陋巷にさまよう (野を拓く 第2部)

プアなわが道とこの世を嗤笑するブログ

プアについて(2)

2011-01-06 09:00:24 | Weblog
真性プアについて触れた。
繰り返すと、真性プアとは「オノレがプアであることを自覚していない者」をいう。
これを別の表現をすると、「悪人」に通ずる。
ここで悪人と言うは、腹黒い者や犯罪者を指すのではなく、
法然や親鸞のいう悪人でござります。
つまり、「善行を完遂できない身である事に気づいていない者」であり、
善悪の判断すらできないの者でござります。
「根源的な悪人」でござりますよ。

悪人と同じく、ヒトは、
オノレのココロが、アタマが、フトコロが貧しいということを自覚しなければなりませぬ。
その自覚が人の全ての出発点なのだが、
真性プアはそれが分かっていないのでござります。
どうしようもない存在なのでござります。
能天気ここに極まれリ、なのでござります。
こういう者が増えると、日本の、そして世界の未来はありませぬ。
いえいえ、逆にこういうニンゲンほど打たれ強く、しぶとく生きるんでしょうなあ。
何せ、本質が能天気なのでござりますからなあ。
むしろ、今の世はこういうニンゲンこそがあるべき姿なのかも知れませぬ。

しかし、これらのどうしようもない者でも、
親鸞はんは、『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』と言うてます。
良かったですなあ。
助かりましたなあ。
阿弥陀仏を信じ、「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われるそうですぞ。
「お願いしますぞ、阿弥陀さま」と言うたらええんですと。
ワタシも浄土真宗に改宗しましょうかのう。
いや、改宗とは違いますぞ。
ワタシは無宗教だから、新規の入信でござります。

考えるのだが、
悪人が救われるのだから、
「南無プア大明神」と唱えれば、真性プアのみならず、プアは救われるのでありましょうかなあ。
どこかの経典にその種のことが書かれていたら、教えてくださいましな。
無ければ、ワタシが経典を書きましょうかのう。
しかし、と改めて考えてみると、
救われるのは、僧侶とか、神主とか、神父などの職業人だけかも。
これらの方々は、本来は求道者のハズだが、今では職業となり、
年末年始なんぞ、不況知らずのビジネスで大忙しのようでござりましたぞ。
役人と並ぶ、民が羨望する職業の一でござります。
もっとも、お寺では、檀家制度がなくなってからは、翳りが生じているようですがね。
しかし、依然としてこれも真性プアの職業&ニンゲンでござりましょう。

今日は、真性プアについて書いたが、
次は、最近はやっているプアのお話しをいたしましょう。
「願望プア」と、「腰砕けプア」と、「居直りプア」でござります。

(この項、続く。)
コメント
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