過日の石油コンビナート計画は、もし出来ていたら沼津の税収は潤沢で、住民の市税も軽減され、市の公共施設も立派なものが揃ったことでしょう。人口も現在より、大幅に増えていたかもしれません。しかし、牛臥海岸には巨大火力発電所が鎮座し、その煤煙に沼津市内は悩んでいたかもしれません。静浦から江浦辺りは、巨大タンカーの接岸に伴い、ほぼ漁業は絶えたことでしょう。コンビナートの貯油タンクや精製所が出来る予定の三島市中郷や清水町辺りは、巨大な敷地で囲まれた、住宅空白地帯が生まれたことでしょう。
ここで、忘れてはならないのが、環境へ与える公害だけでなく、巨大施設により景観が一変してただろうと云うことです。例えば、今、牛臥公園からは富士山は見えませんが、江浦方面は淡島辺りまでが見える訳ですが、タンカーの停泊場所などで見えなくなったでしょうし、淡島辺りからは富士がよく見える訳ですが、火力発電で見えるかどうか。三島や清水町も同様で、巨大な石油タンクや精製工場がそびえ建てば、富士は見えぬし景観には大きな影響が出たでしょう。閉話休題。
さて、今回は新幹線が何故沼津駅が出来なかったかを調べた結果を記してみます。以下に東海道新幹線の主な歴史を記してみましょう。
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1958年(S33) 東海道新幹線計画が議会承認
1962年(S37) 3月 起工式
5月 鴨宮モデル線区(神奈川県)
1964年(S39) 7月 全線完成し試運転
10月 営業運転開始
11月 磐田市で保線作業員5名死亡、5名重軽傷事故
1965年(S40) 三島信号所開設(軽整備用施設と車両車庫・長泉町)
1969年(S44) 4月 三島駅を新設
1988年(S63) 新富士駅、掛川駅、三河安城駅の3駅の新設
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これを見て驚きます。つまり、着工からたった2年で完成し営業運転を開始していることです。これは、当時、東京オリンピックに間に合わせ国の威信を示したいという国策として、全線で同時多発的に工事を進めたということもあるのでしょう。しかし、普通なら新路線を作ろうと思えば、まずは路線を決め用地買収に相当の時間を要するはずです。
例えば、沼津市の鉄道高架事業でも、現在でも用地買収に応じない原地区の住民が存することをみても判ります。そして、新丹那トンネルとか長大なトンネル掘削には、相当程度の期間が必要になる訳です。そこには、事前の伏線となる計画着工して中断した、戦前・戦中のある計画があったのです。それは、以下の略称弾丸列車計画だったのです。
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戦前における弾丸列車計画
その背景
1932年(S7)頃、日本から朝鮮半島や中国大陸への輸送需要は急増していた。当時の彼の地への最短ルートは、東海道本線、山陽本線で下関まで行き、釜山連絡線で釜山に上陸後、朝鮮総督鉄道、南満州鉄道を利用するルートであった。ところが、当時既に東海道本線および山陽本線は輸送力が逼迫した状態であり、新たな幹線(新幹線)を建設すべしとの意見が高まった。
工事年表
1938年(S13) 鉄道省内で鉄道幹線調査分科会が設立。
1939年(S14) 鉄道幹線調査会が設立され、従来の別線として広軌(標準軌)による高速列車(最高200km/h・蒸気機関牽引区間は150km/h)のスペックとされた。東京から下関間の設置駅数は旅客駅は、東京、横浜、小田原、熱海、沼津、静岡、浜松、豊橋、名古屋、京都、大阪、神戸、姫路、岡山、尾道、広島、徳山、小郡、下関の18とされた。これには沼津が入っているのだ。
1940年(S15) 鉄道省が東京・下関間新幹線建設基準を制定、同年議会で広軌幹線鉄道計画が承認さて、1954年(S29)までに開通を目標とした15カ年計画が決定した。これに基づき、用地買収・工事が開始されることになった。
