先日、お能「砧」を鑑賞いたしました。
そして、2か月近く過ぎて、やっと感想をまとめることができる心境になりました。
その理由は、お能の奥が深すぎるからです。
この題材は、超困難な表現だと感じました。
強く感じたのは、演者の悩みです。
先日観たベネチア展の絵画を引用すると、こんな感じです。
これは憂です。
受難を受け入れる母性の表現として、ものすごく考えさせられるものが表現されています。
しかし絵画は、ある意味で単純なので、お能の困難さとは別次元です。
さて、このマリア様が、性を枯渇する悩みを抱えていたとしたら、もはや絵画では「難題」となるはずです。
それを、お能で表現するとは、本当に可能なのでしょうか。
一方で、ツレの舞は明確でした。
この方は、初めてみたお能「二人静」で見事に舞われていたのですが、二人静でありながら、もう一方の演者との技量の差がつきすぎていて、一体感として評価が下がっていた気がします。
若いっていうのは、こんなことなのかと、思い直してしまいそうです。
マグダラのマリアは、性に枯渇する悩みを超えた崇高さを表現しようとしたものです。
はたして「砧」は・・・、
そして、2か月近く過ぎて、やっと感想をまとめることができる心境になりました。
その理由は、お能の奥が深すぎるからです。
この題材は、超困難な表現だと感じました。
強く感じたのは、演者の悩みです。
先日観たベネチア展の絵画を引用すると、こんな感じです。
これは憂です。
受難を受け入れる母性の表現として、ものすごく考えさせられるものが表現されています。
しかし絵画は、ある意味で単純なので、お能の困難さとは別次元です。
さて、このマリア様が、性を枯渇する悩みを抱えていたとしたら、もはや絵画では「難題」となるはずです。
それを、お能で表現するとは、本当に可能なのでしょうか。
一方で、ツレの舞は明確でした。
この方は、初めてみたお能「二人静」で見事に舞われていたのですが、二人静でありながら、もう一方の演者との技量の差がつきすぎていて、一体感として評価が下がっていた気がします。
若いっていうのは、こんなことなのかと、思い直してしまいそうです。
マグダラのマリアは、性に枯渇する悩みを超えた崇高さを表現しようとしたものです。
はたして「砧」は・・・、