(10月14日の続き)高野山に上る七口の一つ、弘法大師(空海)
が開いた祈りの道、高野山町石道の後半を歩いてきた。
現地への最寄駅、南海高野線上古沢駅についたのが9時半
ここから前回ゴールで今回スタートの笠木峠を目指して小雨の
中を行く。
前日からの雨を含んだ道は滑りやすいので歩幅を小さくしなが
ら厳しい上り道を1時間20分、ようやく峠にたどりついた。
高野山の根本大塔前にある町石1番がゴール、前回は180番
の慈尊院から86番町石まで歩いて来ているので6町石の大門
到着を14時半とした。
前回の通り、ひとつひとつの町石を見逃さないように撮影して
手を合わせてすすむ。かっては、この町石そのものが信仰の
対象とされ参拝する人は1町ごとに手を合わせたそうだ。
笠木峠からしばらく歩いたところで、50歳くらいの男性が後ろ
からきた。声をかけると180番の慈尊院から来たという、早い。
しばらく話をしながら進むが、写真を撮る自分と同じようには
進めない、お先にどうぞと行ってもらった。
1人になってほっとしていたら?また、次の人が来た。
この人、挨拶だけ、顔も真剣、話かけられる雰囲気ではない。
町石には目もくれないで猛烈な勢いで行ってしまった。
そんなに急いでどうするの?
しばらくすると向かいから男性6人のグループが来た。
こんにちは!
ひとりひとり、きちんとあいさつを交わして気持ちのいい出会い。
その後もバラバラ何人かに会ったが、最後に会った二人の
女性は大丈夫かと心配になるくらいしんどそうだった。
気をつけて行ってくださいね・・・思わず、口に出た。
結局、その人が最後で高野山の入口の大門までだれにも
会うこともなく、小雨の中の単独ウォークを続けた。
道標の町石に掘られている言葉・・・梵字はわからない。
なんとか読めるものはないかと今回は執念を燃やして
ひつこく町石をよく見て歩いていたら・・・・発見した。
いくつかの町石の横面の下の位置に製作日なのか年月の
入った町石を見つけた。文永七年二月と掘られている。
写真にも撮ったが、どれも文永6-8年のもの。
空海(弘法大師)が開山したときは木製の卒塔姿を建てたが
朽ちてきたので鎌倉時代になって弘法大師の生誕地である讃
岐産の花崗岩を使った石塔に建て替えられたという。
文永2年(1265)から弘安8年(1285)まで20年かかり完成
した。50町石くらいが補修され、あとは当時のままだそうだ。
どの町石にも五輪塔がつけられているが、町石は下から地、水、
火、風、空を表現して方、円、三角、半月、団の形の五輪を積み
上げたような形になっている。
五輪塔は平安時代中期以降に建立されるようになり高野山が
発祥の地という。
一般道路と交差する矢立茶屋でちょうど12時
小雨に濡れて身体も冷えているのでここで温かいものを
いただこうかと思ったが弁当を持っているのでパス。
しばらく急坂を上り、35番石を過ぎたところにある袈裟掛石へ
弘法大師が袈裟をかけたという石らしい。
この岩のような石、真中に穴があいていて、そこをくぐれると
長生きすると言われがあるらしい、ほんとうならくぐりたいが
のぞいてみても大人の男性はまず無理だろう
もし、出られなくなったら長生きどころではないぞ!
すぐ横の木の根っこのところにシートを敷いて雨の中の
昼食とした。弁当に雨が落ちる。
新旧二つの33町石、左が新、右が旧。がけ下に転落し埋も
れていた旧町石が平成十年に発見され補修して建てたもの。
さらにすすんで押上石の前に着いた
ここは、弘法大師の母が結界を越えて入山しょうとしたとき激
しい雷雨が火の海となり弘法大師はこの大岩を押し上げて母を
かくまったと伝えられているところ。
このあたりから、周囲を圧倒するような杉の老巨木が
両側に迫ってくる、その間を進むのが怖いくらいだ。
小雨の続く道を上り下りしながらどんどん進んで行く
木の根元に小さなお地蔵さんがしっかり見守ってくださる
立ち止まって手を合わせて少ない小遣いから・・・
半分埋もれている町石もある。長い間ご苦労さん!