1941年(S16) 新丹那トンネル着工、1943年(S18)戦況悪化により工事中断。
1941年(S16) 日本坂トンネル着工、1944年(S19)完成。
備考【大陸へのルート】
当初は下関駅で関釜連絡船に接続するとしていたが、同航路連絡船を車両搬送ができる様に改造して客車を載せて釜山・北京へ直通する案や、海底トンネルを掘ることも将来的に想定されたという。海底トンネルを掘る際は、佐賀県の東松浦半島付近から海底に潜って壱岐島・対馬を経て行くのが建設費等の面から有力とされ、実際に海底調査もなされたらしい。また対馬と朝鮮半島の間(朝鮮海峡)は海底が深いため、海底に橋脚を建ててその上に載せたチューブの中を列車が走るなどといった案や、吊り橋にする案も出されたが、結局は軍部が魚雷攻撃に遭ったら運行不能になるということで反対したために、通常の海底トンネルで建設を行うこととされた。なお戦後も、日韓トンネルとしてこの区間にトンネルを掘る構想が一部で存在したらしい。
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この戦前の弾丸列車計画を見て、新たな新幹線がたった2年でできた大きな理由が判るのです。つまり主な路線はほぼ決定し、用地の買収も済ませて(戦前戦中のことでかなり威圧的に行われた様です。)おり、長いトンネルも日本坂は完成済み、新丹那も着工中断だったということなのです。なお、弾丸列車の停車駅に沼津が明記されていることは注目に値します。ということは、まだまだ蒸気機関車が多くを占める環境の中、沼津機関区の存在感が高かった様にも思います。
なお、新幹線路線の経路は、弾丸列車当時からか現新幹線建設時に新たに変更したのかは明確ではないですが、三島駅までは従来駅とほぼ並列ですが、沼津駅から静岡までは、従来の東海道本線より山側を通る路線に変更されています。これは、原、吉原辺りまで、元々浮島と云われる地区で、地盤が軟弱であることから、根方街道の更に山側を切り通す路線に変更された様です。
さて、やっと本論たる沼津駅ができなかったという問題に触れますが、新幹線開通の翌年には三島信号所開設と記されています。これは、新幹線のメインの車庫は、東京大井にあるのですが、そのすべてを東京始発して入線させるとなると、ポイントの切り替えなど含め効率的でないことが判って来たのだと思います。それは、予想を超えて東海道新幹線の運行本数需要があることが認識されたが故でしょう。
そこで、三島車庫(長泉町本宿高架上)に5編成程度の車庫を準備し、朝1番の上り列車の「こだま」として東京まで運用し、折り返しは「ひかり」もしくは後年の「のぞみ」として博多まで走るという方式です。三島始発の「こだま」入線と、大井から入線の始発電車を相互に切り替えることにより、増発を可能にしています。
これに類似したものとして、後年に品川駅も作った訳です。品川始発と東京始発を相互に切り替えることで、到着後に再始発するまでの清掃などのアローアンスを生み出すことで、10分間隔ほどでの「のぞみ」運行という、JR東海以外が嫉む程の黄金路線をさらに過密ダイヤにして荒稼ぎをしている訳です。
とまた、本論が長引きましたが、JRとしては、従来線に100m程離れているとはいえども平行な三島車庫の分岐がある三島駅を作った方が良いだろうという思いはあったであろうと思います。しかし、弾丸列車の当時から沼津駅を入れていましたから、沼津に打診はしたのだろうと想像します。だたし、従来駅との並列は不可能であり、作るとしたら大岡もしくは岡宮辺りの根方街道と付近の直線路辺りであったろうと想像するのです。そして、ケチな国鉄(今のJRは更にケチ)なことですから、駅の造営費の半分ぐらいは自治体で持てぐらいのことを云ったとは私の想像です。これに対し、既存駅と離れるのは魅力ないし、駅の造営費負担も困ると云うのが当時の自治体長(市長)の判断だったのではと思えます。結局のところ、JRは車庫を作った三島に既存駅と並列に新駅を全線開通から5年後に設営します。この際、三島市に幾ら負担させたのか、詳細は不明です。まあ、三島から沼津間は、僅か既存のJR線で乗車時間5分の距離ですから、大きな問題はないと云うことだったのでしょう。ところで、この沼津駅の賛成反対の論議は、Netで様々探索する限り見られませんでした。
