今回は若きカエサル最大の危機の元になった、独裁やスッラとの関係について書く。
ルキウス・コルネリュウス・スッラは、名門中の名門コルネリュウスの血をひく、言動に明確で悪評に強く世間の評判を気にしなかった男であった。
スッラは、一切の寛容を持たない氷のような厳しい性格だったようであるが、それ以外の点では実にカエサルと似通ったところの多い人物だったと言われている。
BC83年当時、スッラ55歳、カエサル17歳であった。
元老院体制を維持しようと懸命なスッラは、4700名という膨大な数の政敵の処罰者名簿を作成し、完璧を期し激しい民衆派一掃作戦を展開、殺戮を行った。
この名簿の中にカエサルも含まれていたのは、伯父がスッラの政敵民衆派の有力者だったからであった。
まだ19歳と若いからという周囲の助命運動もあって、しぶしぶ同意したスッラは、カエサルとその妻の離縁を助命の条件にしたのだった。その理由は、カエサルの妻がキンナというスッラに敵対する民衆派有力者の娘だったからであった。
カエサルは、まずローマから少し離れた田舎に逃れ、それでも危険なのでギリシャを経て小アジアまで逃れ、そこで軍隊に入隊した。
22歳のとき、スッラが死去し当面の危機は去ったと考えローマに帰還し弁護士を開業した。ところが、弁護士として法廷に立つと、スッラの命令(妻との離婚)を拒否した若者であることが表面化し、再度国外に逃亡せざるをえなくなった。これが前回の、留学の動機であった。
ロードス島に留学中に、伯父のアウレリュス・コッタ死んでその空席を埋めるようにカエサルが任命されたのが、神祇官で、このため急遽ローマに帰国した。
さらに27歳になったカエサルは、さらに高級将校にあたる大隊長に立候補し当選した。これ以降ゆっくりと着実に出世をはたし、31歳になってようやく会計検査官に当選している。ついにカエサルも「名誉あるキャリア」の第一歩を歩み始めたのであった。
(注)ローマでは、会計検査官に始まり執政官にいたる国家の要職はすべて「無給」であった。無給でも名誉の方を大切にしたローマ人は実に偉い民族だと思うのだが、読者の皆さんは如何お考えだろうか。
また、多くの役職は、選挙による方法で選ばれていた。選挙に勝つためには投票する人の人気を得なくてはならない、このためにいったいカエサルはいかなることをしていたのか大変気になるのである。