町石の数がだんだんと少なくなっていくので
高野山上が近付いていることがわかる
時々見える向こうの山々がけむってわずかに見える。
上り下りの道もけむってきて、いよいよ聖地への入口かと
不思議な気持になっていく。
そうそう、道中の木々の枝に、板切れや布切れがいたるとこ
ろにかけてあるが、どれにも「へんろ道」と書いてある。
そうだ
ここは遍路道、どれだけ多くのお遍路さんが通ったことやら
そして、いまなお、通り続けているのやら
その人たちの足あとを踏ませていただき
ぬくもりを感じながら歩いていることで
自分も一日お遍路さんをさせていただいていると
とても不思議なつながりを覚えた。
杉の木に前を塞がれた11町石。後からくっつくように生えて
大きくなったと思われる、町石がいかに古くからここに立って
いるか想像できる。
最後に続く長い急な坂道を上ぼりきると
そこには、朱色の大きな大門が迎えてくれていた
ここは天上の聖地、高野山の入口だ。14時10分。
ここにある町石が6番目。あと1町石までは5つ。
去年、ここに来たのは真夏だった
これから高野山の奥の院まで一回りだ。
まず、大伽藍へ
819年の高野山開山に空海が創建した金堂から伽藍参り。
すぐ横にある根本大塔は、周囲を圧倒する50メートルの朱塗り
の塔、真言密教の源泉という意味も込めて根本大塔といい現在
の大塔は昭和9年に建てたもの。
ここは堂内にある真言密教の世界を代表する大日如来と
金剛界四仏が安置されている、この仏様も大きい。
伽藍内をゆっくりと見て回り東側にある金剛峯寺へ
高野山真言宗約3600寺の総本山だ
ここにはお揃い姿のお遍路さんが大勢来ていた
弘法大師の歩いた四国88ケ所霊場めぐりの結願成就の
お礼参りを済ませて戻ってきた人なのだろう。
念願の1町石まで行き写真も撮れた。
弘法大師の眠る奥の院まで行くことにした
1000メートルの高野山は、いま、紅葉の真っ盛り。
町石をめぐりながら紅葉の美しい道々を奥の院入口まで
十分に楽しませてもらった。
いよいよ奥の院
入口の一の橋から弘法大師ご廟までの約2キロの浄域。
その一の橋を渡るとそこは巨大な杉の老木が左右に林立し
両側には20万基以上の墓石や供養塔が並んでいる。
秀吉や信長、信玄等の武将から著名人、ありとあらゆる層の
周囲を圧倒する墓石や供養塔には、カメラを向ける手にまで
緊張が走る、奥の院も初めてではないのに、なぜか足が鈍る。
仙台伊達家墓所
薩摩島津家墓所
弘法大師ご廟まで延々と続く・・・30分も
豊臣家墓所
織田信長墓所
御廟橋をわたる
ここでは、だれもが手を合わせお辞儀をして橋をわたり
ご廟に向かう。
そして橋をわたって戻ってきた人もご廟を向いて手を合わせ
お辞儀をしている・・・
写真撮影は禁止、脱帽。
静かに長い道をすすむと弘法大師廟につく。
180の町石を2回に分けて、奥の院までゆっくりと歩いて
みたいという当初の思いは実現した。
高野山上は、ひとつの町
1000メートルの山上なのに坂がなく平地で
そこに大伽藍を中心に宿坊が連なり
祈りの町が形成された聖地だ。
奥の院のさらに一番奥にある弘法大師のご廟にお参りして
夕暮れの高野山を後にケーブルで南海極楽橋へ下り、電車で
帰路についた。
紅葉の高野山は、とても安らぎの時間だった
○2007.7.9「世界遺産の高野山を歩く」のブログあり。
が開いた祈りの道、高野山町石道の後半を歩いてきた。
現地への最寄駅、南海高野線上古沢駅についたのが9時半
ここから前回ゴールで今回スタートの笠木峠を目指して小雨の
中を行く。
前日からの雨を含んだ道は滑りやすいので歩幅を小さくしなが