ところで、三島駅増設から18年を経たS63年に新富士駅、掛川駅、三河安城駅が新設されます。この内、新富士駅は既存駅とかなり離れた独立駅です。この新たな三つの新駅ですが、想像ですが地元自治体および特定企業の大きな力が働き実現(当然費用負担も)したのだろうと想像します。新富士は悪名高き日本最大の新興宗教集団でしょうし、三河安城はここから10キロ圏内にあるトヨタ自動車本社が該当するでしょう。掛川は自治体の大いなる要請があったのでしょう。しかし、これら新設3駅の乗降数は、先の新興宗教の本殿が喪失してしまってからは、三島に比べれば大きく見劣りし、存在価値があるのか疑うべきものです。
以上述べてきた様に、新幹線沼津駅は特段の反対運動はなかったと云うのが、私の得た結論です。ついでに、賛成とか反対でなく、地方自治体の興隆を図る要素として、有力な企業とか組織など誘致できるかということについ述べて本論を締めくくろうと思います。この様な街の発展に寄与する誘致ですが、誰にその帰趨が掛かるかといえば、それは間違いなく行政官の長たる市長と市議会でしょう。申し訳ないけど、賛成反対と念仏唱え、各町内会だけの利益代表みたいなボンクラ市会議員に、その様な命題を求めるとは、能力的にも不可能なことでしょう。市長は、沼津市という年間予算数十億の行政組織の長であり、企業で云えば代表取締役社長の立場であり、必要があれば市職員に命じて、各種調査や事前根回しなど命じることができる地位にある訳です。その様な視点で眺めると、近代の沼津市にその様な誘致の視点で、目に付く活動を行った名経営者に相当する市長は存在しなかった様に思えて来ます。
余談
函南町上沢に字名”新幹線”という地があるそうです。これは戦前に新丹那トンネルの掘削工事が始まった際に、現場作業員の宿舎が建設された際に名付けられた地だそうです。
ここで、忘れてはならないのが、環境へ与える公害だけでなく、巨大施設により景観が一変してただろうと云うことです。例えば、今、牛臥公園からは富士山は見えませんが、江浦方面は淡島辺りまでが見える訳ですが、タンカーの停泊場所などで見えなくなったでしょうし、淡島辺りからは富士がよく見える訳ですが、火力発電で見えるかどうか。三島や清水町も同様で、巨大な石油タンクや精製工場がそびえ建てば、富士は見えぬし景観には大きな影響が出たでしょう。閉話休題。
さて、今回は新幹線が何故沼津駅が出来なかったかを調べた結果を記してみます。以下に東海道新幹線の主な歴史を記してみましょう。
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1958年(S33) 東海道新幹線計画が議会承認
1962年(S37) 3月 起工式
5月 鴨宮モデル線区(神奈川県)
1964年(S39) 7月 全線完成し試運転
10月 営業運転開始
11月 磐田市で保線作業員5名死亡、5名重軽傷事故
1965年(S40) 三島信号所開設(軽整備用施設と車両車庫・長泉町)
1969年(S44) 4月 三島駅を新設
1988年(S63) 新富士駅、掛川駅、三河安城駅の3駅の新設
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これを見て驚きます。つまり、着工からたった2年で完成し営業運転を開始していることです。これは、当時、東京オリンピックに間に合わせ国の威信を示したいという国策として、全線で同時多発的に工事を進めたということもあるのでしょう。しかし、普通なら新路線を作ろうと思えば、まずは路線を決め用地買収に相当の時間を要するはずです。
