ベネチア展ですが。
多分女性には理解されにくいと思います。
まあ、所詮は男目線ですね。
この絵を購入するのは男だから・・・。
では、気分を変えて。
このブログをご覧の淑女の皆様へ。
これは、先日の訪問者です。
ベネチア男の野望はまだ続きますが。
週末まで仕事が忙しくなるので、それまでサム君のお話でつないでおくつもりです。
月が変わりました
3月、と思うと春めいた気分で起きた今朝ですが。。。
そとに出ると
空色はグレー…雲優勢の空模様でした
それでも元気なヤツは
私をボール投げに誘います
今日明日はあまりお天気良くないようですが
三月三日~桃の節句のひな祭りは晴れたら良いですね
3月の誕生石はアクアマリン、ほんのわずかに緑色を感じる
透明感と煌めきを感じる石の色は
春の始まりを爽やかにしてくれる感じがします
3月の色ですね。。。
サテュロスとニンフです。
そのサテュロスは、欲情の塊として表現され、名前の由来は男根にあるらしいです。
この説明が、そのまま表現されている絵としての素晴らしさを感じます。
例えば、似たような絵をご覧ください。
これだと、モデルさんに「はい!ポーズをお願いします」。
パシャリ!
「はい、お疲れさまでした」という感じしかしません。
で、またこちらに戻ります。
写真集の解説書では、「サテュロスが岩場の布地の上に腰掛けている女性にまとわりついて、その足元には二人に気が付かない幼児が安らかに眠っている」そうです。
が、これからその解説を全面的に否定する考えを述べます。
まず、このニンフですが、人物としてはダナエとレダと同じだと思います。
レダが普通の顔
美人さんです。
ダナエは、欲情したレダの顔です。
そして、このニンフがダナエと全く逆の心情の顔として描かれています。
そう考えると、この絵の意とするところを理解することができます。
ハッキリと申し上げると、この絵は「陵辱」がテーマです。
それも、またベネチア男の野望ですから。
構図としては、サテュロスがニンフを押し倒したイメージです。
しかしながら、もしもサテュロスが正面から迫ったら、それはもうキリスト教の世界では受け入れられません。
したがって、背後から女体を押し開きます。
技法としてのトリックが、その行為を証明しています。
サテュロスの右肩に強い光が当たっています。
しかし、頭上からの光であれば、ニンフの身体の影と一致しません。
この絵を見た人が、まずニンフの胸元に視線が集まるように光を調整しています。
それなのに、サテュロスの右手に光を集めて注目させているのは、サテュロスの動きを示しているのです。
結果として、サテュロスがニンフの身体を開いている動きを表現しています。
それが証拠に、ネックレスに注目してください。
それは本来の位置よりも浮き上がっています。
上半身がのけぞっているのです。
このような、細かい描写を総合することで、限りなくリアルな世界を演出しています。
サテュロスは、右足の蹄でニンフのお尻を抱えています。
そして
左足の膝をニンフの股の間に割り込ませています。
これらの一連の努力で、ニンフがサテュロスに犯される場面を想像させることに成功しています。
二人が合意ではないのは、突然の出来事に戸惑っているニンフの表情です。
目の下にクマができています。
唇をわずかに開いているのは、「いやっ」といった風です。
そして作者は、決定的な陵辱を表現しました。
それはニンフがサンダルを履いているということです。
ヨーロッパ人は、靴を脱ぐ習慣がありませんから、絵画で裸足の女性は、もうすでにその状態で裸体であることを認め、裸体としての行為を受け入れているように見受けられます。
しかしサンダルを履いた状態では、その逆です。
ニンフは、男を受け入れる気持ちなど、まったくなかったと考えられます。
したがって、岩の上に敷かれた柔らかい布ではなく、脱がされたばかりの衣服だったことが分かります。
しかし作者が凄いのは、この絵の中に女性器を書き込んでしまったことです。
陰唇と思われる描写を影の中に紛れ込ましています。
(ここに示した画像写真では判別できないと思いますが)
見えない位置にあるものを別の場所に書き込むのは、まるでピカソです。
そして、サテュロスの男根ですが、作者はしっかりと表現しています。
寝ているはずの幼児の股間をご覧ください。
しっかりと指先で小さなペニスを握りしめています。
幼児だから許されるという世界よりも、男色のロリ趣味のベネチア男であったならば、それはもう驚愕の世界だったでしょう。
そのような解釈に対する根拠は、別の絵でご紹介します。
そして、19世紀の終わりになるとサテュロスとニンフは、こうなっています。