ら厳しい上り道を1時間20分、ようやく峠にたどりついた。
高野山の根本大塔前にある町石1番がゴール、前回は180番
の慈尊院から86番町石まで歩いて来ているので6町石の大門
到着を14時半とした。
前回の通り、ひとつひとつの町石を見逃さないように撮影して
手を合わせてすすむ。かっては、この町石そのものが信仰の
対象とされ参拝する人は1町ごとに手を合わせたそうだ。
笠木峠からしばらく歩いたところで、50歳くらいの男性が後ろ
からきた。声をかけると180番の慈尊院から来たという、早い。
しばらく話をしながら進むが、写真を撮る自分と同じようには
進めない、お先にどうぞと行ってもらった。
1人になってほっとしていたら?また、次の人が来た。
この人、挨拶だけ、顔も真剣、話かけられる雰囲気ではない。
町石には目もくれないで猛烈な勢いで行ってしまった。
そんなに急いでどうするの?
しばらくすると向かいから男性6人のグループが来た。
こんにちは!
ひとりひとり、きちんとあいさつを交わして気持ちのいい出会い。
その後もバラバラ何人かに会ったが、最後に会った二人の
女性は大丈夫かと心配になるくらいしんどそうだった。
気をつけて行ってくださいね・・・思わず、口に出た。
結局、その人が最後で高野山の入口の大門までだれにも
会うこともなく、小雨の中の単独ウォークを続けた。
道標の町石に掘られている言葉・・・梵字はわからない。
なんとか読めるものはないかと今回は執念を燃やして
ひつこく町石をよく見て歩いていたら・・・・発見した。
いくつかの町石の横面の下の位置に製作日なのか年月の
入った町石を見つけた。文永七年二月と掘られている。
写真にも撮ったが、どれも文永6-8年のもの。
空海(弘法大師)が開山したときは木製の卒塔姿を建てたが
朽ちてきたので鎌倉時代になって弘法大師の生誕地である讃
岐産の花崗岩を使った石塔に建て替えられたという。
文永2年(1265)から弘安8年(1285)まで20年かかり完成
した。50町石くらいが補修され、あとは当時のままだそうだ。
どの町石にも五輪塔がつけられているが、町石は下から地、水、
火、風、空を表現して方、円、三角、半月、団の形の五輪を積み
上げたような形になっている。
五輪塔は平安時代中期以降に建立されるようになり高野山が
発祥の地という。
一般道路と交差する矢立茶屋でちょうど12時
小雨に濡れて身体も冷えているのでここで温かいものを
いただこうかと思ったが弁当を持っているのでパス。
しばらく急坂を上り、35番石を過ぎたところにある袈裟掛石へ
弘法大師が袈裟をかけたという石らしい。
この岩のような石、真中に穴があいていて、そこをくぐれると
長生きすると言われがあるらしい、ほんとうならくぐりたいが
のぞいてみても大人の男性はまず無理だろう
もし、出られなくなったら長生きどころではないぞ!
すぐ横の木の根っこのところにシートを敷いて雨の中の
昼食とした。弁当に雨が落ちる。
新旧二つの33町石、左が新、右が旧。がけ下に転落し埋も
れていた旧町石が平成十年に発見され補修して建てたもの。
さらにすすんで押上石の前に着いた
ここは、弘法大師の母が結界を越えて入山しょうとしたとき激
しい雷雨が火の海となり弘法大師はこの大岩を押し上げて母を
かくまったと伝えられているところ。
このあたりから、周囲を圧倒するような杉の老巨木が
両側に迫ってくる、その間を進むのが怖いくらいだ。
小雨の続く道を上り下りしながらどんどん進んで行く
木の根元に小さなお地蔵さんがしっかり見守ってくださる
立ち止まって手を合わせて少ない小遣いから・・・
半分埋もれている町石もある。長い間ご苦労さん!
