
#猪瀨直樹氏と事故鑑定林洋氏の応酬