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雑踏の中の“暴走族”

2010-12-05 18:49:42 | コラム・社会
「暴走族」、1970年代から1980年代に大きな社会問題となった現象である。
しかし、以前ほどに神経質に取り上げられない事が象徴しているように、現在では凶悪・社会犯罪性のある事象を示すのではなく、騒音対策や予算確保の手段として取り上げる傾向が増えており、まさに“死語”への道を歩んでいる最中である。

しかし、雑踏の中には「暴走族」が居て、時に困った現象を引き起こしている。
それは、ベビーカーである。

ベビーカー(乳母車)は、赤ちゃんや幼児を乗せる三輪または四輪の乗り物で、その背後から母親や父親など大人が押して進む移動機材で、こんな説明が不要なほど多くの人は知っている事と思う。

では、どこが“暴走族”なのか?

雑踏(歩行交通社会)の中、ワガモノ顔で時に安全無視して進む例が散見されるからである。

押している本人からベビーカー先端まで約1m強、車体先端の高さは50cm程度、その部分を雑踏の中に押し込んで進む道を作っているかのような走行をよく目にする。

例えば交差点に差し掛かった時、一般的な乗用車の場合は安全を確保するために徐行や一旦停止をするが、あの車の場合には一旦停止という行為が出来ないようなのだ。

雑踏の中、視線よりもずっと低い高さを移動する物体を確認する事は時に困難である。
それが単なる荷物車であれば大きな問題とならないが、“人”が乗っているとなれば別問題である。

その車の運転者は、視線から低く認識され難い場所に“人”を乗せている事を忘れ、まるで世の中の人全ての視線を集めているかの如く振る舞い、ニアミスが発生しても「あなたが道を譲るのが当然!」の如くの運転をして去っていく。
これが“暴走族”と評している理由である。

雑踏の人々は知っている。
例え“暴走族”であっても、運転している人にとっては大切な“宝”を乗せているのであり、一目を置いて尊重されるべきだという潜在的意識によって操縦されている事を。
自主的に道を譲らなければ、その後には叱責や非難、中傷の攻撃が待っている事を。

いいでしょう! 道は譲りましょう。

けれども心配があります。
本物の“暴走族”は、その人の人生においては大抵は一過性のもので、卒業する時が来る。
しかし、あの“暴走族”は卒業する事が無いように見えるのが心配です。

ベビーカーを降りた後でも、見えない“車”に乗せられたまま社会という雑踏の中を突き進んでいるのではないだろうか?
それが、本来は家庭や社会全般で対処すべき問題でさえ学校教育の責任へと転化する現象を引き起こし、社会性という認識が薄い世代を生み続けている原因になっているのではないだろうか??

う~~ん

だとすれば、“暴走車”に引き下がっていたままでは、これからの社会を良くする事ができないように思う。

困った“暴走族”問題である。


意志の発信

2010-12-05 17:15:28 | コラム・社会
幼い頃からの教育の影響か、社会人生の中で「意志の発信(表明)」はさほど尊ばれていないように考えられている。

何よりも尊ばれ大切に教育される事は、「能力」や「知識」である。
職に就くにも、進学するにしても、「能力」と「知識」が問われ、本人の「意志の発信」にはさほど考慮されてない。

そのため、一般教育機関は当然の事として、家庭内の教育でさえ「意志の発信」という能力には重きを置いていないし、具体的な教材さえ見当たらない。

実は、社会史を少し振り返れば明らかなように、社会は「能力」や「知識」だけで構成されていない。
確かに、原始の時代の狩猟や農耕技術に始まり、近代の産業革命からIT革命などは「能力」や「知識」によってもたらせたと表現しても良いのかも知れない。

しかし、社会は「意志の発信」によって大きな影響を受けており、それによって日々変化を続けているのである。

「意志の発信」の象徴的な行為の一つが「デモ行進」だろう。

近代史を振り返ってみれば、社会を大きく変革させるきっかけとなった「意志の発信」は幾つも挙げられる。
例えば、1930年のマハトマ・ガンディーが率先した「塩の行進」、1963年のキング牧師が呼びかけた「ワシントン大行進」、1989年のベルリンの壁崩壊へとつながったチェコスロバキア(当時)での「ビロード革命」、そして同年には未完に終わっているが「天安門事件」などがある。

このように「意志の発信」は社会を変える力があるのは明らかで、仮に行進のように複数で行なわなかったとしても、ひとり一人が自らの生活環境を変えて人生を創りあげていくためにも、「意志の発信」という行為は尊ぶべき事であり欠かしてならない。

* * * *

では、現代においての「意志の表明」について考えてみよう。

日本において「デモ行進」が最も影響を発揮した時代は過去のものとなっている。
1960年代から1970年代にかけて頻発した「メーデー」や「学生運動」に象徴させる行動は、確かに日本社会を改革していく大きな力となった事は否定できない。
しかし、日本国内ではそれ以降はそれに該当する行動は目立たず、「能力」や「知識」を偏重する教育や社会情勢に押しつぶされていると言えるだろう。

「待て! 選挙は意志の発信だろう!」
「それに、内閣支持率などによって政治が改革されているも意志の発信による効果では?」
「一般的な商業活動から証券売買など、全て意志の発信によって変動しているぞ!」

などという反論もあるだろう。
それは正論だし、確かに「意志の発信」は発揮されていると言えるし否定できない。

ただ、それらの「意志の発信」のレベルは低いと言わざるを得ない。
前記のような命の危険性を含んだ行進レベルを望むものではないが、二者択一や取捨選択の行為レベルでは一人ひとりの尊厳ある「意志の発信」とは言えないだろう。

「デモ行進」をすぐに起こせと言っているのではなく、日々の生活の中で「意志の発信」のレベルを高めていく事が大切であり、その行為が他の方の人生や社会を変えていく力を秘めている事を深く認識して行動をして事を提唱しているのだ。

* * * *

<続く>

○ 「 ***といいかな と思います」 問題
○ マスメディア技術の発展と浸透による発信能力の向上
○ 視聴率、アクセス数 偏重による 迎合化と意志の希薄化現象
○ “わがまま”発揮能力向上のススメ