例えば、沼津市の鉄道高架事業でも、現在でも用地買収に応じない原地区の住民が存することをみても判ります。そして、新丹那トンネルとか長大なトンネル掘削には、相当程度の期間が必要になる訳です。そこには、事前の伏線となる計画着工して中断した、戦前・戦中のある計画があったのです。それは、以下の略称弾丸列車計画だったのです。
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戦前における弾丸列車計画
その背景
1932年(S7)頃、日本から朝鮮半島や中国大陸への輸送需要は急増していた。当時の彼の地への最短ルートは、東海道本線、山陽本線で下関まで行き、釜山連絡線で釜山に上陸後、朝鮮総督鉄道、南満州鉄道を利用するルートであった。ところが、当時既に東海道本線および山陽本線は輸送力が逼迫した状態であり、新たな幹線(新幹線)を建設すべしとの意見が高まった。
工事年表
1938年(S13) 鉄道省内で鉄道幹線調査分科会が設立。
1939年(S14) 鉄道幹線調査会が設立され、従来の別線として広軌(標準軌)による高速列車(最高200km/h・蒸気機関牽引区間は150km/h)のスペックとされた。東京から下関間の設置駅数は旅客駅は、東京、横浜、小田原、熱海、沼津、静岡、浜松、豊橋、名古屋、京都、大阪、神戸、姫路、岡山、尾道、広島、徳山、小郡、下関の18とされた。これには沼津が入っているのだ。
1940年(S15) 鉄道省が東京・下関間新幹線建設基準を制定、同年議会で広軌幹線鉄道計画が承認さて、1954年(S29)までに開通を目標とした15カ年計画が決定した。これに基づき、用地買収・工事が開始されることになった。
1941年(S16) 新丹那トンネル着工、1943年(S18)戦況悪化により工事中断。
1941年(S16) 日本坂トンネル着工、1944年(S19)完成。
備考【大陸へのルート】
当初は下関駅で関釜連絡船に接続するとしていたが、同航路連絡船を車両搬送ができる様に改造して客車を載せて釜山・北京へ直通する案や、海底トンネルを掘ることも将来的に想定されたという。海底トンネルを掘る際は、佐賀県の東松浦半島付近から海底に潜って壱岐島・対馬を経て行くのが建設費等の面から有力とされ、実際に海底調査もなされたらしい。また対馬と朝鮮半島の間(朝鮮海峡)は海底が深いため、海底に橋脚を建ててその上に載せたチューブの中を列車が走るなどといった案や、吊り橋にする案も出されたが、結局は軍部が魚雷攻撃に遭ったら運行不能になるということで反対したために、通常の海底トンネルで建設を行うこととされた。なお戦後も、日韓トンネルとしてこの区間にトンネルを掘る構想が一部で存在したらしい。
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この戦前の弾丸列車計画を見て、新たな新幹線がたった2年でできた大きな理由が判るのです。つまり主な路線はほぼ決定し、用地の買収も済ませて(戦前戦中のことでかなり威圧的に行われた様です。)おり、長いトンネルも日本坂は完成済み、新丹那も着工中断だったということなのです。なお、弾丸列車の停車駅に沼津が明記されていることは注目に値します。ということは、まだまだ蒸気機関車が多くを占める環境の中、沼津機関区の存在感が高かった様にも思います。
なお、新幹線路線の経路は、弾丸列車当時からか現新幹線建設時に新たに変更したのかは明確ではないですが、三島駅までは従来駅とほぼ並列ですが、沼津駅から静岡までは、従来の東海道本線より山側を通る路線に変更されています。これは、原、吉原辺りまで、元々浮島と云われる地区で、地盤が軟弱であることから、根方街道の更に山側を切り通す路線に変更された様です。