町石の数がだんだんと少なくなっていくので
高野山上が近付いていることがわかる
時々見える向こうの山々がけむってわずかに見える。
上り下りの道もけむってきて、いよいよ聖地への入口かと
不思議な気持になっていく。
そうそう、道中の木々の枝に、板切れや布切れがいたるとこ
ろにかけてあるが、どれにも「へんろ道」と書いてある。
そうだ
ここは遍路道、どれだけ多くのお遍路さんが通ったことやら
そして、いまなお、通り続けているのやら
その人たちの足あとを踏ませていただき
ぬくもりを感じながら歩いていることで
自分も一日お遍路さんをさせていただいていると
とても不思議なつながりを覚えた。
杉の木に前を塞がれた11町石。後からくっつくように生えて
大きくなったと思われる、町石がいかに古くからここに立って
いるか想像できる。
最後に続く長い急な坂道を上ぼりきると
そこには、朱色の大きな大門が迎えてくれていた
ここは天上の聖地、高野山の入口だ。14時10分。
ここにある町石が6番目。あと1町石までは5つ。
去年、ここに来たのは真夏だった
これから高野山の奥の院まで一回りだ。
まず、大伽藍へ
819年の高野山開山に空海が創建した金堂から伽藍参り。
すぐ横にある根本大塔は、周囲を圧倒する50メートルの朱塗り
の塔、真言密教の源泉という意味も込めて根本大塔といい現在
の大塔は昭和9年に建てたもの。
ここは堂内にある真言密教の世界を代表する大日如来と
金剛界四仏が安置されている、この仏様も大きい。
伽藍内をゆっくりと見て回り東側にある金剛峯寺へ
高野山真言宗約3600寺の総本山だ
ここにはお揃い姿のお遍路さんが大勢来ていた
弘法大師の歩いた四国88ケ所霊場めぐりの結願成就の
お礼参りを済ませて戻ってきた人なのだろう。
念願の1町石まで行き写真も撮れた。
弘法大師の眠る奥の院まで行くことにした
1000メートルの高野山は、いま、紅葉の真っ盛り。
町石をめぐりながら紅葉の美しい道々を奥の院入口まで
十分に楽しませてもらった。
いよいよ奥の院
入口の一の橋から弘法大師ご廟までの約2キロの浄域。
その一の橋を渡るとそこは巨大な杉の老木が左右に林立し
両側には20万基以上の墓石や供養塔が並んでいる。
秀吉や信長、信玄等の武将から著名人、ありとあらゆる層の
周囲を圧倒する墓石や供養塔には、カメラを向ける手にまで
緊張が走る、奥の院も初めてではないのに、なぜか足が鈍る。
仙台伊達家墓所
薩摩島津家墓所
弘法大師ご廟まで延々と続く・・・30分も
豊臣家墓所
織田信長墓所
御廟橋をわたる
ここでは、だれもが手を合わせお辞儀をして橋をわたり
ご廟に向かう。
そして橋をわたって戻ってきた人もご廟を向いて手を合わせ
お辞儀をしている・・・
写真撮影は禁止、脱帽。
静かに長い道をすすむと弘法大師廟につく。
180の町石を2回に分けて、奥の院までゆっくりと歩いて
みたいという当初の思いは実現した。
高野山上は、ひとつの町
1000メートルの山上なのに坂がなく平地で
そこに大伽藍を中心に宿坊が連なり
祈りの町が形成された聖地だ。
奥の院のさらに一番奥にある弘法大師のご廟にお参りして
夕暮れの高野山を後にケーブルで南海極楽橋へ下り、電車で
帰路についた。
紅葉の高野山は、とても安らぎの時間だった
○2007.7.9「世界遺産の高野山を歩く」のブログあり。