さて、やっと本論たる沼津駅ができなかったという問題に触れますが、新幹線開通の翌年には三島信号所開設と記されています。これは、新幹線のメインの車庫は、東京大井にあるのですが、そのすべてを東京始発して入線させるとなると、ポイントの切り替えなど含め効率的でないことが判って来たのだと思います。それは、予想を超えて東海道新幹線の運行本数需要があることが認識されたが故でしょう。
そこで、三島車庫(長泉町本宿高架上)に5編成程度の車庫を準備し、朝1番の上り列車の「こだま」として東京まで運用し、折り返しは「ひかり」もしくは後年の「のぞみ」として博多まで走るという方式です。三島始発の「こだま」入線と、大井から入線の始発電車を相互に切り替えることにより、増発を可能にしています。
これに類似したものとして、後年に品川駅も作った訳です。品川始発と東京始発を相互に切り替えることで、到着後に再始発するまでの清掃などのアローアンスを生み出すことで、10分間隔ほどでの「のぞみ」運行という、JR東海以外が嫉む程の黄金路線をさらに過密ダイヤにして荒稼ぎをしている訳です。
とまた、本論が長引きましたが、JRとしては、従来線に100m程離れているとはいえども平行な三島車庫の分岐がある三島駅を作った方が良いだろうという思いはあったであろうと思います。しかし、弾丸列車の当時から沼津駅を入れていましたから、沼津に打診はしたのだろうと想像します。だたし、従来駅との並列は不可能であり、作るとしたら大岡もしくは岡宮辺りの根方街道と付近の直線路辺りであったろうと想像するのです。そして、ケチな国鉄(今のJRは更にケチ)なことですから、駅の造営費の半分ぐらいは自治体で持てぐらいのことを云ったとは私の想像です。これに対し、既存駅と離れるのは魅力ないし、駅の造営費負担も困ると云うのが当時の自治体長(市長)の判断だったのではと思えます。結局のところ、JRは車庫を作った三島に既存駅と並列に新駅を全線開通から5年後に設営します。この際、三島市に幾ら負担させたのか、詳細は不明です。まあ、三島から沼津間は、僅か既存のJR線で乗車時間5分の距離ですから、大きな問題はないと云うことだったのでしょう。ところで、この沼津駅の賛成反対の論議は、Netで様々探索する限り見られませんでした。
ところで、三島駅増設から18年を経たS63年に新富士駅、掛川駅、三河安城駅が新設されます。この内、新富士駅は既存駅とかなり離れた独立駅です。この新たな三つの新駅ですが、想像ですが地元自治体および特定企業の大きな力が働き実現(当然費用負担も)したのだろうと想像します。新富士は悪名高き日本最大の新興宗教集団でしょうし、三河安城はここから10キロ圏内にあるトヨタ自動車本社が該当するでしょう。掛川は自治体の大いなる要請があったのでしょう。しかし、これら新設3駅の乗降数は、先の新興宗教の本殿が喪失してしまってからは、三島に比べれば大きく見劣りし、存在価値があるのか疑うべきものです。
以上述べてきた様に、新幹線沼津駅は特段の反対運動はなかったと云うのが、私の得た結論です。ついでに、賛成とか反対でなく、地方自治体の興隆を図る要素として、有力な企業とか組織など誘致できるかということについ述べて本論を締めくくろうと思います。この様な街の発展に寄与する誘致ですが、誰にその帰趨が掛かるかといえば、それは間違いなく行政官の長たる市長と市議会でしょう。申し訳ないけど、賛成反対と念仏唱え、各町内会だけの利益代表みたいなボンクラ市会議員に、その様な命題を求めるとは、能力的にも不可能なことでしょう。市長は、沼津市という年間予算数十億の行政組織の長であり、企業で云えば代表取締役社長の立場であり、必要があれば市職員に命じて、各種調査や事前根回しなど命じることができる地位にある訳です。その様な視点で眺めると、近代の沼津市にその様な誘致の視点で、目に付く活動を行った名経営者に相当する市長は存在しなかった様に思えて来ます。
余談
函南町上沢に字名”新幹線”という地があるそうです。これは戦前に新丹那トンネルの掘削工事が始まった際に、現場作業員の宿舎が建設された際に名付けられた地だそうです。